詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy Loco por España(番外篇272)Obra, Angel Jose Lafuente Jimenez

2023-01-03 20:27:14 | estoy loco por espana

Obra, Angel Jose Lafuente Jimenez

 La obra de Angel, como la de Joaquín, no me parece hecha a martillazos. No me da la impresión de estar forzado a adoptar una forma.
 Esta obra puede haber empezado como un tubo. Se ablandó y deformó por el térmico de fuego. Además, no se calentaba desde el exterior. En el interior del hierro se produce un térmico intenso y, debido a este térmico, el hierro comienza a fundirse. El hierro no sólo se funde, sino que se parte. Es decir, el térmico atraviesa el hierro y se libera. Angel toma prestado el hierro y da forma a lo que es térmico de fuego. Es dar forma a la energía de la fuego.
 El color rojo me parece muy intenso. Me parece el color de la libertad misma. Por un momento se me olvido que se trata de una escultura de hierro.

 Angel の作品も、Joaquín の作品と同様、ハンマーをつかっているという感じがない。形に、無理やり強いられたという印象がない。
 この作品は、最初は筒のような形をしていたのかもしれない。それが熱によって柔らかくなり、変形したのだ。しかもそれは外部からの加熱ではない。鉄の内部に激しい熱があり、その熱のために鉄が溶け始める。鉄は溶けるだけではなく、裂ける。それは、熱が鉄を突き破って自由になるということだ。Angel 鉄を借りて、熱というものを形にしているのだ。炎のエネルギーを形にしているのだ。
 赤がとても強烈に見える。自由そのものの色に見える。私は一瞬、これが鉄の彫刻であることを忘れてしまう。

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読売新聞を読む(1)

2023-01-03 19:48:11 | 読売新聞を読む

読売新聞を読む(1)

 2023年01月03日の読売新聞。「世界秩序の行方」という連載がはじまった。第一回は「バイオ」をめぐる問題をテーマにしている。中国がゲノムデータを世界中から蓄積していると書いた上で、こう作文をつづける。
↓↓↓
 元米陸軍大佐で国防長官室部長を務めたジョン・ミルズ氏は、BGI(中国の遺伝子解析会社「華大基因」)などが集めたゲノムデータを中国軍と共有している可能性に触れ、「中国は特定の民族に限定した攻撃的なウイルスを作り出すことができるかもしれない。これは致命的な脅威だ」と指摘する。
↑↑↑
 私は読んだ瞬間に、では、アメリカの会社(あるいは大学でもいいが)は、「集めたゲノムデータをアメリカ軍と共有している可能性」はないのか。「アメリカは特定の民族に限定した攻撃的なウイルスを作り出す」可能性はないのか、ということである。
 だいたい中国が攻撃しようとしている「特定の民族」とは何を指しているのか。新疆ウィグルやチベットか。そこに住むひとは「民族」としては「中国民族」ではないかもしれないが、同じ中国の国民である。そういうひとを対象にウィルスで攻撃するとは思えない。中国で、いまアメリカが重視しているのは「台湾」だが、台湾の人たちは何民族というか知らないが、中国系のひとたちである。彼らを照準とした「攻撃ウィルス」はまず考えられない。
 そうなると、「台湾有事」とともに話題になる「日本民族」だろうか。たぶん、そういう「印象」を与えるのが、この記事の狙いだろう。中国は危険だ。日本を狙ってウィルス攻撃をしてくるおそれがあるという印象操作をしたいのだろう。それをアメリカの軍関係者に語らせたいのだろう。
 だいたい考えてみるといい。「特定の民族」が対象なら、アメリカは攻撃対象にならない。アメリカは「多民族国家」なのだから、ある民族を攻撃しても、他の民族(国民)が反撃してくる。アメリカを対象に「特定の民族を攻撃するウィルス」の開発は不可能だ。
 しかし、そういう「開発」が中国で可能なら、アメリカでも可能だろう。アメリカなら中国(民族)を対象に「ウィルス攻撃」ができる。それは中国がアメリカに攻撃するときよりも、はるかに「効率」が上がるからだ。
 先の文章は、こうつづいている。
↓↓↓
 米政府はバイオ技術の育成を国家安全保障政策の一環として推進している。バイデン大統領は同9月、バイオ分野への投資を拡大する大統領令に署名し、「バイオ分野で米国は世界をリードし、世界のどこにも頼る必要がなくなる」と訴えた。
↑↑↑
 明確に、バイオ技術が「国家安全保障政策の一環」であると書いてある。それを「推進している」と書いてる。そのためにバイデンは大統領令に「署名」している。アメリカがバイオ技術を国家安全保障に利用するのなら、中国が利用するなとどうして言えるのか。アメリカにそういう動きがあるからこそ、「中国はこういう狙いを持っている」と発想できるのだろう。
 「バイオ技術」を「核技術」に置き換えれば、すぐにわかる。アメリカは「核技術(核爆弾)を国家安全保障政策」として利用している。それは中国もそうだし、ロシアもそうである。北朝鮮も同じだ。「中国、北朝鮮が核攻撃をしてくるおそれがあるから、アメリカは国家安全保障政策として核ミサイルを保有し続ける。アメリカにはその政策が許されて、他の国がその政策をとってはいけないという論理は、アメリカ中心主義であり、公平ではない。
 もし「アメリカが中国民族に限定した攻撃的なウイルスを作り出すことができるかもしれない」と中国の軍関係者が発言したとしたら、それはどんな反応を引き起こすだろうか。たいへんな問題になるだろう。しかし、アメリカの軍関係者が「中国は特定の民族に限定した攻撃的なウイルスを作り出すことができるかもしれない」と発言していることは問題にされない。そればかりか、アメリカの政策が「正しい」というための根拠に使われている。読売新聞は、そういう論理を平然と展開している。
 読売新聞は、今回の連載の狙いをこう要約している。
↓↓↓
 米中対立やロシアによるウクライナ侵略で、ポスト冷戦構造は崩壊した。米国が主導してきた国際秩序はどうなるのか。日本の戦略はどうあるべきか。
↑↑↑
 「米国が主導してきた国際秩序」が絶対的に正しいという前提である。「米国が主導してきた国際秩序」に対する疑問が完全に欠落している。それが、たとえば「中国は特定の民族に限定した攻撃的なウイルスを作り出すことができるかもしれない。これは致命的な脅威だ」という米軍関係者の発言を、批判もなく引用する姿勢にあらわれている。
 ことばは、慎重に読まないといけない。新聞には、報道記事の他に「作文」記事がある。「作文」には、意図が隠されている。報道にも意図があるが、「作文」の意図は、報道以上に危険である。情報が「作文に書かれた情報」に限定されるからである。

