José SARAMAGO『Enasayo sobre la ceguera』は『白い闇』というタイトルでNHK出版から刊行されている。(雨沢泰訳、2001年03月25日発行)。その一行目(書き出し)を読んで私は、あっ、と叫んでしまった。
Se ilumino el disco amarilló.雨沢は「黄色がついた。」と訳している。「黄色」は信号の黄色である。
私が読んだのはスペイン語版でポルトガル語ではないのだが、スペイン語、ポルトガル語は「兄弟言語」のようなものなので、たぶん、「意訳」は入っていないと思う。
雨沢の訳に間違いはない。「disco 」を雨沢は訳出していないが、「信号」という意味がある。ふつうは「semáforo 」をつかうことが多いと思う。それをサラマーゴは円盤という意味もある「disco 」と書いている。これは、とても重要である。なぜか。この小説は「視覚」が重要なポイントだからである。
サラマーゴはノーベル賞を受賞しているし、『白い闇』は映画にもなったので、多くの人が知っていると思うが、突然、人間が盲目になるストーリーである。盲目といっても「白い霧」のようなもので視界を覆われる。そして、その病気は感染する。その書き出しの一文。日本語で読んだときは特に何かを感じたわけではないが、スペイン語で読んでびっくりした。「disco 」の一語が、非常に刺戟的なのである。
信号が黄色に変わった(黄色の光に変わった)でも「視覚」は表現されるが、サラマーゴはあえて「まるい(円盤)」を明確にしている。そこには作者の強い意識が動いている。私は四角い信号や、三角の信号は見たことがないが、たぶん、どんな形をしているにしろ、「赤、黄色、青(緑)」の光が交差点にあれば、それを信号と思うだろう。信号を見るとき、わざわざそれが四角か三角か丸かを意識しない。色だけを意識する。だからこそ雨沢も「黄色」だけを訳出している。しかし、それでは小説の導入として不十分なのである。サラマーゴは、視覚を意識しているからこそ、視覚を刺戟することばをあえて挿入しているのである。刺戟するために「disco 」ということばをつかったのだ。それは、そのすぐあとにあるもう一つの信号の描写にもあらわれている。
En el indicador del paso de peatones apareció la silueta del hombre verde. (横断歩道にある緑色の男の絵が明るくなった。)「男の絵」は原文では「男の影」である。影はもともと暗い。それが明るくなった。男の姿(シルエット)は、たしかに周りの黒や青(緑)よりも明るい。その明るい部分は、なんとサラマーゴはシルエット(影)と読んでいるのである。この「矛盾」のようなことばの使い方にも、意識が刺戟される。
単に「具体的」な形、色だけではなく、たとえば「ゼブラゾーン」について触れた部分もそうである。シマウマに似ていないのに、ゼブラゾーンと呼ばれるのはなぜか。譬喩は一種の抽象であり、抽象化は形而上学(哲学)へとつながっていくが、そういうことが書き出しの一段落で「予告」されているのである。「意味」ではなく、「ことば」そのものの具体的な効果によって。
雨沢の訳文で「意味」は全部わかるが、サラマーゴのことばは、ことばが「意味」になるとき、通り抜ける「意識、感覚」の回路が非常に微妙な形で文章化している。言語化している。そのことに気づき、私はあっと叫んだのである。ことばによって視覚が刺戟され、目覚める。何気なく見ていたものが、もっと具体的に迫ってくのである。そのために、これから始まる視覚の異変が生々しく迫ってくる。
雨沢の訳が間違っているというつもりはないが、ずいぶん簡略化している。そして、その簡略化された部分に(訳出されていない部分に)、サラマーゴの意識が動いている。雨沢の訳では不十分である。まだるこっしくても、信号の丸いライトが黄色に変わったとか、なんとかして「丸い」を訳文に入れないことには、サラマーゴの工夫(意識)が反映されているとは言えない。
で。
文学というのは、やはり原文で読まないといけないのだ、と思った。(私は、原文で読んだわけではないが。)「意味」ではなく、どういう「表現」をするかが文学の基本なのだ。それを知るには「原文」に触れるしかないのである。
どうでもいいことかもしれないが、付け足し。
信号の色を、雨沢は最初は「緑」と訳出し、二段落目では「ようやく青に変わり」と「青」と訳している。いまでは、日本語の青と外国語の緑は同じ色と知っているひとは大勢いるが(信号の青を、外国語では緑ということを知っているひとは大勢いるが)、どちらかに統一した方がいいだろうとも思った。