「現代詩手帖」12月号(36)(思潮社、2022年12月1日発行)
舞城王太郎「Jason Fourthroomから」。新幹線に飛び込み自殺した「女の子」が登場する。彼女のことを、こう書いている。
彼女はわざとそんなふうに死んでみせたのだ、と。
彼が困っていたことは
わざと新幹線に撥ねられて130メートル飛んで無傷で死んでしまうような女の子が
自分のことを好きになったことだった。
「わざと」が二回登場する。
谷川俊太郎の「わざわざ書く」を取り上げたとき、そしてこの連載を書き始めたとき、私はこの舞城の詩を知らなかった。知らないまま、「わざわざ」と「わざと」を比較しながらいろいろなことを考えた。
そのなかに「自然」ということばもつかった。それが、こんなふうに出てくる。
もしかして 僕は 今でも
彼女のことが好きなんじゃないかと
思うことがある。
(略)
それは自然だし
ある意味お前が健全な証拠だ、と
友達は言った。
「わざと」自殺した彼女について「もしかして 僕は 今でも/彼女のことが好きなんじゃないかと/思うことがある。」と書くのは「わざわざ」なのだが、その「わざわざ」は「自然」なのだ。「自然」に思い出してしまう。思ってしまう。それは「思う」だけで、こころの内にしまっておいてもいいのだが、「わざわざ」書く。書かずにいられない。言わずにいられない。思いがあふれてくる。それは「自然」にあふれてくる。それを「健全」ということばで言い直している。
この「健全」は、しかし、矛盾を抱えている。
でも健全であることはとても苦しい。
特に 一人で 朝早く
目が覚めた時なんか。
「健全」が「楽しい/うれしい」とは限らない。「苦しい」。この矛盾のなかに、詩がある。「わざわざ」書かなければならないものがあるとしたら、それは、この矛盾なのだ。
こう書くと、私がいつも書いている「矛盾が詩である」ということばにもつながる。
特に、そういうこととつなげて書くつもりでこの連載を書き始めたのではないのだが、何かについて書いていけば、おのずとことばはつながってしまう。変化しながら、変化しないものにつながってしまう。
舞城の詩の感想になっていないかもしれないが、舞城が書いている「わざと」「自然」「健全」「苦しい」ということばの変化(脈絡)には、強い「ことばの肉体」と「肉体のことば」の共振がある。
山崎るり子「猫町 から」。「理髪店」という詩が、ちょっと宮澤賢治の世界の透明感を持っていて楽しいのだが、引用するのは「金物屋」。
雪の日は冷たい音がする
金物屋の主人は並んでいる鍋を菜箸で叩いて
ねこふんじゃったを演奏できる
たださっきじゃったが売れてしまった
ねこふん「じゃった」が、さっき「じゃった」に変化する。これは「わざと」だろうけれど、「わざと」が瞬間的に終わってしまうので、「わざわざ」になる。瞬間的というのは、すぐに消えてしまう。それを消させないために「わざわざ」書く。
舞城の詩で自殺した「女の子」は、この世から消えてしまう。「あっと言う間」、ある意味では「瞬間」的に消えてしまう。それを消えないようするために「わざわざ」詩を書くのである。そうやって「わざわざ」、「健全に/苦しむ」のである。それが人間の「ことば」なのだ。
和合亮一「SILVERFISHから」。
あなたであるために
あなたが漏らした
涙かもしれないのだが
〇〇で「あるために」。「ある」は英語で言えば「be動詞」か。「生きる」という意味を含むか。舞城の「健全であること」の「苦しみ」(の涙)とつづけて読むことができるかもしれないが、それは「頭」のなかでの論理。つながるはずなのに、つなげると「わざと」になってしまう。
私は、そういう「結論」は、好きではない。
こんなことを思うのも、その前に、和合がこんなことを書いているからだ。
読者諸氏よ
あなたの眼に映る私の詩行は
あなたの精神の電信柱になり得ている
だろうか
「だろうか」という反問的疑問は、「もちろん」なり得ているという「強調された肯定」を要求している。この「わざわざ」が、私には「わざと」に感じられる。「自然」ではないし、「健全」でもない。つまり。この「だろうか」には「苦しみ」がない。「不安」がない。「自己否定」がない。
「自己否定」というのは、こういう具合につかうべきだったんだなあ、と私は、ふと昔を思い出してしまった。和合は何歳か知らないが、和合は、この「自己否定」ということばが飛び交った時代を、どうやって生きていたんだろうと、ふと思いもしたのである。「あなたの精神の電信柱」なんて、どこから思いついた(どこからやってきた)ことばなんだろう、とも思ったのだ。
**********************************************************************
★「詩はどこにあるか」オンライン講座★
メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。
★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
★ネット会議講座(skypeかgooglemeet使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。
費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。
お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com
また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571
*
オンデマンドで以下の本を発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com