詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三木清「人生論ノート」から「仮説について」

2023-01-22 21:03:57 | 考える日記

三木清「人生論ノート」の「仮説について」。

仮説とは何か。「本当かどうかわからない説」というのが18歳のイタリア人の「定義」だった。
ここから、「仮説」の反対のことばは何かを考える。どういうときに「仮説」ということばをつかうか。
コペルニクスは、地動説を唱えた。最初は「仮説」(コペルニクスは、信じていたが)。それが「事実(真理)」になるまでに、どういうことがあったか。「論理」が正しいと「証明」できたとき、「仮説」が「事実/真理」になる、というようなことを雑談で話し合った後、本文のなかに出てくる「証明」ということばに注目するようにして読み進める。
三木清の書いている「仮説」は科学的な「仮説」ではなく、「思想(まだ認められていない行動指針)」を「仮説」と呼ぶことで論を展開したもの。
つまり、三木清は「仮説」とはどういうものであるか、というよりも、「思想」とはどういうものであるかを、「常識」と対比させて語っている。
「思想」とは「信念」であり、それはときには危険である。他人にとって危険というよりも、本人にとって危険である。そのことをソクラテスを例に、さらりと書いている。ソクラテスが従容として死に就いたのは、彼が偉大な思想家だったからである、と。
この論理展開の仮定で、三木清の好きな形成、構想、創造ということばが出てくる。これを18歳のイタリア人が、的確に読み進める。

私がいちばん驚いたのは、途中に出てくる「自己自身」ということばを「自分自身」と読み違え、すぐに気づいて「自己自身」と読み直したこと。「自己自身」を「自分自身」と読み違えることができるのは、完全にネイティブのレベル。意味は同じだから。「最初の文字を見たら、次の文字を連想して読んでしまう」というのだが、それができるのがネイティブ。

さすがに、ソクラテスのところに出てきた「従容」は読めなかったが、これを正確に読むことができる日本人がどれくらいいるか。「従容」をつかって「例文」をつくれる日本人が何人いるか。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

郡宏暢「スタンプ」

2023-01-22 12:01:30 | 詩(雑誌・同人誌)

郡宏暢「スタンプ」(「アンエディテッド」、2022年12月31日発行)

 郡宏暢「スタン」プの一連目。

郵便受けに落ちた手紙の
あて所に尋ねあたりません、の
青いスタンプに
なんでも見通せてしまう世界をすり抜けて
人の消息だけが消えてしまう
そんな
濡れた髪が
乾くまでの時間のような懐かしさを抱きかかえて
わたしの差し出した手紙は
わたしの手のひらへと
湿り気を帯びた主語をたずさえて
舞い戻る

 手紙がもどってきた。そこから、いろいろなことを考えていく詩なのだが、私は途中にぽつんと出てくる「そんな」という一行につまずいた。「そんな/濡れた髪が/乾くまでの時間のような懐かしさを抱きかかえて」というたとばの「配分」につまずいたというべきか。つまずきの最初が「そんな」という一行だったのだ。
 「濡れた髪が/乾くまでの時間のような懐かしさ」は比喩だが、「そんな」はどのことばまでを指し示しているのか。「そんな濡れた髪が」ではないだろう。「濡れた髪」は、そのことばの前には出てこないのだから、指し示しようがない。それでは「濡れた髪が乾くまでの時間=そんな時間」なのか、「そんな濡れた髪が乾くまでの時間のような懐かしさ=そんな懐かしさ」なのか。
 こんなことは、たぶん、考えてみたって始まらない。
 最初から計画を立てて(?)、そういうことばにしようとしていたのではないだろう。書いているうちに自然にことばがことばを呼び、長くなって行ったのである。
 「そんな」と書いた瞬間は、まだ「濡れた髪」ということばを思いついていない。「濡れた髪」がやってきたあと、「乾くまでの時間」ということばがやってきて、それから「懐かしさ」というこばがやってきた。「そんな」を書いたときには、「懐かしさ」ということばはまだ存在していない。
 なぜというに。
 手紙を出したとき(書いたとき)、それがもどってくるとは想像していない。受取人がいると想像している。ところが受取人がいない。不在だとわかって、はじめて不在の人が「懐かしくなる」ということが起きる。「懐かしい」ひとに書いた手紙だとしても、不在だとわかった(連絡がとれなくなったとわかった)ことによって、「懐かしさ」が強くなる。そういう「変化」がここには書かれているのだから。
 そのことが、この詩全体のなかで果たしている「役割」というのは、私にはよくわからないが、(簡単に言い直すと、それ以後は「青いスタンプ」の「青い」ということばに象徴されるように、書かれているのは「抒情」だけという気がするのだが)、「そんな」という一行の抱え込んでいる不思議なあいまいさはおもしろいと思った。
 音楽(交響曲)が転調するときの、最初の不思議な、鮮烈な「一音」という感じだ。
 この、どこへことばが動いていくかわからないという感じのまま、その後のことばが動いていくと、とてもおもしろい作品になったと思う。

