高柳誠『フランチェスカのスカート』(1)(書肆山田、2021年06月05日発行)
高柳誠『フランチェスカのスカート』を一日一篇ずつ読み進めてみる。先のページは読まずに、その日読んだことばだけを手がかりに高柳の「文体」について考えてみる。読み進むにしたがって、修正し続けなければならなくなるかもしれない。そうだとしても、その修正の過程でしかつかみ取ることのできないものがあるはずだ。むしろ、どこまで修正し続けることができるかを試してみたい、と思う。
一日目は「霧」。
霧は、一日二回、決められた日課のごとくにこの町を襲う。早朝、
海から這い上がってくる霧は、夕方、ふたたび海へと帰っていく。
この霧の動きが、人々の生活のリズムを根底から決定している。
この書き出しには、高柳の多くの詩に共通するテーマがある。人間は自己決定しない。もちろん自己決定する部分もあるが、人間以外のもの、人間の意識では操作できないものが人間を支配している。「この霧の動きが、人々の生活のリズムを根底から決定している。」高柳は「決定する」ということばをつかっている。そして同時に「根底から」ということばをつかっている。「決定」は表面的なものではない。むしろ、内面的なもの、内面を支配してしまう決定である。
キーワードはどちらか。単純に読むと「決定する」である。「この霧の動きが、人々の生活のリズムを決定している。」で意味が通じる。しかしだからこそ、その「意味」をさらにつきすすめている「根底から」の方が重要である。「根底から」ということばがなければ高柳はこの詩を書き進めることはできなかっただろう、と私は思う。乱暴に言い直せば「決定している」は「支配している」でもいいのだが、どちらの動詞をつかうにしても「根底から」ということばを高柳は書かずにはいられないだろう。もちろん「根底から」を「内面から」とも言い直すことはできるが、その書き直しは「決定している」を「支配している」と書き直すのとはかなり違う。「決定する」をつかうにしろ「支配する」をつかうにしろ、その前に「説明」を付け加えたい、その説明によってこれから始まる世界を「限定」したいという気持ちが高柳にはある。「根底から」は必要不可欠なことばであり、それは必要不可欠だからこそ、半分無意識である。「根底から」は高柳の「肉体」になってしまっていることばである。こういうことばを、私は「キーワード」と読んでいる。私は読みながら「根底から」に棒線を引く。
読み進むと、もう一回、思わず棒線を引いてしまう別のことばに出会う。
霧は、家の中にまで侵入してくる。そして、霧のために……。
家のなかでさえ、銀のスプーンやフォークはいくら磨いてもすぐに
曇ってしまうし、鏡も表面が滲んだように靄がかかって、かえって
そこに映し出された人の秘めた内面を浮き立たせる。
私が棒線を引いたのは「かえって」である。ふつうなら、鏡が曇れば何も見えない。だが、逆に鏡が曇ると「人間の外観」は映らないが、「内面」が映ると高柳は書く。しかし、こんなことはありえない。鏡は最初から「外観」を映し出すものであって、「内面」を映し出したりはしない。ありえない。そのありえないことを、ある、というために高柳は「かえって」ということばをつかっている。何かが逆転する。しかもそれを引き起こすのは、鏡、霧という存在ではなく、ことばなのである。「かえって」ということばが存在しなかったら、高柳はこの詩を書き続けることはできない。もちろん「逆に」でもいいけれど、それは最初に書いた「根底から」が「内面から」であってもいいのと同じ意味での可能性である。(実際、「内面」は「根底」と同じ概念を共有しているだろう。)私が指摘したいのは、ことばの運動を支配する「はずみ」のような存在のことである。ことばを動かすエネルギー。そのエネルギーのあり方は、人それぞれによって違う。高柳は、この詩では「根底から」「かえって」ということばを必須のものとして書いている。それは高柳の「エネルギー/肉体/いのち」であり、削除してしまうと、高柳の詩は死んでしまう。
このあと高柳は、こう書いている。
おのれの本質
を直視することに耐えられなくなった人々は、鏡に被いを掛けてし
まいこみ、その存在自体を忘れてしまうしかない。
「その存在」とは文脈にしたがえば「鏡」である。しかし、「霧」と読みたい衝動にも、あるいは「自分自身(の本質/内面)」と読んでみたい衝動にも襲われる。あえて「誤読」し、その「誤読」を推し進めていくと何が見えるか確かめたい気持ちになる。
つまり、高柳の詩を忘れ、自分自身の問題として「霧/鏡/自分」の関係を考えてしまう。こういうことは「解釈」の基本から外れてしまうことだが、私は、そういうことが大好きである。
この詩人の言いたいことは何か、要約せよ。
こういう質問は、つまらない。この詩人はこう書いている。それについてどう思うか。これは単に詩の「解釈」に限らず、あらゆる瞬間に起きることである。
だれかの発言の「真意」(その人の言いたいこと)など関係ない。そのことばによって、自分が何を考えたか。それが大事だ。発言者は「誤解だ(誤読だ)」いうだろうが、「誤読」のなかには「誤読」なりの必然性がある。
あ、脱線した。
脱線とはわかっているが、私はこんなふうに読む。それを、全作品に触れながら書いてみたい。途中で休むかもしれない。やめてしまうかもしれない。先のことはわからないが、やってみるしかない。
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