金永郎『金永郎詩集』(韓成禮・訳)(新・世界現代詩文庫)(土曜美術社出版販売、2019年10月31日発行)
『金永郎詩集』を読み始めてすぐ気づくことがある。短い詩なのだが、繰り返しが多い。
私は目を閉じた 閉じた (丘に仰向けになって)
ウグイス たった二羽 たった二羽のようだ (だれの眼差しに射られたのでしょう)
これはなぜなんだろう。
よくわからない。
ところが、「牡丹雪」。
風の吹くままに訪ねて行くでしょう
流れるままに契りを交わしたあなただから
もしや! もしや! と耳を澄ましたのが
愚かだとは酷いですね
目張り紙の悲しみに身がしびれ
降る牡丹雪に胸が張り裂け
甲斐がない! 甲斐がない! 知らないはずはないのに
私に愚かだとは酷いですね
この「もしや! もしや!」「甲斐がない! 甲斐がない!」は痛切に迫ってくる。男がもう一度会いに来てくれることを願いながら、それを伝えることができずに、苦しんでいる。その苦しみは「声」にならずに、「胸の中での叫び」として迫ってくる。胸の中で、喉が破れるくらいの大声で「もしや! もしや!」「甲斐がない! 甲斐がない!」と叫んでいる。
そして、その「叫び(大声)」は、「声」になることもできない思いを隠している。というか、それ以外のことばになりようがないのだ。思いはもっともっとある。しかし、ことばになるのは、それだけなのだ。だから、それを繰り返す。一度では足りない。ほんとうは、もっと言いたいことがある。
全ての繰り返しがそうだとは言わないが、この「牡丹雪」では、そういう印象が強い。
そのあとに繰り返される「愚かだとは酷いですね」「私に愚かだとは酷いですね」は、静かで、その静けさが、とてもつらい。
そして。
この最終行、
私に愚かだとは酷いですね
この行が、とても美しい。繰り返しのようで、繰り返しではない。「私に」ということばが付け加えられている。
この「私に」に注目していえば、繰り返されることばは、自分から発せられるものだが、他人に向けてではなく、自分に向かって叫んでいるのだ。「私に」聞かせるためのことばなのだ。
丘に仰向けになって
はるかな青い空 何気なく眺めていたら
私は忘れた 涙のにじむうたを
あの空は気が遠くなるほどはるかだ
この身の悲しみを 丘こそ知っているだろうが
心惹かれる笑顔が ひとときでも無かっただろうか
気の遠くなる空の下 愛らしい心 粘り強い心
私は目を閉じた 閉じた (丘に仰向けになって)
「目を閉じた」のは「私」である。だから、それは他人に言わなくてもわかる。自分のことだから。しかし、自分に言い聞かせるのだ。いまは目を閉じて、思い出すときだ、と。「愛らしい心」「粘り強い心」が私にはある。私の心は生きている、と。思い出し、言い聞かせるのである。
「見て、紅葉になりそうよ」にも、そういう読み方はできるか。
「見て、紅葉になりそうよ」
みそ甕の置き台に膨らんだ柿の葉が舞い込み
妹は驚いたように見つめ
「見て、紅葉になりそうよ」
秋夕が明後日に迫っている
風がずい分吹くので心配なのだろう
妹の心よ、私を見よ
「見て、紅葉になりそうよ」
「見て、紅葉になりそうよ」は妹のことばである。だから、自分に言い聞かせるというのは少し違うかもしれない。しかし、「妹の心よ、私を見よ」という一行に注目すれば、「見て、紅葉になりそうよ」ということばが「私の心」のなかにあることは一目瞭然だ。私は妹に呼びかけているのではなく、「妹の心」に呼びかけている。そして、「妹の心」が見るのは、私の顔ではなく、姿ではなく、「私の心」なのだ。
私の心のなかに「見て、紅葉になりそうよ」ということばがしっかりと存在している、と詩人は書いているのだ。
「牡丹雪」の「私に愚かだとは酷いですね」の「私に」ということばは原文にあるのかどうか、私は知らない。同じように、一連目の「愚かだとは酷いですね」に「私に」ということばがないのかどうか、私は知らない。もし原文が両方とも「私に」を持っている、あるいは持っていないけれど、韓成禮が日本語に訳すときつかいわけたのだとしたら、この訳は大変すばらしい。原文がそのまま持っているのだとしても、そこに詩のポイントがあると意識し、しっかり翻訳する意識もすばらしい。
私は、ある作品の中で、どうしても書かれなければならないことば、なくても意味は通じるが無意識に書かずにはいられないことばを「キーワード」と読んでいるが、金永郎の詩のキーワードは「私(に)」であると感じた。「私」ということばが書かれていないときも、そこには「私」がいる。抒情の核として存在している。
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