詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

青柳俊哉「野生のひかり」、永田アオ「夕陽」、杉惠美子「砂時計」ほか

2023-01-15 17:27:24 | 現代詩講座

青柳俊哉「野生のひかり」、永田アオ「夕陽」、杉惠美子「砂時計」、池田清子「論理的」、木谷明「白写」、徳永孝「あなたに届けられるなら」(朝日カルチャーセンター、2022年12月19日)

 受講生の作品。

野生のひかり  青柳俊哉  

十二月の晦日に 光のうすい
野をさまよう 藪に入り
みずみずしいうらじろの 
大きな羽を 袋いっぱいつめる 

雲にふれる赤松の葉と 雲を降りて
崖に荒ぶる竹の茎を 地平に凍える蝋梅
の灯りと 霙を跳ねるゆずりはの房を
ふかふかの 盥のようなバケツに束ねる 

野生のひかりで餅をつつみ 頂きに
天啓の蜜柑をのせて 神をこしらえる 

なぜ十二月の晦日に ひかりを集めて
太陽のめぐりに 心をあわすのか

 四連目「神をこしらえる」。この「こしらえる」が印象的だ。手元にあるものをあつめて「こしらえる」。それは無からの想像ではない。手元にあるものは、もしかすると「神」が与えてくれたものかもしれない。それに新しい形を与えるというよりも、そこにあるものの秩序を新しくする。存在が新しいのではなく、存在する「形式」が新しい。そういうことを考えさせる。

夕陽  永田アオ

秋の日
夕陽が
町を
家々を
朱く染め
たくさんたくさん
朱く染め
染め余って
川にこぼれて
川の上を
洪水のように
溢れて行った
夕陽はみんな
行ってしまって
町はすっかり暗くなった

いまごろ
夕陽たちは
海の向こうで
朝日になるのを
待っている

 「染め余って」の「余る」がとてもおもしろい。そのあとに「溢れる」という動詞が出てくる。「余る」は「余分」ではないのだろう。最初から「量」が決まっていて、それよりも「量」が多いという状態ではなく、「染める」という動詞に勢いがあって、その勢いが「余って」「あふれる」。
 この運動のリズムが全体を貫いている。
 だから「町はすっかり暗くなった」で終わることができずに(?)、明日の朝にまで言ってしまう。とても自然だ。

砂時計  杉惠美子

今年一年の砂時計がもうじき終わる
除夜の鐘とともに 静かに
上と下を返す

また一年の砂時計が同じ速さで降りてくる
音はないけれど 勢いもあるし
強さもある
まわりから支配もされないし
外からのタイマーが 鳴るわけでもない

ひたすら 自分の時間を進むだけ

干渉もされないし、見えない力に
怯えてもいない

 永田の詩で「余る」と呼ばれていたものは、この詩では「勢い」「強さ」と言い直されている。それが「ある」。この「ある」は詩の中で二回繰り返されている。「ある」よりも「ない」の方が多く繰り返されている。しかし、私には「ある」の方が強く響いて来る。なぜだろうか。「ある」はことばとしては書かれていないが、無意識(肉体)を貫いているからだ。
 三連目「ひたすら 自分の時間を進むだけ」は「ない」をつかって言えば「ひたすら 自分の時間を進むしかない」になる。しかし、「ある」を補って読むこともできる。「ひたすら 自分の時間を進むだけである」。ここには決意が「ある」のだ。
 それは「勢い」も、「強さ」も「ある」。持っている。

論理的  池田清子

私は論理的ではない
ということを
論理的に証明できれば
私は論理的ではない

私は論理的ではない
ということを
論理的に証明できなければ
やっぱり
私は論理的ではない

私は、論理的である

 池田の詩にも「ない」と「ある」が交錯する。私は瞬間的に「クレタ人は嘘つきだとクレタ人が言った」というパラドックスを思い出したが、「論理」というのは、「後出しジャンケン」だから、なんとでも説明がつく。「多くのクレタ人は嘘つきだと、ひとりの正直なクレタ人が言った」とも説明しなおすこともできるし、「多くのクレタ人は嘘をつかないが(正直だが)、ひとりの嘘つきのクレタ人が『クレタ人は嘘つき』だ嘘をついた」。
 論理は最初から絶対的なものとして存在するものではなく、つくり出すもの(青柳がつかっていたことばでいえば「こしらえる」)ものだからである。すでに存在するものを整えなおす。そして、それはいつでも「ある」になってしまうものである。
 もうひとつ、「ない」が存在する(ある)と発見したのはギリシャ人であるというということも思い出した。
 池田の書いている「ある」も「余った/ある」かもしれない。

