詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「現代詩手帖」12月号(24)

2023-01-02 14:55:33 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(24)(思潮社、2022年12月1日発行)

 川田絢音「わたしたちは なだれ込み」。
 水辺(海辺)だろうか。鳥の描写がつづく。そして、唐突に、終わりがやってくる。

糞で白くなった崖がさらされて
鳥にまだ声があり
わたしたちはここよ
を交わしているとき
切り抜けられなくなって
わたしたちはなだれ込み 戸板のように流れ去った
逃げおくれて
虹のかけらがころがっている

 「わたしたち」とは誰なのか。最初の「わたしたち」は鳥のように思える。あとの「わたしたち」は人間に思える。唐突に挿入される「戸板」ということば。「流れ去った」ということば。「戸板」には「のように」ということばがついている。「戸板」は比喩であるらしい。だが、私には「戸板」だけが比喩ではなく「現実」のように思える。「鳥」も現実の鳥かもしれないが「わたしたちはここよ」ということばを交わしているのなら、それは鳥であっても、鳥を超える「比喩」としての意味をになっている。その「比喩」のなかに「人間」としての「わたしたち」が重なっていく。重なるのを、鳥は待っている。重なることを、人間は夢見ている。
 「戸板」「流れ去る」「逃げおくれる」とつなげると、東日本大震災、津波を思い出してしまうが、川田の詩集を読んでいないので、当てずっぽうな推測である。もし、わたしの推測が正しいなら、「戸板」こそが「比喩ではないもの」というか、「比喩になりきれないもの」として、ここに提示されていることになる。
 それは「わざと」ではなく、「必然」である。
 しかし、最終行の「虹のかけら」には、疑問が残る。

 國松絵梨「reverberations」。

わたしがこどものころはこんな
気候ではなかった
ぐらりと、かもめが
水平を保たない
逃げられやしないのに
遠くへ行きたい、
と思った

 「遠くへ行きたい、/と思った」のは、「子どものときのわたし」か、「いまのわたしか」、あるいは「かもめ」か。わからないが、「ぐらりと、」と「遠くへ行きたい、」が重なるのだ。「遠くへ行きたい、」という突発的な思いによって、「ぐらり、」と何かがゆれる。逆であってもいい。「ぐらり、」と感じるとき、そこに「遠くへ行きたい、」という気持ちがやってくる。「ぐらり、」には、川田が書いていた「戸板」に通じるものがある。この詩のなかに「比喩ではないもの」があるとしたら「ぐらり、」である。「戸板」と同じように、「ぐらり、」もだれもが知っている。だれもが知っているが、だからといって、それをきちんと説明することはできない。「戸板」の方は誰でも説明できるかもしれないが、「戸板のように流れ去った」となると誰にでも説明できるわけではない。「知っている」。しかし、説明できないものがある。説明すると、どうしても「現実」ではなくなってしまう。「物語」になってしまう。「枠」ができててしまう。それでは現実からの逃避になってしまう。


 小池昌代「土色のスープ」。

オーケストラ部の部室には
弾き手のいないヴィオラがあるが
昼間
室温の上昇とともに
しどけなく 弦が ゆるんだ

結びめがほどけたよ
たいへん よかったね

征服の箱ひだをひろげて
彼女の股も
ゆるゆるとひろがる
夢見る貝
閉じなさいと 叱声があがるが
海水として 聞き流した

 弦の緩み、結び目がほどける、女子高校生(たぶん)の股の緩み。それが重なり合う。「海水」は比喩である。「わざわざ」、比喩であるとわかるように「として」ということばがついている。だが、この比喩は、やはり手ごわい。「海水」はだれもが知っている。「聞き流す」ということがどういうことかも、だれもが知っている。しかし、この「知っている」は、くせものである。
 「知っている? じやあ、自分自身のことばで言い直してみて」
 小池にそう問われたら、いったい何人が自分自身のことばで言い直せるか。「知っている」(わかっている)、しかし、言い直せない。そこに詩がある。
 同じことは、「たいへん よかったね」についても言える。「たいへん」も「よかった」もだれもがつかうことばだ。だからこそ、言い直しがむずかしい。だいたい、この「たいへん よかったね」は一続きのことばなのか、それとも別のことばなのかも、即座には判断できない。どちらともとることができる。
 私が、あるいは他の読者でもいいが、詩を読むのではない。詩が、私を、そして詩を読んでいる読者を読むのである。小池は(他の二人もそうかもしれない)、「わざと」そういう書き方をしている。

 

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Estoy Loco por España(番外篇270)Obra, Fco Javier López Del Espino

2023-01-02 11:23:36 | estoy loco por espana

Obra, Fco Javier López Del Espino


 Esta obra de Fco Javier puede ser un trabajo en curso. Sin embargo, es extremadamente bello. Escribo esto asumiendo que es un trabajo en curso, pero tiene una belleza absoluta que sólo algo inacabado puede poseer.
 A diferencia de las esculturas de madera o mármol, las de plástico se inician desde el interior. Lo que hay dentro se desborda poco a poco hacia el exterior y toma forma. Este movimiento puede apreciarse en esta obra.
 La chica (es decir, la joven) tiene tristeza. Hay desesperación por no poder protegerse. Mientras sostiene su cuerpo entre los brazos, contempla el "pasado" como si estuviera fuera de su cuerpo, cerca de ella. Pero está en su cuerpo. Permanece desorganizado, moviéndose con emociones que no pueden nombrarse. También sus emociones permanecen inacabadas.
 El temblor de este espíritu inestable se expone tal cual, como un nervio crispado y hormigueante.
 Cuando la forma de sus brazos, sus dedos y los detalles de su piel estén terminados y perfeccionados, adoptará otra forma hermosa, pero esta belleza parece ser algo que sólo puede verse en este momento. Es muy espiritual.

 Fco Javierのこの作品は制作途中のものかもしれない。しかし、非常に美しい。制作途中のものと仮定して書くのだが、未完成なものだけが持ちうる絶対的な美しさがある。
 塑像は、木や大理石の彫刻とは違って、内部から造り始める。内部にあるものが、少しずつ外にあふれるようにして形になる。この作品にも、その動きが見える。
 少女(あのいは若い女性)には悲しみがある。自分を守りきれなかったことへに対する絶望がある。からだを抱え込みながら、「過去」が、まるで肉体の外、彼女のすぐそばにあるかのように見つめている。しかし、それは彼女の肉体のなかにある。未整理のまま、名づけることができない感情のまま動いている。彼女の感情もまた、未完成なままなのだ。
 この不安定な精神の震えが、そのままひりひりとうずく神経のように露出している。
 腕の形、指の形、肌の細部が整えられ、完成したとき、別の美しい形になると思うが、この美しさは、この瞬間にしか見ることができないもののようにも思える。とても精神的だ。

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