「現代詩手帖」12月号(24)(思潮社、2022年12月1日発行)
川田絢音「わたしたちは なだれ込み」。
水辺(海辺)だろうか。鳥の描写がつづく。そして、唐突に、終わりがやってくる。
糞で白くなった崖がさらされて
鳥にまだ声があり
わたしたちはここよ
を交わしているとき
切り抜けられなくなって
わたしたちはなだれ込み 戸板のように流れ去った
逃げおくれて
虹のかけらがころがっている
「わたしたち」とは誰なのか。最初の「わたしたち」は鳥のように思える。あとの「わたしたち」は人間に思える。唐突に挿入される「戸板」ということば。「流れ去った」ということば。「戸板」には「のように」ということばがついている。「戸板」は比喩であるらしい。だが、私には「戸板」だけが比喩ではなく「現実」のように思える。「鳥」も現実の鳥かもしれないが「わたしたちはここよ」ということばを交わしているのなら、それは鳥であっても、鳥を超える「比喩」としての意味をになっている。その「比喩」のなかに「人間」としての「わたしたち」が重なっていく。重なるのを、鳥は待っている。重なることを、人間は夢見ている。
「戸板」「流れ去る」「逃げおくれる」とつなげると、東日本大震災、津波を思い出してしまうが、川田の詩集を読んでいないので、当てずっぽうな推測である。もし、わたしの推測が正しいなら、「戸板」こそが「比喩ではないもの」というか、「比喩になりきれないもの」として、ここに提示されていることになる。
それは「わざと」ではなく、「必然」である。
しかし、最終行の「虹のかけら」には、疑問が残る。
國松絵梨「reverberations」。
わたしがこどものころはこんな
気候ではなかった
ぐらりと、かもめが
水平を保たない
逃げられやしないのに
遠くへ行きたい、
と思った
「遠くへ行きたい、/と思った」のは、「子どものときのわたし」か、「いまのわたしか」、あるいは「かもめ」か。わからないが、「ぐらりと、」と「遠くへ行きたい、」が重なるのだ。「遠くへ行きたい、」という突発的な思いによって、「ぐらり、」と何かがゆれる。逆であってもいい。「ぐらり、」と感じるとき、そこに「遠くへ行きたい、」という気持ちがやってくる。「ぐらり、」には、川田が書いていた「戸板」に通じるものがある。この詩のなかに「比喩ではないもの」があるとしたら「ぐらり、」である。「戸板」と同じように、「ぐらり、」もだれもが知っている。だれもが知っているが、だからといって、それをきちんと説明することはできない。「戸板」の方は誰でも説明できるかもしれないが、「戸板のように流れ去った」となると誰にでも説明できるわけではない。「知っている」。しかし、説明できないものがある。説明すると、どうしても「現実」ではなくなってしまう。「物語」になってしまう。「枠」ができててしまう。それでは現実からの逃避になってしまう。
小池昌代「土色のスープ」。
オーケストラ部の部室には
弾き手のいないヴィオラがあるが
昼間
室温の上昇とともに
しどけなく 弦が ゆるんだ
結びめがほどけたよ
たいへん よかったね
征服の箱ひだをひろげて
彼女の股も
ゆるゆるとひろがる
夢見る貝
閉じなさいと 叱声があがるが
海水として 聞き流した
弦の緩み、結び目がほどける、女子高校生(たぶん)の股の緩み。それが重なり合う。「海水」は比喩である。「わざわざ」、比喩であるとわかるように「として」ということばがついている。だが、この比喩は、やはり手ごわい。「海水」はだれもが知っている。「聞き流す」ということがどういうことかも、だれもが知っている。しかし、この「知っている」は、くせものである。
「知っている? じやあ、自分自身のことばで言い直してみて」
小池にそう問われたら、いったい何人が自分自身のことばで言い直せるか。「知っている」(わかっている)、しかし、言い直せない。そこに詩がある。
同じことは、「たいへん よかったね」についても言える。「たいへん」も「よかった」もだれもがつかうことばだ。だからこそ、言い直しがむずかしい。だいたい、この「たいへん よかったね」は一続きのことばなのか、それとも別のことばなのかも、即座には判断できない。どちらともとることができる。
私が、あるいは他の読者でもいいが、詩を読むのではない。詩が、私を、そして詩を読んでいる読者を読むのである。小池は(他の二人もそうかもしれない)、「わざと」そういう書き方をしている。
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