 

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「現代詩手帖」12月号(25)

2023-01-03 11:36:31 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(25)(思潮社、2022年12月1日発行)

 向坂くじら「詩がどこにもいなかった日」。詩がどこにもいなかった日を詩にするのだから、これは「わざと」である。詩のいないところに詩がある、という逆説の真理(?)が詩か。秋亜綺羅みたいだな、という感想が向坂に通じるかどうかわからないが、たとえば私は次の部分に秋亜綺羅を感じる。

詩がどこにもいなかった日
男が笑ったのは良かった
窓のふちが濡れているのは良かった
瓶が高いところから落ちるのは良かった

 このまま永遠につづいていくとおもしろいと思う。でも、それでは秋亜綺羅になってしまうか。しかし、そうではなく秋亜綺羅でなくなってしまうためには、それをつづけなければならないのだが、向坂は、中途半端に「結論」へ逃げ込む。

わたしは呼吸いくつかですぐに眠りに入った
そしてひとつの夢もみなかった
わたしの血のながれは夜のあいだ
たえず終わりのほうへ向かっていた
砂の音をたてながら

 あ、ほんとうに「詩がいなくなった」と私は感じた。それが狙いなら、まあ、向坂の狙い通りなんだろうが、こういう「結論」は詩でもなければ「散文」でもない。「砂の音」には「砂時計(時間)」が暗示されているのだが、時間を語る「哲学」にもなっていない。
 「詩がどこにもいなかった日」をどこまで繰り返していくことができるか、詩がいなくなるまで繰り返していく覚悟があるかどうかが、こういう詩の「いのち」である。「わざと」始めたことは、だれかが「もうやめろ」というまでつづけないかぎり「わざわざ」にはならないのだと思う。

 瀬崎祐「湖のほとりで」。

嵐が過ぎた朝の湖岸には おびただしい数の眼球が打ち寄せられている 昨夜も 嵐にまぎれてたくさんの人が眼球を捨てにこの湖を訪れた 見ることに耐えられなくなってあらゆる風景を拒んだ人たちだ

 とはじまる。「眼球を捨てる」ということは現実にはありえない。だから、これは「わざと」書かれた「寓意」あるいは「比喩」である。この「寓意/比喩」をどこまでつづけられるかが、向坂の詩の場合と同様、とても重要な問題になる。と、「わざわざ」私が書くのは……。
 書き出しの引用部分には、実は、つづきがある。

