詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(1)

2023-01-01 22:39:52 | 中井久夫「ギリシャ詩選」を読む

 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』は1985年11月25日にみすず書房から発行されている。少しずつ読み返していく。
 最初に読むのは、カヴァフィス。中井には『カヴァフィス全詩集』がある。(私が持っているのは、第二版で1991年4月25日発行。中井は推敲を重ねるひとなので、比較すると異動があるのだが、それについては触れない。

 「壁」。

壁を作られた時に気づかなんだ私の迂闊さ。

 この一行に、中井の訳のおもしろさが凝縮している。「気づかなんだ」という素早い口語。「気がつかなかった」と比較するとわかるが、このスピードは、気づいたときの「瞬間」としか言いようのない時間を端的にあらわしている。「気づかなんだ」の前では、「瞬間」と呼んでさえ、まだ、まだるっこしいような感じがする。その口語と拮抗するかのような「迂闊さ」ということば。「迂闊」も、たしかに、口語でもつかうのだが、漢字で読むと何か「文語」に見える。中井は、この「口語」と「文語」をぶつけあう「文体」をカヴァフィスを訳すときにつかっている。それが、とても効果的に思える。
 「壁」の主人公(私)は、歴史上の人物だろう。(中井は註釈をたくさん書いているが、私は、それをあえて読まない。中井の訳出したことばの印象から人物を想像する。)それは「庶民」ではない。だから「私」という、そういう人物にふさわしい一人称をつかう。その「私」が、多くの市民と同じ「口語」をつかう。そのとき、歴史上の人物、遠い存在が、庶民の「私(読者)」と重なる。
 そこには二重のドラマがある。
 偉人が高い壁に閉じ込められる。それが一つ目のドラマ悲劇。彼が「気がつかなかった」ではなく「気づかなんだ」と叫ぶとき、その「声」は偉人と市民を結びつけてしまう。市民が偉人になって、彼の悲劇を体験する。それが二つ目のドラマである。
 この劇を、中井久夫は、瞬間的に実現する。

 

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「現代詩手帖」12月号(23)

2023-01-01 22:30:50 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(23)(思潮社、2022年12月1日発行)

 伊藤比呂美「Looking for 鴎外 から」。ベルリンでボダイジュの花を見る詩である。

ボダイジュの花が咲き始めていた。ベルリンに来た当日、ちょっと歩きましょうと友人に誘われて、歩きながら「これがボダイジュ、鴎外も見た、ウインター・デン・リンデンですよ」と教えられた。すぐ忘れて、また目に留めて、また教えられた。やがて見分けるようになった。「ほら、花が咲いている」といわれて上を見た。
「まだ匂いがしない」と友人はいったが、次の日になると「ほら、匂いがしてきた」といった。それでわたしは上を見た。何日か経つと匂いがあたりに充満した。そして花は爛熟した。もともと黄色い花がさらに黄ばんだ。その数日後には木の下が乾いた黄色い花殻で埋まった。       
                          (注、本文の鴎外は旧字体)

