詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳・リッツオス「ペネロペの絶望」

2023-01-24 19:08:19 | 詩集

 

中井久夫訳・リッツオス「ペネロペの絶望」(『アリアドネからの糸』みすず書房、1997年08月08日発行)

 リッツオス「ペネロペの絶望」を読むと、カヴァフィスとリッツォスの違いがよくわかる。

彼の乞食の仮装が暖炉の弱い光で分からなかったわけではなかった。
そうではなかった。はっきり証拠が見えた。
膝頭の傷跡。筋肉質の身体。素早い目配り。
ぞっとして壁に倚りかかり言い訳を考えた。自分の考えを漏らさないために
答えを避ける暇がほしかった。あの男のために虚しく二十年を待ち、夢を見ていたのか?
あのいとわしい異邦人、血塗れの髭の白い男のためだったのか?
無言で椅子に倒れ、己の憧憬の骸を見る思いで床の求婚者たちの骸をとくと眺めてから
「おかえりなさいまし」と言った。
自分の声が遠くから聞こえ、ひとの声のようだった。
部屋の隅の機織り器が天井の上の籠のような影を作った。
今まで織っていた、緑の木の葉の間にきらめく輝く赤い鳥は、灰色と黒になって
これからの終わりのない忍耐という平べったい空を低く待った。

 ペネロペとオデュッセウス。この物語を知らないギリシャ人はいないだろう。だから、どこまで省略し、どこまで書くか。
 最初の四行は、カヴァフィスも書くだろう。しかし、そのとき「分からなかったわけではなかった」や「自分の考えを漏らさないために」は書かないだろう。カヴァフィスなら、ただ事実だけを書くだろう。「膝頭の傷跡。筋肉質の身体。素早い目配り。」にみられる素早い事実の列挙がカヴァフィスのことばの特徴である。
 リッツオスは「真理」をカヴァフィスよりも克明に描く。ただし、そのとき、「真理」をこころの外にあるもの、あるいは行動としてあらわれるものとして描く。中井久夫の表現を借りて言えば「映画のように」。
 カメラは、ペネロペが見たものと、ペネロペの行動を行き来しながら、ペネロペを描写する。オデュッセウスの乞食の変装、膝頭の傷跡、筋肉質の身体、素早い目配りをミドルショット、アップでとらえた後、ペネロペが壁に倚りかかる姿を、その全身をとらえる。それから、ペネロペのさまよう視線が見たものと、椅子に倒れ込むペネロペの動作を交互にとらえたあと「おかえりなさいまし」という唇をアップでとらえる。それは、もしかすると「声」ではなく、唇、舌の動きだけで表現されるかもしれない。口の動きを見れば、「おかえりなさいまし」という声が聞こえる。そんな感じだ。
 ここからは、もう、ペネロペの「肉眼」が見ているというよりも、「こころ」が見ている世界だ。そこでは「緑の木の葉の間にきらめく輝く赤い鳥は、灰色と黒に」に変わっている。この「緑の木の葉の間にきらめく輝く赤い鳥は、灰色と黒になって」ということばは、カヴァフィスは絶対に書かないだろう。
 そしてまた、この一行は、まるで中井がリッツォスになって書いたのではないかと感じさせる色彩の変化の表現である。中井のことばを借りていうなら、中井はここでは完全にリッツォスに「チューニング・イン」している。どこまでがリッツォスで、どこからが中井か、区別がつかない。中井の「ことばの肉体」がここにくっきりとあらわれている。
 カヴァフィスとリッツオスは似たところもあるが、完全に違うところもある。その完全に違うところを、完全に違う文体で訳し分けるところに中井のことばの不思議な強さがある。リッツオスなら、たしかに、この通りのリズムで語るだろうと想像させてくれる。私は、中井の訳をとおしてしかリッツォスを知らないのだが。(カヴァフィスの詩は、池沢夏樹の訳でも読んだ。)
 この詩を読みながら、どうしても知りたい思ったことが一つある。
 
答えを避ける暇がほしかった。

 中井がこう訳している「暇」。それは原語ではどう書かれているのだろうか。私は、この「暇」にカヴァフィスの声(カヴァフィスを訳すときの中井の声)を聞いた。もしかしたら、それはふつうには「時間」と訳すことばではないか、と想像したのである。「膝頭の傷跡。筋肉質の身体。素早い目配り。」という一行が、あまりにもカヴァフィスに接近してしまったために、その口調のまま「暇」ということば(声)が出てきたのかもしれないと思ったのである。
 ギリシャ語でこの詩を読んだことがある人がいるなら、ぜひ、教えていただきたい。

 


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朽葉充『聖域』

2023-01-24 10:28:55 | 詩集

 

朽葉充『聖域』(澪標、2023年01月10日発行)

 朽葉充にとって『聖域』とは、ジャズと本とアルコールである。煙草、コーヒーも含まれるかもしれないが、何と言うか、これはある年代の「定型」である、と私は感じてしまう。その「定型」から、どれだけ逸脱して、ジャズ、本、アルコールそのものになれるか。反動のようにして、労働と大衆酒場(?=居酒屋の前進?)も書かれているのだが、それはそれで「定型」になってしまう。
 それがもっとも簡潔な形で「結晶」しているのが、「漂流」。

JAZZは
野良犬のように淋しい男のための音楽
ビクター・レコードのロゴ・マークのように
飼い馴らされた従順な犬ではなく
ゴミ箱をあさる犬でもなく
一匹のやせこけた狼の末裔よ
お前 俺よ!
吠えることも忘れ 牙をむくこともなく
ただ夜の街を 今日も漂流する

 「お前 俺よ!」が、その「定型」の基本である。「お前」を「俺」と思い込む。区別がつかなくなる。JAZZを例に言えば、表現された「完成形」を自己と同一視する。マイルスにしてもコルトレーンにしても、彼らの「音」は個別の存在であり、個別の到達点である。それは、聞く人間にとっての「理想」かもしれないが、それに陶酔し、自己同一視しても、それは聞いている人間が自分の精神を何かに到達させたということとは違うのである。「同化」という錯覚があるだけだ。
 私は先に「逸脱」ということばを書いたが、「定型」と「逸脱」の違いは、「同化」か「拒絶」かの違いである。
 朽葉はつぎつぎと「文学」に「同化」していく。「定型」を利用して「同化」していく。だから、ある意味では「詩」に到達しているように見える。この「漂流」は、その典型であるだろう。
 清水哲男が生きていたら百点をつけるかもしれないなあ、と思ったりする。
 百点をとる作品を書くことはむずかしいかもしれない。しかし、百点をつけることは、とても簡単である。「定型」をものさしにし、それにあっている、と言えばいいだけだからである。「漂流」に百点をつけても、多くのひとは文句を言わないだろう。だからこそ、私は「批判」を書いておきたい。

 「ブルー・ブラッド」も、とてもすっきりした作品である。タイトルは忘れたが、ガルシア・マルケスに同工異曲の「換骨奪胎作品」がある。男と女は、逆であるが、何よりも違うのは、死んでいく人間が主人公ではなく、生きつづける人間が主人公である。
 「敗北=詩/抒情/青春」は、あまりにも「定型」過ぎる。もう「文学」ではない。イコールにならないもの、「同化」できないものが重要なのだ。朽葉は、社会に同化できないいのちを書いたのかもしれないが、その「社会に同化できない/敗北者」を描くことが「抒情文学の定型」そのものなのである。それは現代の「悲劇」にはなれない。

 

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