セルジュ・ゲンズブール監督「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」(★★★★)(2021年06月28日、KBCシネマ2)
監督 セルジュ・ゲンズブール 出演 ジェーン・バーキン、ジョー・ダレッサンドロ、ジェラール・ドパルデュー
フランス人の肉体感覚(肉体のとらえ方)というのは、私には、独特なものに見える。なんとういか……修正なし、なのだ。
ジェーン・バーキンの小さな胸(あまりにも小さい乳房)が象徴的だが、それをそのままさらけだす。その小さな胸は、それだけを取り出すと魅力的ではない。だが、体全体がそこにあるとき、それは別な働きをする。体のラインをすっきりと、透明感のある美しいものにかえる。欠点(?)を気にしていない。
逆の肉体もある。ジェーン・バーキンの雇い主である店長の男は、太っていて、しきりにおならをする。それはそれで、ひとつの体なのである。汚く、醜い。ひとの体というものは、そういうものなのだ。批判はするが、その肉体をどうかしろ、とはだれも言わない。肉体とはそういうものだと受け入れている。
象徴的なのが、店で開かれるダンスパーティーのクライマックス、素人ストリップである。美人でもなければ、若くもない。そういう女が舞台でストリップをしてみせる。官能をそそる動きをするわけでもない。「芸」なしで、ただストリップをする。
しかし、見ている観客(男も女も)は、そのストリップを見ながらいろいろなことを考える。セックスの妄想もあるだろうが、なんというばかなことをしているのだろう、というようなさめた意識も漂っている。ストリップに対してあからさまな反応はしない。それぞれの場で、眼を動かす、手を動かす、あるいは表情をかえない。
それぞれの肉体が、ただ「共存」する。
この、ただ「共存する」(一緒にある)というところから、一歩踏み出すと「恋愛」になる。セックスになる。セックスは、ただ単に肉体の接触ではなく、官能を共有して、はじめて恋愛にかわる。修正なしの肉体が、修正なしのまま、手さぐりで「到達点」をまさぐり、到達した瞬間に、いままで存在しなかった恋愛が生まれてくる。ほかのだれにも手出しできない恋愛が。
ジェーン・バーキンとジョー・ダレッサンドロが安いあいまい宿を追い出され、豪華なホテルも追い出され、荒野で、トラックの荷台で、だれもいないところで、ふたりだけでセックスし、エクスタシーを共有する。だれものでもない肉体が「相手」のものになる。「相手」をみつけることで、区別がなくなる。
たぶん、恋愛があって、セックスがあるというのではない。フランス人にとってとは。セックスがあって、一緒にエクスタシーに達して、そのとき「恋愛」になる。「肉体」が恋愛の対象として生まれ変わる。
この映画は、そういう過程を描いている。
ちょっと変わった肉体(自分の知らない肉体)に出会う。どうすればいいんだろう。わからないけれど、セックスしてみるしかない。苦痛が生まれるのか、快楽が生まれるのか。それは、個々の肉体の問題である。当事者の問題である。他人が口を挟むことはできない。乳房が小さい。それがどうした? 相手はゲイであり、膣に挿入できない。それがどうした? フランス人は、肉体的欠点を持っていることをおそれない。むしろ、欠点があるからこそ、そこに生きている何かを感じるのかもしれない。
余分なことを書きすぎたかもしれない。この映画は、そういうストーリーとは別に、奇妙な魅力を持っている。ジョー・ダレッサンドロはゴミの運搬をしているのだが、そのトラックのとらえ方(映像)、走る荒野のとらえ方が、孤独感をあおる。何もかもが汚い、というのが不思議に美しい。それも強調の美ではなく、あるがままの美。そこに存在するから、それでいいのだ、という感じの美。豚のように太った犬や、ゴミのなかから拾いだしたぬいぐるみ、得体のしれない肉の固まり。それはリアリティーという美しさである。修正しない美。と言いなおせば、最初に書いたジェーン・バーキンにつながる。
この映画には、おまけがついている。おまけと感じるのは、私だけかもしれないが。のちに有名になるジェラール・ドパルデューがドラッグにおぼれているセックスアニマルとしてうす汚れた感じを体全体であらわしている。鞍なしの白い馬に乗って、我が道を行くという感じで紛れ込んでいる。
変な映画だが、映画でしか到達できない「変な質感(肉体感覚)」を、観客の反応なんか知ったことか、という感じでスクリーンにぶっつけている。フランス人にしか撮れない、とてつもなくフランス的な映画だと思う。
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