 この散文のリズムはとてもいい。鴎外が出てくるからいうのではないが、鴎外みたいだ。
 「すぐ忘れて、また目に留めて、また教えられた。」には「また」が二回出てくる。これが「すぐ」と次の「やがて」を強烈に結びつける。その強烈な結びつきのなかに「時間」が組み込まれていて、この「時間」が、「まだ匂いがしない」からの段落でドラマチックに展開する。
 「「ほら、花が咲いている」といわれて上を見た。/「まだ匂いがしない」と友人はいったが、」の改行(段落の改め)は、本当は少し変なのだが(鴎外なら、たぶん、こういう改行はしない)、これが非常におもしろい。伊藤が鴎外を超えるのは、こういう部分である。ここは「散文の論理」ではなく、「詩の論理」である。
 さらにおもしろいのは、「ほら、匂いがしてきた」の「きた」。友人のことばであり、伊藤はどれだけ意識しているかわからないが、この「きた」は形は過去形だが、意味は過去形ではない。(書き出しの「ベルリンに来た当日」の明確な過去形と比較すると、よりわかりやすいと思う。)よく電車やバスを待っているとき、なかなか来ないので少し場その場所を離れるときがある。するとだれかが「電車が来たよ、バスが来たよ」という。これは実際は過去形ではない。まだ、来ていない。これから「来る」のである。さらに言えば早く来ないと乗り遅れるよ、という「未来」を含んだ「来た」なのである。この「きた」に促されて、伊藤のことばは急展開する。「何日か経つ」「その数日後」を合わせて、計何日か。わからないが、あっと言う間に「時間」が過ぎる。それを不自然に感じさせないのは「匂いがしてきた」の「きた」の力である。
 この「きた」はこの詩のキーワードである。つまり、無意識に書かれたものだが、それがないと、この詩が成立しない。別なことばで言えば、この「きた」は随所に隠れている。
 こんな具合だ。

何日か経つと匂いがあたりに充満し「てきた」。そして花は爛熟し「てきた」。もともと黄色い花がさらに黄ばん「できている(/できた)」。その数日後には木の下が乾いた黄色い花殻で埋まっ「てきた」。

 強い実感がある。
 散文では、ときどき「過去形」で書いてきた文章が、実感が強くなった瞬間から「現在形」にかわるという文体が存在する。(多くの作家に共通する。)この部分では「黄ばんだ」がそれにあたる。私は「黄ばんできている(/黄ばんできた)」と並列する形でかいたが、「きている」の方がより「正確」だろうと思う。この「きている」は状態をあらわす。「匂いがしてきた」も「匂いがしている(匂いを感じている)」という状態なのである。「バスが来た」も「バスが(すぐ近くまで)来ている」という状態をあらわしているのである。動きをあらわしているのではない。
 伊藤が書いている(友人が言った)「きた」は、見かけは過去形であるが実感を、将来の実感を含めて、いまの状態を表現する非常に珍しい例である。(だから、これを「外国語」に翻訳するとき、日本語に合わせて「過去形」で表現すると、意味が通じなくなる。)
 この実感を踏まえて、詩は、別のことを書き始める。
 こうした、実感を踏まえたあと、ことばが別な形で新しく動き始める文体こそ、すべてを「いま」として出現刺さる文体こそ、鴎外の到達した世界だが、それがさらに鴎外を感じさせる。
 どこにも「わざと」がなく、とても自然だ。

 稲川方人「自由、われらを謗る樹木たち、鳥たち」。
 この詩については、ブログですでに書いた記憶がある。記憶だけで、もしかしたら書いていないかもしれない。つまり、書こうとしたが、書き始めたら書くのがいやになってやめてしまった可能性がある。
 伊藤の「鴎外 から」についてなら、まだまだ書き足りない感じがするのだが、稲川の詩は、読んだだけで、書き終わった感じがしてしまう。

あなたの掌を解き、
握られた紙片をふたたび世に戻すと
陽の翳りに、遠く生き急いだ命の数々が
短く在ったみずからの声の幸福を響かせている

 四元康祐が「手相」で書いたものが「あなた」に限定されて書かれている。「手相」(掌の皺)の書かず、それを「わざと」隠している。
 手を見るのは、石川啄木からはじまったわけではなく、昔からある「生き方」のようなものだろうと思う。それを「わざと」「握られた紙片」と言い換えることにどんな意味があるのかわからない。私はむしろ、捨てられた紙片を広げて、そこに「手相」を見る方が自然な気がする。
 私と稲川の「自然」が違うのだといえば、それまでだが。

 帷子耀「ウウウウウウウウウウーウ」。(名前は、正確には帷子耀のあとに、ピリオド、がついている。)
 この詩についてはブログで書いた。書けば、再び同じことを書くことになるかどうかわからないが、同じになるだろうと思うので、たいがいは省略する。

