詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「現代詩手帖」12月号(39)

2023-01-17 09:18:54 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(39)(思潮社、2022年12月1日発行)

 齋藤恵美子「白点」。

無数の、白点が埋めてある
ひと、に似ているが、光、かもしれない
--世界の剥製に触れているのか

 「無数の、白点が埋めてある」は断定。しかし、そのあとにつづくことばは、と書いて、私は迷う。推定、疑問であり、仮定である、といったんは書いてみるが、認識であると書き直そうとして、さらに悩む。「無数の、白点が埋めてある」は認識ではないのか。断定しているが、それは「事実」なのか。齋藤の間違い、「誤認」かもしれない。
 つまり。
 「ことば」しかないのである。

ここにも、白点が施され
打たれた水滴の、一つ一つが
魂のように見えてしまう

 私は「魂」を見たことがないので、「魂のように見えてしまう」と書かれていても、何も想像できない。ほんとうに「魂のように見えた」のか、「魂のようだと見たい」のか。たぶん、「見たい」のだろう。「見えてしまう」ことを後悔している(見たくない)というよりは、「見たい」という欲望が「見えてしまう」にこもっていると私は感じる。最初に書かれていた「ひと」が、ここでは「魂」と書き直されており(つまり、齋藤は「ひと=魂」と見ているのであり)、この書き直しこそが齋藤の「欲望/本能」が動いている部分であるといえるだろう。
 世界は「欲望/本能」にあわせて、ことばとして現われる。

 鈴木康太「福祉」。「撃たれた鳥」の落下を書いている。

地面にぶつかる、そのまえに
ぼくは満たされたい
額から顔が出る
それは、あなたの顔で
声はぼくの喉を切る

 それを「見たい」。このときの「見たい」は「体験したい」になる。いいなあ、額が割れて、その裂け目から別の顔が出る。それは作者の「欲望」そのものだ。それに気づいて、悲鳴を上げる。
 ここに「矛盾」があるとして、それは対立するものが結合しようとする矛盾だろうか、それとも分離することを欲する矛盾だろうか。
 こういうことは「論理」の問題になってしまう。そして「論理」の問題であるかぎり、それは「後出しジャンケン」であり、どうとでもいえる。

 では、「論理」って、なんのためにある? ということの「答え」になるとは思わないが、瀬尾育生「ウエスタン」は、とても「論理的」な詩である。

木がそこに生えているので、私はそれによりかかっていたのです。私は決して、木がそこにはえていると信じたから、それによりかかっていたのではありません。木が生えているということは私にとって、そのようなことです。
                  (注、「と信じた」には傍点が振ってある。)

 「信じる」と「気持ち」の問題。「認識」の問題とも言い直せる。しかし、それが「認識」であるかぎり、いつでも「誤認」の恐れがある。間違っているのに信じてしまう。その結果、たどり着くものが「間違い」なら、その「認識」は無効になる。だから、「信じる」を根拠にして「論理」を展開することは無意味である。
 しかし。
 「論理」というものが、そういうものであるという「認識」そのものをテーマにすれば、「認識」について語ることができる。「事実」と「認識」の関係ではなく、「認識」とはどういうものであるかという「認識」。テーマとしての「認識」は、いわば「虚数」のようなもの。現実には存在しないが、「論理」のなかでは存在すると定義して動かすことができる存在。ここからはじまる「認識」の運動を「メタ認識」というのかな? 面倒なことは、私は知らないままにして、テキトウに書くのだが、瀬尾が書いているのはそういう「純粋な(つまり「事実」を無視した)、論理のための論理」の運動と「ことば」の関係である。
 「そのようなこと」という表現(そして「そこ/その」の多用)が、それを的確にあわらわしている。「そのような」としか言えない、そう指し示すしかないものがあり、指し示した以上、そこからことばが論理として動き始めることができる。
 これを象徴的にあらわしているのが「生えている」という動詞。木が「ある」のではなく「生えている」。それは、「よりかかる」という動詞と切り離せない。木があったからよりかかったように見えるが、ほんとうは「よりかかる」という動詞が「木」を呼び出している。木を「生えさせている」のである。「よりかかる」とき木が「生えてくる」のである。もっと言えば「その/そこ」と何かを指示した瞬間に、その指示を確固とするために「生えてくる」。
 そのような世界。
 私も瀬尾を真似て「そのような」をつかうしかないのだが。

 こういうことは「わざわざ」しないと出現しないことばの世界なのだが、その「わざわざ」が「自然」になるときがある。「自然」になるとおもしろいし、そういう「自然」にふれると何か目がさーっと洗われる感じになるが、「自然」に到達しないときは「わざと」が目障りになる。
 瀬尾は、この「自然」を畏れながら(恐れながらではない)、そこに近づき、遠ざかり、という運動を繰り返している。「自然」に到達できることを知っているが、「自然」に到達することを拒否しながら、「わざと」書いている。「自然」に到達しないこと、を課題にしているのかもしれない。到達してしまうと「哲学」か「宗教」になってしまうかもしれないからね。
 ややこしい詩人だ。面倒くさい。しかし、この「ややこしさ/面倒くささ」は、私には「信じられる」もののひとつである。

 


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