詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「現代詩手帖」12月号(31)

2023-01-09 15:58:11 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(31)(思潮社、2022年12月1日発行)

 松本圭二「恋人たち」。癌宣告。そのとき、松本が悩んだのが「蔵書をどう処分すべきか」という問題。

公共図書館にない本が
我が家の私設図書館には多数あり
それらの価値はわかる人にしかわからない

 本の価値か。「本」の定義がむずかしい。

古書店に売るのが手っ取り早いが
おれは今の古書流通の世界には絶望しかないのだ
そんなものはどうせ端末上の買取相場だけの世界であって
中古車のそれと同じなのだ

 この部分には「価値」のかわりに「相場」ということばが使われている。松本にとって「価値」は「相場」ではない。この「相場」に対立する概念として、松本は「絶対値段」ということばをつかっている。死ぬ前に、蔵書の一冊一冊に、松本が感じている「絶対値段」を書き込んでおく、という計画を立てている。
 「相場=相対的値段」対「絶対的値段」か。
 こういう考え方(読み方)自体が「相対的」かもしれなないなあ。
 それ以上考えても、しようがないなあ、と思う。

 岩佐なを「晩年」。岩佐は「蔵書」ではなく、「蔵紙(?)」を問題にしている。紙をつかう仕事をしていたが、つかっていない紙がある。それをどうしたものか。「ふくろ」をつくることを覚えたので(習ったので)、「ふくろ」を作る。

紙と紙とあらゆる紙を貼り合わせ
折って切って貼って大きなふくろを作り
中に入って
永眠した

 あ、いいなあ、と思う。ここにも「価値」が書かれているのだが、「価値」と書き直してみても、それは「わかる人にしかわからない」ものだろう。だから「価値」ということばをつかわない。だから、そこには「相場」は入り込まない。いや、岩佐の書いていることはいつも「相場」にすぎない。値段はあってないようなもの、わかる人にしかわからないもの、詩のようなものだけれど、それを自覚している。
 「相場」を生き抜くのは「値段」ではなく、「相場」とともにある「肉体」だけである。言い直すと、「相場」が上がろうが下がろうが、そんなものによって「肉体」の寿命がかわるわけではない。いや、「相場」次第で、心臓麻痺を起こして死ぬ人もいるという人がいるかもしれないけれど。

 大橋政人「顔面体操」。朝起きて、顔の肉を動かす。いろいろな顔をつくってみる。

顔を百面ぐらいつくると
私の顔など
最初からなかったことに気づく

 この「私の顔」というのは「絶対的表情(面)」のことか。しかし、大橋は「絶対的」とことばを取り去って、ただ「顔」と書く。

そのことを確認できてから
五本の指で
ようやく今朝の顔を洗い始める

 「顔」はないが、「顔を洗う」。「顔の面(表情)」ではなく、顔の「何」を洗うのか。「相対化」しても、どうしようもないものを洗う。もしかすると「相場」なんていうものは、最初からないのだ。あるのは「相(手)」を意識する「私」というものがあるだけなのだろう。
 この「私」を、どうやって「処理」するか。
 松本の問題は「蔵書」をどうするかではなく、「蔵書」という意識をどう処理するかということになるかもしれない。
 岩佐の詩にもどってみる。なぜ、岩佐は「ふくろ」をつくるのか。

としをぼろぼろに重ねて仕事をなくした後
はふくろの先生に弟子入りした
と云っても先生はほんとうの
先生ではなく
ときどきふくろをくれるひと
新聞紙を切って折って糊つけて
ふくろにしたものをくださる
それを恭しくいただいて家で夜な夜な
同じものをこしらえる
そうした作業を続けていると
違う紙でもふくろをつくれるようになる
たのしい

 「同じものをこしらえる」がいいなあ。「違うもの」をこしらえる、発明するではない。それが、いいなあ。「肉体」は決してだれかと「同じもの」にはならない。「同じもの」を感じるとしたら「同じものをつくる」ときだけである。「同じものをつくることができた」ときだけである。岩佐は「つくる」ではなく、「こしらえる」ということばをつかっているのだが、これは私にはなんとなく「自分の肉体をこしらえる」という具合に響いてくる。それも、いいなあ。
 私は、本を読みながら(ことばを読みながら)、私は私の肉体をだれと同じものに「こしらえる」ことができるかな、と考えたりする。これは、別のことばで言えば、だれと同じものに壊して(崩して)いけるかなあ、ということでもある。手順を守ってこしらえないと、きっと正しく壊す(崩す)ことはできない。

 


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