それは 話すことに疲れた人たちが言葉を捨てるようなことだったのだろうか

 「話すことに疲れた」を「詩を書くこと疲れた」とすれば瀬崎の自画像になるのだろうか。「言葉を捨てる」と「わざわざ」書くのは(自然に書いてしまうのは)、「眼球を捨てる」という「わざと」がすでにもちこたえられなくなっているというか、最後はその「わざと」を捨てるつもりでいるんだな、と感じさせる。「それは」以下の文章は、それこそ捨ててしまわなければいけないものである。
 この詩を成り立たせているものは、「眼球を捨てる」という運動と同時に「嵐が過ぎた朝の湖岸」の「湖岸」がどこの湖を指しているのか、明示されていないことである。読者は、自分で「湖岸」をつくることで詩のなかに(ことばの運動のなかに)参加していく。そのとき頼りになるのは「眼球を捨てる」、逆説的に「見てきたものを意識する/視覚を意識する」という感覚である。それを貫くためには、「言葉を捨てる」という行為を重ねてはいけない。「寓意」の「底」が見えてしまう。
 向坂は「結論」で詩を壊しているし、瀬崎は書き出しで詩の到達点を限定している。「わざわざ」そういうことをする必要はないだろう、と私は思う。

 添田馨「暗澹たる法廷」。

汝らの悪行に悪魔の右手が引導を手渡すとき
天空に轟きわたる開門の荘厳な重低音は
曇天の冷えきった寒空を心底から陰翳に彩り
熾天使の終末の喇叭となって響き渡った!

  あらゆることばに「意味」がありそうである。その「意味」を添田は真剣に受け止め、真剣に読者に手渡そうとしている。その熱意があふれることばの展開だが。
  私は、こういうことばを信じていない。もし街頭でだれかが(たとえば安倍晋三が、あるいは岸田文雄が)こういうことばを話していたら、私はさっさとその場を離れるだろう。批判する気持ちにさえなれない。
 「天空に轟きわたる開門の荘厳な重低音は」には註釈がついていて、こう書いてある。

Apocalytic Sound: 終末の音。
世界各地で観測され報告されている。

 で、その音を添田は聞いたのか。聞いて、実際に「天空に轟きわたる開門の荘厳な重低音」ということばが添田の肉体(意識でもいいが)から生まれたのか。そのときの衝撃は、ここに書かれているような「定型化」した表現で十分なものなのか。どこにも添田のオリジナルな感覚というものが感じられない。おそらく添田はその音を聞いていない。ただ「世界各地で観測され報告されている」ということを「知識」として知っているだけなのだろう。
 添田がこの詩で展開しているのは、そういう「知識」の陳列である。「知識」を知るには、何も添田のことばでなくてもいい。
 詩は「知識」ではなく、「知識」を否定する何か、「知識」とは矛盾する「個」の存在である。
 瀬崎は「嵐が過ぎた朝の湖岸には おびただしい数の眼球が打ち寄せられている」と書いていた。これは、いわゆる「知識」を否定する。瀬崎の書いているようなことは、だれにも共有されていない。添田のことばをつかっていえば、「世界各地で観測され報告されている」ことではなくて、瀬崎が書くことによって、はじめて「出現した事実」である。詩には、そういうことばが必要なのだ。向坂の書いていた「窓のふちが濡れているのは良かった/瓶が高いところから落ちるのは良かった」もまた、向坂が書くことによって「出現した事実(世界)」である。それは「知識」ではない。まだ、だれにも共有されていないことがらである。共有されていないことによって「個」として存在する。それが詩なのである。
 「知識」ほどつまらないものはない。

 私は最近、中井久夫を読み返しているが、彼の文章には、いろいろな精神医学上の「知識」が書かれている。しかし、それは「知識」を超えている。「知識」でありながら、必ずそこに中井久夫の肉体(体験)が反映されている。そして私が読むのは「学術的な知識」ではなく、中井の個人的な体験である。個人的であるから、そこには詩がある。精神医学のことは何もわからないが、それでも中井久夫の文章に引き込まれ、読まずにいられないのは、そのためである。


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〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
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Estoy Loco por España(番外篇271)Obra, Joaquín Llorens

2023-01-03 09:35:37 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens


 La obra de Joaquín siempre transmite la calidez de sus manos. Da la impresión de que la obra no se crea con un martillo o una máquina, sino con la fuerza de la mano.
 Esta vez, se añadió fuego. El hierro calentado por el fuego se ablanda. El hierro ablandado se dobla tranquilamente a su voluntad y toma forma.
 Las dos formas parecen querer abrazarse. Uno de ellos se parece a Joaquín, que ama tanto el hierro que se ha convertido en él. El fuego del amor une a Hierro y Joaquín. Muy hermosa. 

 Joaquin の作品からは、いつも手の温かさが伝わってくる。ハンマーや機械ではなく、手の力で作り上げたという印象がある。
 今回は、火が加わった。炎で熱くなった鉄は柔らかくなる。柔らかくなった鉄は、鉄自身の意思で静かに撓み、形になる。
 二つの形は、抱擁しようとしているようにも見える。その一つは、鉄を愛するあまり、鉄になったJoaquin のように見える。愛の炎が鉄とjoaquin を一つにする。とても美しい

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