詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『どこからか言葉が』(3)

2021-06-22 08:37:43 | 詩集

 

谷川俊太郎『どこからか言葉が』(3)(朝日新聞出版、2021年06月30日発行)

 朝日カルチャーセンター福岡の受講生といっしょに「夕闇」を読んだ。(6月21日)

  夕闇に向かって
  椅子に座っている
  隣の部屋から明りがもれているが
  そこにいた人たちは
  もうこの世界から立ち去っている
  私は十分に苦しんでいない

  私のからだの
  いちばん深い淵で
  誰かがチェロを練習している
  音楽以前の素の音が
  私のこころの琴線に触れる
  私はまだ十分に苦しんでいない

  ことばが先にたって
  こころがその後をたどってきた
  からだはことばを待たずにいつもそこにいた
  夕闇が濃くなって
  遠い空に光が残っている
  悲しむだけで私は十分に苦しんでいない

 「私は十分に苦しんでいない」と谷川は書いているが、「なぜ苦しまなければいけないのか」という、しごくまっとうな感想がまっさきに聞かれた。こういう疑問から始まるのは、とてもおもしろい。谷川の詩だからといって、感動する必要はない。おかしいとおもうところは、おかしいと言わないと、ことばは正直に動かない。
 私もわからない。
 私にわかることは、「私は十分に苦しんでいない」「私はまだ十分に苦しんでいない」「悲しむだけで私は十分に苦しんでいない」と、連がかわるごとにことばが少しずつかわっていること。「まだ」が追加され、「悲しむだけで」と言いなおされている。
 これは、どう思う?
 「悲しむも自分のことだけれど、苦しむには相手が必要」と、いきなり哲学的というか、形而上学的というか、考えさせられることばが飛び出した。「悲しみを生きているだけで、苦しみを生きていない」「亡くなったひとと対比が感じられる。悲しむは追悼の感じ。苦しんでいないは、死んでいない、ということを指すのでは」
 私は何を感じていたのだったっけ、と思うくらい、激烈なことば(感想)にふりまわされてしまった。何を感じていたのか、忘れてしまった。
 谷川は、死を感じている、死を待っている、ということ?
 「そう思う」
 そこから「なぜ、苦しまないといけないのか」「なぜ、死なないといけないのか」という最初の感想に戻るのだろうか。
 今回は、谷川の詩を読むだけではなく、受講生の詩の感想を語り合うことがメインだったので、時間が少なく、駆け足で谷川の詩を読むことになった。それで、この「私は十分に苦しんでいない」はそのまま保留しておいて、ほかに印象的なことばはないか、気になることはないかを聞いてみた。
 まず「そこにいた人たちは/もうこの世界から立ち去っている」の「そこにいた人たち」とはだれのことだろうか。聞いてみた。
 「現実のだれかというよりも、架空の人、概念、抽象的な人ではないだろうか。この世界から立ち去っているは死んだというよりも、時間の経過をあらわしているだけではないだろうか」
 私は、単純に、これは谷川の両親のことかなあ、椅子に座っているひとは谷川かなあと思って読んでいたので、とてもびっくりさせられた。
 では、二連目の「誰かがチェロを練習している」というのは、誰?
 「子ども時代の自分」
 「いや、「からだの/いちばん深い淵で」と書いているから、ことばが生まれる前、ことばになる前の抽象的な人間では」
 うーむ……。
 「私は、三連目の、ことば、こころ、からだという順番がわからなかった。からだがあんて、こころがあって、ことばがある、と思う」
 「意識を逆転させて書かれているのでは? 逆さまに時間を動かしている」
 時間の流れと、意識(認識の動き)を重ね、単純に過去から未来、というのではなく、今から過去を振り返るような動きを、ことば、こころ、からだ、ということばとの順番と重ねて読むのか。
 でも、二連目に、からだ、こころ、が出てくるよね。三連目だけ読むと、ことば、こころ、からだの順番だけれど、二連目を意識すると、からだがあって、こころがある。ことばのかわりにチェロがあるのかもしれない。
 「音楽以前の素の音、が谷川らしい」
 ことば以前のことば、未生のことば、という言い方が谷川の詩にはよく出てくるように思う。チェロの響きは、未生のことばのようなものかなあ。
 でも、よくわからない。
 わからないことは、わからないままにしておく。むりやり答えを出さず、気が向いたら考えてみることを「宿題」にして、講座はおしまい。「答え」をだすことではなく、考える、考えること、感じたことをことばにすることで詩に近づいていくことが講座の狙いなので。