ウ。母は何か言いたげだった。痰がからんでいるな。声が出なかった。痰の吸引をお願いした。吸引が終わった。静かになった。母は死んだ。

 と、静かにはじまる書き出しが、とてもいい。(稲川は「あなた」とあいまいに書いていたが、帷子は「母」と明確に書いている。)「自然」かどうかはわからない。「自然」であろうとしている。だから「わざと」と言えるかもしれないが、「わざと」を感じさせない。「痰の吸引をお願いした。」のことばのなかにある「配慮」のようなものが、ことばの全体を貫いている。「痰の吸引を(医師に/看護師に)頼んだ」と比較すればよくわかる。ことば(動詞)のなかに「対人意識」が強く響いている。これは、現代では、とても珍しいことだと思う。帷子は現代詩の先頭を突っ走った詩人だが、そのときからすでに「古典」だった(すでに完成してしまったという印象があった)のは、この「対人意識」のきめこまやかさに要因があるかもしれない、と、ふと思う。


 


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Estoy Loco por España(番外篇269)Obra, Joaquín Llorens

2023-01-01 11:34:29 | 詩集

Obra, Joaquín Llorens

 Las esculturas de Joaquín están siempre en movimiento. Según el ángulo de visión, la obra cambia de forma.

  Si el objeto es un cilindro, es un círculo visto desde arriba y un rectángulo visto de lado. Se trata de un teorema matemático y físico.
 No ocurre lo mismo con el arte.
 El arte no tiene forma fija. Se admite cualquier forma. Aprovechando este privilegio, toda obra de arte tiene derecho a cambiar de forma a medida que el espectador modifica el ángulo desde el que la mira. No es que tenga un aspecto diferente, sino que la propia forma está cambiando. La escultura se mueve.

 El arte es algo que rechaza las fórmulas y sigue cambiando hacia nuevas formas. Esto sucede incluso dentro de una misma obra, una sola escultura.

 Consta de cuatro triángulos esta obra de Joaquín. A veces adopta la forma de una madre que sostiene a un niño pequeño. Abraza cariñosamente al niño mirando a lo lejos. Otras veces, sin embargo, toma la forma de tres niños que intentan desobedecer a su madre e irse lejos de ella, y la madre que intenta retenerlos. El niño sustituye a la madre y uno se convierte en tres. Pero algunas cosas siguen igual. Es la fuerza que une las cuatro tablas.
 No, puedo decir que esto también cambia. ¿Las cuatro tablas aspiran a convertirse en una sola forma o aspiran a convertirse en una de cada? Cambian de un momento a otro.

 Joaquín の彫刻は、いつも動いている。見る角度にあわせて、作品が形を変える。

  円柱の立体ならば、上から見ると円、真横から見ると長方形。これは、数学や物理の定理である。
 芸術は、そうではない。
  芸術には、決まった形はない。どんな形でも許されている。この特権を生かし、あらゆる作品は、鑑賞者が見る角度を変えるのに合わせて、形を変える権利を持っている。見え方が違うのではなく、形そのものが変化しているのだ。彫刻は動いているのだ。

 芸術とは、定型を拒否し、新しい形へと変化し続けるものである。それは、一つの作品、一つの彫刻の中でも起きている。

 この作品は四枚の三角形で構成されている。あるときは幼い子どもを抱いた母の形をとる。遠くを見る子どもを温かく抱いている。しかしあるときは、母親に背いて遠くへ行こうとする三人の子どもと、それを引き止めようとする母親の姿になる。子どもが母親に代わり、一人が三人に変わる。しかし、変わらないものがある。四枚の板を一つにする力である。
 いや、これも変わると言うことができる。四枚の板は、それぞれの一枚になることをめざしているのか。それとも一つの形になることをめざしているのか。瞬間瞬間に変化する。

 これを可能にしているのはJoaquín の力である。彼には鉄のダイナミックな変化を統合する力がある。そして、それは彼自身が変化する可能性の力でもある。その力を確認するために、私は彼の作品を見る。

 

 

 

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