詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(5)

2023-01-28 18:51:05 | 中井久夫「ギリシャ詩選」を読む

 「テルモピュレ」。戦争での「正義」がテーマ。「連中は正義でひたむき」ということばが前半に出てくるが、後半に次の一行がある。

けっきょくエフィアルテスのたぐいが出てきて、

 「たぐい」ということばが、とてもおもしろい。「そんなヤツとは同類ではない」という侮蔑、怒りのようなものが噴出している。
 もし彼が裏切り者ではないときは、「たぐい」ということばは不要だ。
 「正義」には「たぐい」というものはない。それは、「ひとつ」なのだ。それが「ひたむき」という意味でもある。
 だから「ひたむき」が「たぐい」の伏線にもなっている(予感させる)のだが、この呼応のなかには戦士との「一体感」がある。中井(カヴァフィス)は、歴史家ではなく、この詩のなかでひとりの戦士になっている。

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中井久夫『アリアドネからの糸』

2023-01-28 17:27:29 | 考える日記

中井久夫『アリアドネからの糸』(みすず書房、1997年08月08日発行)

 中井久夫『アリアドネからの糸』のなかに「ロールシャッハ・カードの美学と流れ」というエッセイがある。これは、とてもこわい文章である。最初に出会ったとき、こわくなって、最後まで読むことができなかった。中井がつかっていることばを借りていえば「悪夢」のような文章である。
 「悪夢」は、こうつかわれている。

 もし、ロールシャッハ・カードが別々の十枚ではなく、ブラウン管の画面にまず第一カードが映り、この第一カードが変形して第二カードになり、第二カードが変形して第三カードになり、以下同様に第十カードまでつづくならば、これは想像するだに怖ろしい。これこそ端的な悪夢である。われわれはなすすべもなく、ただおののいて眺めるか、あるいは逃げ出すしかない。(354、355ページ)

 私は十枚のカードを「ブラウン管の画面」ではなく、中井の文章のなかで、次々に変形していくものとして読んだのである。十枚が別々のものではなく、一続きの連続した「流れ」としてあらわれ、その「流れ」のなかにのみこまれていく。
 そして、それは「映像」ではなく、「誤読」を許さない完璧な「論理」なのである。「論理」が私をのみこんでいく。これから書くことを中井は否定するかもしれないが、「論理」というのは「結論」という枠のなかにひとを閉じ込める。この閉塞感が、私とにっての「悪夢=恐怖」なのである。
 しかも、その「論理」が「中井の論理」というよりも、「ロールシャッハの論理」に感じられてしまう。中井は、いわゆる「チューニング・イン」状態で、カードの持っている美学とそれぞれの「意味」を語るのだが、それがほんとうにロールシャッハの「意図」そのものとして浮かび上がってくる。私は、ロールシャッハのカードを見たことはないし(本に収録されているのはモノクロの図版)、ロールシャッハの書いたものを読んだこともないから、私が感じる「ロールシャッハの意図(論理)」というのは「空想」でしかないのだが、ロールシャッハはそう考えたに違いないと感じてしまう。私は二重の「悪夢」のなかに取り込まれてしまう。
 この感じは、訳詩について書いた文章、特に「「若きパルク」および『魅惑』の秘められた構造の若干について」を読んでも感じられる。それは中井の分析なのだが、中井が分析しているというよりもヴァレリー自身が語っているような揺るぎない「論理」なのである。中井がヴャレリーに「チューニング・イン」してしまっている。

 たぶん「若くパルク」「魅惑」の中井久夫訳を「象形文字」に掲載した前後だと思うのだが、私は、中井久夫に会いたくて手紙を書いたことがある。そのとき、中井は「私は職業柄、どうしても会った人を分析的に見てしまうので、会わない方がいいでしょう」と断られた。そのことばは、「真実」であると同時に、今から思うと「親切」でもあったのだとわかる。
 「チューニング・イン」というのは、一方においてだけ起きることではなく、二人の間で起きることである。だから「生身」の人間が相手のときは、たぶん、危険なのだ。中井にとって「危険」というよりも、私にとっての「危険」の方が大きいだろう。私は、そのころ、中井の訳詩(そのことばのリズム)に陶酔していたから、「チューニング・イン」を起こした後では、もう詩が書けなくなっていたかもしれない。
 それから何年かして、『リッツォス詩選集』を出版するとき、編集者をまじえて三人で会ったことがあるが、これは三人だからよかったのだと思う。「ニューニング・イン」が緩和される。