白写  木谷明

さらさらさらさらと
人は出かけて
行きもせず帰りもせず

さらさらさらと
目には風当たり

たぐりよせ
今日も昨日もたぐりよせ
明日に折り返すものはないことを
知りながら

玄関を開ける

 「論理的」に考えると、たぶん一連目の「行きもせず帰りもせず」につまずく。いったいどっちなのか、と。こういうときは、私は、その動詞がどういう具合につかわれることが多いか考える。「会社へ行く」「家へ帰る」。この例だと、木谷の書いていることは非論理的になる。しかし、私たちはたとえば「古里へ行く/古里へ帰る(帰省する)」ということがある。こういうとき、「行くの? 帰るの?」と問いかける人はいないだろう。このとき、たぶん意識しない動詞に「いる/ある」がある。私はいま「家(ここ)」にいる。そこを起点にして、ある場所へ「行く」、ある場所へ「帰る」。このとき「行く/帰る」は物理的には同じ方向への動きだが、意識的には違うのである。
 その「意識」に注目して「行く/帰る」のほかにどういう動詞がつかわれているかを見てみる。おもしろいのが「たぐりよせる」である。ここにないものを、ここにたぐりよせる。それは、意識がここから、ここではない場所へ行く(帰る)ことでもあるだろう。そのとき「行く/帰る」のどちらをつかうか。
 木谷は、決めない。かわりに「開ける」という動詞をつかう。どちらを選ぶかは、そのひとにまかされている。「昨日/今日/明日」のすべてを「開けたまま」にしておく。
 「白写」は造語。どういう意味かは、読んだ人が考えればいいだろう。

あなたに届けられるなら  徳永孝

あなたが私の事を思い出し悲しんでいる様子や
時々私に会いたくてこちらに来たいと思っているのを
見ていると心配です。

あなたがこちらへ来るのはまだ早すぎます
そちらの生活を充分味わってからでも遅くはない
と思いませんか?

あなたが日々暮らしていて
幸せでいる様子が見られたなら
私も安心してこちらの生活を送れます。

時が満ちあなたがこちらへ来た時には
それまでのお互いの出来事や思いを心ゆくまで語り合いましょう。
私にはこちらで気の合う新しい仲間もできました。

あなたにもこれからまた多くの出合いが有ることでしょう。
ああそうだ、いつかあなたにチャンスが巡って来れば
新しい恋をするのはどうでしょう?

嫉妬しないのか? ですって
そうですね、するかもしれませんが
あなたの幸せが私のよろこびですから

 「届ける」(届く)という動詞は、タイトルにはあるが、本文にはない。それは徳永の意識のなかに深く根づいているから、ことばにならなかったのである。すべてのことばを届けたい、ということである。

 

 


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「現代詩手帖」12月号(37)

2023-01-15 10:54:40 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(37)(思潮社、2022年12月1日発行)

 石田瑞穂「流雪孤詩から」。

長く 雪夜に独りきりだと
個の時間と外の時間が
合流した感覚が
おとずれて おもわず
孤独そのものに 手紙を
書きたくなってくる

 つまり。
 この詩は「孤独」そのものにむけて書かれた「手紙」ということになる。

袈裟沢の森のシメシャラや
岳樺 水芽 山桃の森

 美しい二行だ。他にも美しい描写が多い。雪の日の孤独は美しいものらしい。美しさとは……。

瞳や指ではふれられない
こころでしかふれられない

 しかし、私は、そういうものよりも肉体で触れるものが好きだ。
 カニエ・ナハ「三瓶笑理 06.09.2022」は、耳の聞こえない人(三瓶笑理は、たぶん、そういう人)が、手話をとおしてプラネタリウムの解説を聞く。

暗やみのなかとなりの席に座っている先生が、プラネタリウム解説員の声を
手で再生する先生の声に、先生の手に笑理の手が触れて、手で手に耳をすませている。
先生の手が少しくひんやりしていて、笑理はおもった、星にそのままさわっているみたい。

 「声」「手」「耳」と「ことば」がかわっていく。この変化についていくことが「触れる」「さわる」なのだが、途中に出てくる「すませる」がとてもいいなあ。耳をすませるとき、世界が、肉体が、澄んだものになる。この「澄む(すむ)」は区別がなくなるということだろうなあ。そこでは、何かが、つねに生まれ続ける。「手」は「声」に、「手」は「耳」になってうまれつづけ、それは「星」にさえなってしまう。
 ここには「わざと」が入り込む余地がない。ただ「自然」が動いているだけだ。「自然」とは「世界」であり「宇宙」だ。それは「こころでしかふれられない」ものではなく、「手」で触れることのできるものである。「ことば」で触れるだけではない。

 鎌田尚美「持ち重り」。鎌田は「最中(もなか)」に触る。途中に、こんなことを思う。

死刑囚が、刑の執行の直前に出された最中を見て
「最中はさいちゅうと書くのですね、わたしは刑の最中なんですね」
と言ったという

 意味はわかったようで、わからない。
 詩は進んで、歩いていたとき地震があって、思わず持っていた最中をつぶしてしまう。無意識の「肉体」の反応。それが引き起こす、世界の変化。というと、おおげさかもしれないが。
 その最後の一連。

階段の途中の踏み板に足をかけたとき、呼ばれたような気がして振り向くと、行き止まりの道の先にある電信柱に灯が灯り、巨大な蝋燭のように見えた

 いつでもだれかが「呼んでいる」。最中が死刑囚を呼んだのかどうかわからないが、その死刑囚の声が鎌田には聴こえたのだろう。
 カニエの詩では、笑理が先生を呼んだのかもしれないが、その先生は知らずに星を呼び寄せ、指先に出現させている。「肉体」では、なんでも、起きてしまう。
 鎌田の詩では、電信柱が「巨大な蝋燭に見える」ということも起きる。この巨大な蝋燭が、私には、ふと死刑囚に見えてしまう。
 「自然」ではなく「超自然」か。しかし、「超自然」というのは「絶対自然」かもしれない。笑理が触れた星の「ひんやり」も「絶対自然」だ。「わざと」も「わざわざ」も入り込む余地はない。

 

 

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