詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「現代詩手帖」12月号(35)

2023-01-13 10:48:50 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(35)(思潮社、2022年12月1日発行)

平川綾真智「■「dona nobis」」。その最後の三行。

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 文字が見える。それを私は転写できる。だから、そこには何らかの「共有感覚(共有認識)」があるのだが、それを私は私のつかっている「日常語」では語りなおせない。べつに語りなおす必要はないし、理解する必要もない。
 それが平川の考えている詩なのだろう。
 それを平川が、だれかと「共有できる」と考えて書いたのか、「共有したくない」と考えて書いたのか、それも私は問題にしない。
 こういう「文字(記号)」を「わざと」書いているのか、「わざわざ」書いているのか。この「文字(記号)」を「わざと」2022年の「代表詩」として選んでいるのか、「わざわざ」選んでいるのか、それも私は考えない。
 なぜか。
 面倒くさいからである。

 広瀬大志「ここにいない」。二行ずつの連が展開されるが、その二行は完結しているのか、それとも破れている(解放されている)のか。

自発性の秩序は膝をついて体を起こしあなたがいるから
わたしの夢にはいつもあなたが横にいてわたし

の夢を見てくれているのは意図的で
はなく行動の原理としてあなたが見てくれているか

らわたしの生活の萎えて箱詰めされた家具に
はいつもあなたの声が届き萎えて箱詰めされたわ

たしの生活を支えてくれるからわたしの言葉にはい
つもあなたの温もりが疼いて伝わりわたしの言葉

 「完結」でも「破壊」でもなく、「意図的」に「接続」が試みられている。広瀬の詩(ことば)は基本的に「接続」を求めて動くのだと思う。そういう意味では、手術台の上のミシンと傘の出会いである。シュールレアリストは、それを「偶然」であり「美しい」と定義するが、広瀬は「意図的」である。
 西脇も、詩は「わざと」つくるものと言ったが、しかし、その「わざと」は「意図的」ではない、と私は読んでいる。西脇にとっては発見された「偶然」が「わざと」であり、それは「必然」なのだ。
 平川の書いている「表記方法」も、広瀬の採用している「表記方法」も「意図的」としか呼べない「わざと」であり、そこで「演出された偶然」は「必然」とは無関係だ。「必然」というのは、何度も繰り返す例で言えば、道で腹をかかえてうずくまるだれかを見かけたとき、あ、この人は腹が痛いんだと感じるようなものである。私の肉体ではない、しかし、私にはその肉体の痛みがわかってしまう。「偶然」なのに「必然」。この「出会い」。これがないと、人間は、生きていても楽しくない。西脇は、これを「わざと」と読んでいる。「わざと」、それが起きるようにことばを書いている。それはどうやって起きるか。「ことばの肉体」をつかんでいれば、「自然」に起きるのであるけれど、「ことばの肉体」が「自然」に動くようにするためには、その前にとんでもないトレーニングが必要なのだ。「わざと」ができるのは、鍛えられた「ことばの肉体」の特権なのだと思う。特権だから、そこには「詩」がある。それは「表記方法」ではなく、あくまでも「運動」なのだと私は考えている。

 古屋朋「深すぎた青」。海に浮かんでいる「ぼく」を描いている。

浮いた身体が透明と暗がりのはざまの色に
隠れたり現れたり
羊水みたく波に運ばれ
目をつむれば水が小さくぶつかる音

 「羊水みたく波に運ばれ」がおもしろい。「ぼく」が「羊水」のように「波に運ばれていく」のではなく、「ぼく」は「羊水」のなかに漂っているかのようにして、「波に運ばれていく」。ここには、羊水の「なかにいる」という「ぼくの状態」が省略されている。一瞬、「身体」を忘れている。それくらい、世界と身体が融合している。どこまでが「ぼくの身体」であり、どこからが「世界の身体(海の身体)」であるのかわからなくなり、その「わからない」が「羊水」という「肉体の記憶」と結びつき、「羊水みたく」ということばになる。
 ここには「必然」がある。「羊水みたく」ということばは、古屋が「わざわざ」書いていることばなのである。

 

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