 中井の文章は、あるいはことばと言った方がいいのかもしれないが、それは「チューニング・イン」を経てきて、表面化される。あるテーマについて書く。そのときそのテーマとともに存在する人間がいる。その人間に「チューニング・イン」して、そのリズム、論理でことばが動いている。だから、どの世界も「中井個人」の超えて、「別の世界」が二重写しになってダイナミックに動く。奥が深いとは、こういうことを言う。
 それが詩の場合は、わあ、おもしろい、という感嘆になるが、ロールシャッハ・カードの分析では、何か、私自身が「強制的」にテストされているとさえ感じてしまうのである。
 奇妙な言い方だが、中井が死んでしまったいまだからこそ、安心して読むことができる。「チューニング・イン」が、現実ではなく、ことばのなかだけで起きるからだ。中井の訳詩については、私はこれまでいろいろ書いてきたが、エッセイについて書いてこなかった。それは、どこかでこの「チューニング・イン」の力を恐れていたからなのだろう。
訳詩を読んで、そのことばの肉体感染したとしても、私はカヴァフィスに、あるいはリッツッスに「チューニング・イン」したと言い逃れることができる。

 

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Estoy Loco por España(番外篇282)Obra, Antonio Pons

2023-01-28 09:39:07 | estoy loco por espana

Obra, Antonio Pons
“La immortalitat de la memòria”

  La obra de Antonio Pons para recordar la liberación del campo de concentración de Auschwitz. Se publicó el 27 de enero, décimo aniversario del Día Internacional en Recuerdo de las Víctimas del Holocausto.
  ¿El tramo recto sigunifica los barrotes que encerraban a los judíos? ¿El semicírculo es una esposas o un grillete? ¿Es un símbolo de tragedia?
  No. Es la figura de un judío que ha sobrevivido a las penurias. Una fuerza que se extiende hasta el cielo. Pero había dificultades en el camino. Un círculo que circunvala, con dificultades. Sufrimiento, pena, llanto a gritos. El hueco del corazón. Pero el poder que ha sobrevivido vuelve a apuntar directamente a los cielos. El poder que sobrevivió se transmite al futuro. Esta es la historia del mundo.

  Este semicírculo abierto, el semicírculo que une las líneas rectas, es la boca de la que emana el grito sin voz. Y esa voz no era muda, pero no la oímos.
  Cuando hacemos de esta boca vociferante (el semicírculo) de los judíos supervivientes nuestros oídos, cuando abrimos bien los oídos y oímos la voz de los judíos masacrados, esa línea recta se convierte en nuestra figura. Así es como debemos convertirnos en nuestra propia figura.

 No debemos limitarnos a recordar la miseria de los judíos. No debemos limitarnos a recordar el Holocausto. Debemos convertir las voces que oímos en nuestras propias bocas que cuenten la historia.
 La obra de Antonnio está impregnada de esta determinación. No son simples monumentos conmemorativos.


  Antonio Pons のアウシュビッツ強制収容所解放を忘れないための作品。「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」10周年の1 月27日に公開された。
  まっすぐに伸びるのは鉄格子か。半円は手錠か、足かせか。悲劇の象徴か。
  そうではなくて、苦難を生き抜いたユダヤ人の姿だろう。天に向かってまっすぐに伸びる力。ただ、まっすぐなだけではない。困難を抱えて、迂回する円。苦しみ、悲しみ、大声で泣く。そのときのこころの空洞。しかし、そのあと再びまっすぐ天をめざすものに力を引き継ぐ。そうした歴史を語っている。

  この開かれた半円、直線を結びつける半円は、声にならない叫びを発する口だ。そして、その声は、声にならなかったのではなく、私たちが聞かなかったのだ。
  この生き抜いたユダヤ人の声を発する口(半円)を、私たちの耳にするとき、私たちが耳を大きく開いて、惨殺されたユダヤ人の声を聞くとき、その直線は私たちの姿になる。そうやって、私たち自身の姿にしなければならない。

 単にユダヤ人の不幸を思い出すだけではいけない。ホロコーストを思い出すだけではいけない。聞き取った声を語り継ぐ私たち自身の口にしなければならない。
 Antonnioの作品には、そういう強い決意がこもっている。単純な追悼のモニュメントではない。

 

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