 と、ここで打ち切っていいのだけれど、私が思ったことを少し追加しておく。
 三連目の、

  ことばが先にたって
  こころがその後をたどってきた
  からだはことばを待たずにいつもそこにいた

 というのは、谷川のこれまでの人生の「反省」なのかもしれないと思う。谷川が自分のいままでを振り返ってみると、まず「ことば」が先にあった。その「ことば」にあわせて「こころ」を整えてきた。ことばがつくった道をこころが歩いてきた。一方、「からだ」の方は、ことばとは無関係に(ことばつくった道を歩いていくというのではなく)、いつでも「そこに」いた。「そこ」というのは、どこかなあ、むずかしいなあ。たぶん、「ことば」が生まれるその「場」というものかなあ。
 フランス語に「y 」という不思議なことばがある。「il y a」「on y va 」「allons-y」というときの「y 」見たいな感じ。
 谷川が二連目でつかっていることばを借りて言えば、「からだの(人間の無意識の)いちばん深いところ」で思い描いている「場」。いちいち意識(ことば)にするのがややこしい「場」といえばいいのかなあ。
 「からだ」はたしかにそこに「いる」。だけど、からだは十分に生きていない。生きてきたのは「ことば」と、ことばを追いかけてきた「こころ」。「からだ」は「ことば」「こころ」に比べると、ほんとうに味わうべきものをまで味わっていないという感じがあるのだろうか。
 一人の受講生が言ったように、谷川は無意識に死を意識しているのだろうか。
 私は少し違うことを考えた。谷川は両親の死(不在)を苦しんでいない、と読んだ。それは、ふたりは生きているということだ。「からだ」はたしかに存在しない。けれど「こころ」と「ことば」は、まだこの世(世界)に生きている。「遠い空に光が残っている」ように、この世界に残っている。一緒に生きているから、苦しくはない(苦しんではいない)と言っているように思える。
 「悲しい」ことは悲しい。悲しむことはある。しかし、それは「苦しむ」にまでは達しない。それは、とても静かな「喜び」のように感じられる。
 「苦しんでいない」ことを反省(?)しているのだったら、ことばのトーンは違ったものになるだろうと思う。


 

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読売新聞は問題点を隠している。

2021-06-22 08:09:43 | 自民党憲法改正草案を読む
読売新聞のニュースの伝え方。
オリンピックの入場者数の「上限」が発表された。
西部版(14版)の見出しは、
五輪上限1万人 合意 5者会談
見出しに嘘はない。
しかし、本文を読むと、疑問が浮かぶ。
こういう部分がある。
①子どもの観戦用に購入された「学校連携観戦チケット」は、教育上の意義などを考慮し、引率の教職員を含めて上限の対象から除く。組織委によると、五輪では59万枚が販売済みで、今月からキャンセルの受け付けが行われている。
↑↑↑↑
この59万枚(キャンセルは考慮しない)は、どれくらいの数字なのか。
別の記事には、「決定した観客数の上限を各会場に当てはめると、五輪のチケット販売枚数は272万枚になる見込みだ」とある。約5人に1人が子ども、ということ。逆に言うと、観客の上限は子どもを含めると「1万2000人」。それなのに「1万人」と組織委は発表している。
この「嘘」をあばかないで、何がジャーナリズムなのだ。
公表された情報を垂れ流しにしているだけではないか。
さらに、
②会場には観客とは別に、大会運営に必要なIOCの関係者らも入場する。関係者によると、五輪開会式に入る関係者は1万人を超える予定だったが、組織委の武藤敏郎事務総長は「(観客と合わせても2万人より)明らかに少ない数字になるだろう」と述べ、さらに削減に努める意向を示した。
↑↑↑↑
「上限」がさらに、わからなくなっている。「関係者は1万人」は削減するというが、ほんとうに「2万人以下」になるか。すでにある「子ども枠2000人」を考えると、「関係者枠」は8000人以下になる。そのうえ、「削減に努める意向を示した」というのだから、それは「意向」にすぎないかもしれない。
「子ども枠2000人」があるなら「関係者1万人」が入場しても、一般+子ども(1万2000人)より少なく見える。「1万人」で押し通せ、あるいは「1万2000人」で大丈夫、ということになるかもしれない。
関係者をより多く入場させるために「子ども枠」を「みせかけの緩和材」としてつかうおそれがある。
「上限」とは関係なく、こういうくだりもある。
③組織委は観客に求める行動などを盛り込んだガイドライン(指針)を今週中に公表する方針で、会場内の酒類の販売についても協議している。
↑↑↑↑
「酒類販売禁止について協議」ではなく「販売について協議」。これは、「販売する」ということだ。言いなおすと、販売の時間帯、販売の量について協議する。
飲食店に「酒類販売禁止」を押しつけておいて、五輪では「販売解禁」。これは、どうみたって「一般観客」の要望に応えるというよりも、「大会関係者」の要望に沿ったものだな。
なぜというに、日本の国民は「飲食店の飲酒禁止」をすでに受け入れている。「飲酒禁止」状態で競技を観戦することだって、すでに「折り込み済み」だろう。
「飲酒禁止」が折り込まれていないのは、五輪を楽しみにやってくる「大会関係者」以外に考えられない。
逆に言えば。
オリンピック会場で酒が飲めるなら、ぜったい入場券を手に入れたいという観客(飲み助)がいるはずだからである。一流選手の活躍が見られて、なおかつ酒も飲める。オリンピック観戦ほど楽しいものはない、ということになる。
こんな「上限枠」の発表なんて、単なる五輪関係者の「おもてなし」隠し。その隠蔽工作に酒を飲まない(飲めない)「子ども」までつかわれている。
こういう点こそ、ジャーナリズムは追及すべきだと思う。
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