 

 


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(skypeかgooglemeet使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(4)

2023-01-22 10:47:09 | 中井久夫「ギリシャ詩選」を読む

中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(4)

 「窓」。幽閉されている。投獄されているのかもしれない。窓がないかと探し回る。

一つ開いていたらすごい救いだ。

 「すごい」ということばをこういう具合につかいはじめたのはいつのころからだろう。私はいまでもどうにもなじめないのだが、中井は「すごく」ではなく「すごい」とつかっている。そこに「文法の破れ」というか、「口語」の卑近さを感じるのは私だけかどうかはわからないが、この「すごい」によって、投獄されている人が「生々しく」見えてくる。気取った人間、私とは別世界の人間という感じではなくなる。
 この詩の真骨頂は、このあとの意識の変化のスピードにある。今回の連載では、詩から引用するのは一行だけと決めているので、その急展開のおもしろさを紹介できないのだが、その「急」を予感させる(想像させる)のが「すごい」という粗野なというか、品を欠いた口語である。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy Loco por España(番外篇280)Obra, Luciano González Diaz

2023-01-22 09:50:03 | estoy loco por espana

Obra, Luciano González Diaz

 Lo que llama mi atención de esta obra es la exageración del brazo izquierdo. Los brazos humanos no son tan gruesos. Sin embargo, al mantener el equilibrio en un trapecio con el brazo alrededor de esta forma, el brazo puede sufrir tension. La conciencia está en el hombro izquierdo. Por otro lado, no hay conciencia de las piernas. Así, la pierna izquierda es absorbida por la derecha como si no existiera. La curvatura desde la cintura hasta el pecho también es extraña, pero el movimiento de la fuerza puede ser así.
 Las obras de Luciano siempre encarnan el movimiento de fuerzas dentro del cuerpo más que el movimiento del cuerpo. A menudo se expresa en espacios inestables. Esto hace que el movimiento de las fuerzas dentro del cuerpo sea más vívido. Parece como si se moviera, aunque está inmóvil.
 Algunas obras de Luciano conmueven. Si toco este trabajo también, el columpio se balanceará. Entonces lo entenderás. En ese, por el contrario, el cuerpo del hombre está firmemente estabilizado. Luciano está convirtiendo el movimiento de las fuerzas internas del cuerpo en una obra de arte.

 この作品で目を引きつけられるのは、男の左肩、左腕の誇張である。人間の腕はこんなに太くない。だが、ブランコのコープに、このような形で腕をまわしてバランスをとるとき、肩と腕には力が入るかもしれない。意識の中心は左肩と腕にある。一方、足の方には意識が行かない。だから左足はないかのように右足に吸収されてしまっている。腰から胸へかけての湾曲も異様だが、力の動きはたしかにこんな具合かもしれない。
 肉体の動き(形)ではなく、力の動き(その配分)を見る作品なのだ。Luciano の作品は、いつも肉体の動きというよりも、肉体のなかの力の動きを具現化している。それは多くの場合、不安定な空間のなかで表現される。そのために、肉体のなかの力の動きがより生々しくなる。止まっているのに、まるで動いているように見える。
 Luciano の作品は、動くものが多い。この作品も揺すれば、ロープごと揺れるだろう。そのときわかるはずだ。その揺れのなかでは、逆に、男の肉体はしっかり安定する。揺れる動きを吸収し、支配する肉体のなかの力の配分が具体化されているのだ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする