「現代詩手帖」12月号(25)(思潮社、2022年12月1日発行)
向坂くじら「詩がどこにもいなかった日」。詩がどこにもいなかった日を詩にするのだから、これは「わざと」である。詩のいないところに詩がある、という逆説の真理(?)が詩か。秋亜綺羅みたいだな、という感想が向坂に通じるかどうかわからないが、たとえば私は次の部分に秋亜綺羅を感じる。
詩がどこにもいなかった日
男が笑ったのは良かった
窓のふちが濡れているのは良かった
瓶が高いところから落ちるのは良かった
このまま永遠につづいていくとおもしろいと思う。でも、それでは秋亜綺羅になってしまうか。しかし、そうではなく秋亜綺羅でなくなってしまうためには、それをつづけなければならないのだが、向坂は、中途半端に「結論」へ逃げ込む。
わたしは呼吸いくつかですぐに眠りに入った
そしてひとつの夢もみなかった
わたしの血のながれは夜のあいだ
たえず終わりのほうへ向かっていた
砂の音をたてながら
あ、ほんとうに「詩がいなくなった」と私は感じた。それが狙いなら、まあ、向坂の狙い通りなんだろうが、こういう「結論」は詩でもなければ「散文」でもない。「砂の音」には「砂時計(時間)」が暗示されているのだが、時間を語る「哲学」にもなっていない。
「詩がどこにもいなかった日」をどこまで繰り返していくことができるか、詩がいなくなるまで繰り返していく覚悟があるかどうかが、こういう詩の「いのち」である。「わざと」始めたことは、だれかが「もうやめろ」というまでつづけないかぎり「わざわざ」にはならないのだと思う。
瀬崎祐「湖のほとりで」。
嵐が過ぎた朝の湖岸には おびただしい数の眼球が打ち寄せられている 昨夜も 嵐にまぎれてたくさんの人が眼球を捨てにこの湖を訪れた 見ることに耐えられなくなってあらゆる風景を拒んだ人たちだ
とはじまる。「眼球を捨てる」ということは現実にはありえない。だから、これは「わざと」書かれた「寓意」あるいは「比喩」である。この「寓意/比喩」をどこまでつづけられるかが、向坂の詩の場合と同様、とても重要な問題になる。と、「わざわざ」私が書くのは……。
書き出しの引用部分には、実は、つづきがある。
それは 話すことに疲れた人たちが言葉を捨てるようなことだったのだろうか
「話すことに疲れた」を「詩を書くこと疲れた」とすれば瀬崎の自画像になるのだろうか。「言葉を捨てる」と「わざわざ」書くのは(自然に書いてしまうのは)、「眼球を捨てる」という「わざと」がすでにもちこたえられなくなっているというか、最後はその「わざと」を捨てるつもりでいるんだな、と感じさせる。「それは」以下の文章は、それこそ捨ててしまわなければいけないものである。
この詩を成り立たせているものは、「眼球を捨てる」という運動と同時に「嵐が過ぎた朝の湖岸」の「湖岸」がどこの湖を指しているのか、明示されていないことである。読者は、自分で「湖岸」をつくることで詩のなかに(ことばの運動のなかに)参加していく。そのとき頼りになるのは「眼球を捨てる」、逆説的に「見てきたものを意識する/視覚を意識する」という感覚である。それを貫くためには、「言葉を捨てる」という行為を重ねてはいけない。「寓意」の「底」が見えてしまう。
向坂は「結論」で詩を壊しているし、瀬崎は書き出しで詩の到達点を限定している。「わざわざ」そういうことをする必要はないだろう、と私は思う。
添田馨「暗澹たる法廷」。
汝らの悪行に悪魔の右手が引導を手渡すとき
天空に轟きわたる開門の荘厳な重低音は
曇天の冷えきった寒空を心底から陰翳に彩り
熾天使の終末の喇叭となって響き渡った!
あらゆることばに「意味」がありそうである。その「意味」を添田は真剣に受け止め、真剣に読者に手渡そうとしている。その熱意があふれることばの展開だが。
私は、こういうことばを信じていない。もし街頭でだれかが(たとえば安倍晋三が、あるいは岸田文雄が)こういうことばを話していたら、私はさっさとその場を離れるだろう。批判する気持ちにさえなれない。
「天空に轟きわたる開門の荘厳な重低音は」には註釈がついていて、こう書いてある。
Apocalytic Sound: 終末の音。
世界各地で観測され報告されている。
で、その音を添田は聞いたのか。聞いて、実際に「天空に轟きわたる開門の荘厳な重低音」ということばが添田の肉体(意識でもいいが)から生まれたのか。そのときの衝撃は、ここに書かれているような「定型化」した表現で十分なものなのか。どこにも添田のオリジナルな感覚というものが感じられない。おそらく添田はその音を聞いていない。ただ「世界各地で観測され報告されている」ということを「知識」として知っているだけなのだろう。
添田がこの詩で展開しているのは、そういう「知識」の陳列である。「知識」を知るには、何も添田のことばでなくてもいい。
詩は「知識」ではなく、「知識」を否定する何か、「知識」とは矛盾する「個」の存在である。
瀬崎は「嵐が過ぎた朝の湖岸には おびただしい数の眼球が打ち寄せられている」と書いていた。これは、いわゆる「知識」を否定する。瀬崎の書いているようなことは、だれにも共有されていない。添田のことばをつかっていえば、「世界各地で観測され報告されている」ことではなくて、瀬崎が書くことによって、はじめて「出現した事実」である。詩には、そういうことばが必要なのだ。向坂の書いていた「窓のふちが濡れているのは良かった/瓶が高いところから落ちるのは良かった」もまた、向坂が書くことによって「出現した事実(世界)」である。それは「知識」ではない。まだ、だれにも共有されていないことがらである。共有されていないことによって「個」として存在する。それが詩なのである。
「知識」ほどつまらないものはない。
私は最近、中井久夫を読み返しているが、彼の文章には、いろいろな精神医学上の「知識」が書かれている。しかし、それは「知識」を超えている。「知識」でありながら、必ずそこに中井久夫の肉体(体験)が反映されている。そして私が読むのは「学術的な知識」ではなく、中井の個人的な体験である。個人的であるから、そこには詩がある。精神医学のことは何もわからないが、それでも中井久夫の文章に引き込まれ、読まずにいられないのは、そのためである。
**********************************************************************
★「詩はどこにあるか」オンライン講座★
メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。
★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
★ネット会議講座(skypeかgooglemeet使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。
費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。
お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com
また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571
*
オンデマンドで以下の本を発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com