詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy Loco por España(番外篇276)Obra, Lu Gorrizt

2023-01-11 12:26:24 | estoy loco por espana

Obra, Lu Gorrizt


 La obra de Lu no tiene "tamaño". Si sólo miras las fotos por internet, no sabes la "tamaño". Y no sólo cuando se miran en Internet. He visto su obra en su galerías y su estudio de Valencia, pero no me siento "tamaño".
 Quizá el "tamaño" se determina cuando la obra se expone en una sala en algún lugar (o alguien). Sería mejor decir que la obra determina el "tamaño" de la habitación. Cuando veo su cuadro expuesto en una habitación, me siento que es mejor. Siento que se enfrentan al espacio interior y ofrecen un nuevo espacio. Así que cuando miro su cuadro, imagino la habitación.
 Para el cuadro (150 x 150 cm ) con Lu, estaría bien una habitación tranquila sin ventana. Me gustaría esconderme detrás del cuadro. Así que sería mejor que fuera más pequeño. El otro cuadro (110 x 190 cm), por el contrario, quedaría mejor en una habitación más grande. Cada vez viene más gente. En ese momento, me gustaría entrar en la "amplitud" creada por el cuadro y pasear solo de forma relajada. Por esta razón, creo que sería más interesante si el cuadro fuera más del doble de grande de lo que es ahora, tanto vertical como horizontalmente.

 Luの作品には「大きさ」がない。絵だけを見ると「大きさ」がわからない。インターネットで見るときだけではない。私は、バレンシアのギャラリーとアトリアで彼の作品を見たが、「大きさ」を感じない。
  たぶん、どこか(だれか)の室内に展示されて、「大きさ」が決まるのだと思う。作品が室内の「大きさ」を決めると言い直した方がいいかもしれない。室内に飾られた絵を見ると、とても落ち着く。室内の空間と向き合って、新しい空間を提供しているという感じがする。だから、絵を見るときは、室内を想像してみるといいかもしれない。
 Luが横に立っている絵(150 ×150cm )は、窓のない静かな部屋がいい。ひとりで絵の背後に隠れてみたい。だから、もう少し小さい方がいいかもしれない。もう一枚(110 ×190cm )は反対に広い部屋がいい。人がどんどん増えてくる。そのとき、絵がつくりだす「広さ」のなかに入り込み、ひとりでゆったりと歩き回る。そのためには、縦横とも今の2倍以上あった方がおもしろいだろうと思う。

 

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「現代詩手帖」12月号(33)

2023-01-11 10:58:01 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(33)(思潮社、2022年12月1日発行)

 草野早苗「訪う者」。

訪う者は
烏瓜のランプを作りたいと言う
森に行って烏瓜を集め
もう私は何もいらないので
烏瓜をくりぬいて
小指より小さな蝋燭を立て
訪う者の光を移して
心優しい人々の家の前に
ひとつずつ置いた

 「もう私は何もいらないので」で、私は少しつまずいた。「何も」と「わざわざ」言ったのはなぜなんだろうか。「訪う者の光を移して」にもつまずいた。「心優しい人々の家」の「心優しい」にもつまずいた。
 「小指より小さな蝋燭を立て」の「小指より小さな」は「烏瓜のランプ」をつくったひとでないと言えないことばだろうと思って、こころが静かになった。
 私は、こんなふうに読み返してみた。

訪う者は
烏瓜のランプを作りたいと言う
森に行って烏瓜を集め
もう私はいらないので
烏瓜をくりぬいて
小指より小さな蝋燭を立て
人々の家の前に
ひとつずつ置いた

 近藤洋太「エリザベス 二〇一五年十二月 望月櫂」。

男子から告白されたことは何度かある
でもボクは恋愛感情が湧いてこなかった
本当のことを言えば
夢のなかでボクは男になって女の人を愛していた
顔の分からない女の人を
ネットで調べたらトランスジェンダー男性
忌まわしい言葉に思えた

 「忌まわしい言葉に思えた」のは、望月櫂がそう思ったのか。近藤が、そう思わせたかったのか。この区別がむずかしい。
 草野の詩で「訪う者の光を移して/心優しい」を削除したい気持ちになるのは、これに似ているなあ。
 ことばを動かしているのはだれ?

 杉本真維子「八月の自棄(じき)」。

わたしに父が
いたのですか
わたしに父が
いたのでしたっけ
十年はざんこくに過ぎて
もうはるかとおく
一日のほとんどを
忘れて過ごしている

 このとき「忘れている」のは「父」のことか、それとも「十年」のことか。どちらかわからない。私は、かなり長い間、そのことを考えた。
 これは最終連で、こう言い直されている。

荷造りの紐を力任せにひっぱって
息をつく
この奇妙な力の入り具合
不意に臓腑をにぎられたような
カッとひらく焦りと命の燃えさし
ジーキィジーキィ 腹の底から蝉があえぐ
八月のせいにして
そそくさと買い物に出かける

 「この奇妙な力の入り具合」は、主観か、客観か。「不意に臓腑をにぎられたような」も主観か客観か。というよりも。このとき杉本は「杉本の肉体」を描写しているのか、それとも「父の肉体」を描写しているのか。わからないね。いや、わからないというよりも、あ、杉本は「杉本の肉体」のなかに「父の肉体」を感じているのだと思った。
 荷造りをするときの「父の肉体」に「杉本の肉体」が重なる。これは、しかし、あたりまえというか、「荷造りをする肉体」というのは、どんな人間の肉体にも共通する。違うことはできない。それなのに、「共通する」と感じ、それをことばにしてしまう。
 と書けば。
 一連目で「忘れて」いたのが「父」だということがわかる。たいていの場合、忘れているが「一日のほとんど」の時間「を/忘れて過ごしている」。しかし、何かあると、ふと思い出す。荷造りをすると、その荷造りをする肉体のなかに、忘れているものがふいにあらわれる。それは「忘れたい」ものだと気がつく。しかし「忘れられない」のだ。「意識」ではなく「肉体」がかってに思い出してしまうからである。
 このあたりの「動き」を近藤の「忌まわしい言葉に思えた」と、まるで他人のドラマとして書いている。望月櫂という人が、近藤にとっては「他人」なのだから、それはそうなるのしかないのかもしれないが、他人だとしても、ことばを動かせばそこに杉本の書いている「父と子」のような関係が生まれるのが「文学」というものではないのか。「ことばの肉体」が「肉体のことば」と交錯し、見分けがつかなくなるのが「文学/詩」の楽しみじゃないかな、と私は思う。
 そうでなければ、「わざわざ」他人を書く必要はない。「他人」こそが「私」なのだ。道でだれかがうずくまって、腹を抱えて、うなっている。「あ、この人は腹が痛いんだ」と感じてしまう。「他人の肉体」なのに「自分の肉体」だと思ってしまう。この瞬間の、越権というか、超越というか。その瞬間の「肉体とことばの一体感/ことばと肉体の一体感」。「わざと」ではなく、「わざわざ」詩を書くのならば、それを書いてほしいなあ。そういうものを読みたい。

 

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