鈴木志郎康「1 詩」ほか(「現代詩手帳」2021年07月号)
鈴木志郎康は「五つの詩」を書いている。連作、ということになるのか。「1 詩」がいちばんおもしろい。
詩って書いちゃって
どうなるんだい。
詩を書いてなくて、
もう何年にも、
なるぜ!
ノートを買ってきてくれた
ゆりにはげまされて、
なんとかなるかって、
始めたってわけ。
それゆけ、ポエム。
それゆけ、ポエム。
何も書くことがない。書くつもりもなかった。でも、原稿依頼が来た。どうしようか。「ゆり」がノートを買ってきた。励ましてくれた。それじゃあ、書いてみるか。それだけのことであるが、ここには「嘘」がない。あるのかもしれないけれど、「嘘」がみえない。それが、とてもおもしろい。
これが、詩か、と正面切って質問されたら、ちょっと困るなあ。
でも、これでいいんだ、と思う。
ことばを動かそうとしている。
「それゆけ、ポエム。/それゆけ、ポエム。」というのは詩への励ましなのか、鈴木自身への励ましなのかわからないが、どっちでもいいだろう。もしかしたら鈴木のことばではなく「ゆり」のことばかもしれない。
わかるのは、ことばが動いていけば、それが詩なのだ。
「ゆけ」だけではなく「それゆけ」というのがいいなあ。
その次の「2 85」というのも好きだなあ。これが「五つの詩」のなかではいちばん傑作かな。
始まりの数字なのだ。
それから1年が過ぎるとしだ、
85は1年から85年が過ぎた数字だ。
85を過ぎ、86、87、88へ進む。
85は現在の私の年齢だ。
それが86、87、88へ、
進んで行くのか、
進んで行くって、比喩だ。
この比喩は闇だ。
その闇に光を当てると、
命が現れる。
そして、85歳のわたし。
何か、ほっとした心が浮かぶ。
「85を過ぎ、86、87、88へ進む」のは、自然なこと。そこには「論理」(ことばの運動)はない。でも、ことばにすると、それがことばの運動になり、書いても書かなくても変わらないことが、書くことによって動きという「真実」になる。「事実」の方がいいかなあ。
というのは、その「運動の事実」、鈴木は「進んで行く」と書いているのだが、そう書いたとたんにそれが「事実」であるはずなのに「比喩」になって成立し、比喩はさらに比喩を呼び出し、「自立して」動き始める。ここがすばらしい。詩のハイライト(さび? 泣かせどころ、きかせどころ)は、次の「その闇に光を当てると、/命が現れる。」にあるのだが、そこへもっていく(たどりつく)までの過程に「嘘」がない。こういう「正直」は、私は大好きだ。「その闇に光を当てると、/命が現れる。」というのは、意味が強すぎてうるさいといえばうるさいが、このうるささが鈴木の「自己拡張/自己増殖」のうるささなのだ。
「そんなこと85にもなって言うなよ。命じゃなくて、死の方が近いだろう。死が現れる、と書けよ」と、巷のひとは言うかもしれない。
ある百歳近い人の葬儀だったか通夜だったか。九十歳を過ぎた人が「私も後十年だなあ」と言ったら、近親者が「ばかいってもらっちゃ困る。さっさと死んでくれ」と影でぼそりと言ったが、そういう不躾なことばでないと対抗できない「強さ」が、鈴木の詩にはある。
八十五歳になって、長い間詩を書いていないといいながら、書き始めるとことばがかってに「事実」をつかみとって、その向こうまで行ってしまう。鈴木の詩も、自分が自分ではなくなるところまで、ことばの勝手な「自己拡張」にひっぱられて行ってしまい、行ってしまって、もう自分ではないのに、それが「現在の自分(85歳のわたし)」と言い切ってしまう。
こりゃあ、太刀打ちできないね。私なんかには。だから、こんなふうに乱暴な感想を書く。若者と向き合うよりも、白石や鈴木のような老人と闘う方が体力がいる。まいったね。
「3 赤ちゃん」では赤ちゃんのかわいさ、生命力を讃美した後、「そしてわたしも生きのびて来た。」と書くのだが、これは「わたしはかわいいのだ」という声にしか聞こえない。すごいよ、これは。
鈴木の詩は「1」「2」「3」「4」「5」と進むにしたがって長くなっている。書くことでだんだん元気になって行っている。詩が鈴木を元気にさせているのだ。当然のことなのかもしれないが、これも、すごいとしか言いようがない。この調子だと、鈴木は死なないね。死ねないね。私の方が確実に先に死んでしまうなあ、と思うのである。
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