詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy Loco por España(番外篇275)Obra, Jesus Coyto Pablo

2023-01-07 14:46:39 | estoy loco por espana

Obra, Jesus Coyto Pablo
"Lettres d'amour et de mal" serie. Oleo Collage sobre papel artesano
70x50 cm. 2022

 ¿Es la perspectiva o la tridimensionalidad de la memoria lo que Jesús está representando?  Mientras escribo, lamento no poder hablar más que con palabras. Las palabras invitan inevitablemente al "significado". Los hechos son más que "significado (orden)", pero en el momento en que se ponen en palabras, se convierten en "orden (significado) ".
 ¿Diría un pintor, un escultor o un músico que lo mismo ocurre con los colores, las formas y los sonidos?
 Ya he escrito sobre este cuadro de Jesús. Creo que escribí sobre "traición". El amor siempre traiciona. Pero, al mismo tiempo, el odio también traiciona. En otras palabras, hay momentos en los que sientes mucha nostalgia de un pasado que deberías haber dejado atrás. Incluso recuerdo la belleza en los ojos de la mujer que miraba a otro hombre. Quizá fue el brillo de sus ojos lo que se enamoró de ella. A veces, en un momento de celos, se enciende un nuevo amor. La emoción llega de repente, burlando el orden y el significado. Lo remueve todo.
 ¿Quiere recordar? ¿Quiere olvidar? ¿Quiere ocultarlo? ¿Quiere dispersos? Los colores rojo, azul, amarillo son hermosos, como si fueran ajenos a tanta angustia. Escribo esto para que lo que veo no se convierta en "significado".

 Jesus が描いているのは、記憶の遠近感なのか立体感なのか。記憶の時間なのか、記憶の空間なのか。書きながら、私はことばでしか語れないことを悔しく思う。ことばは、どうしても「意味」を誘う。事実は「意味(秩序)」を超えるものだが、ことばにした瞬間、「秩序(意味)意味」になってしまう。
 色や形、音も同じだと画家や彫刻家、音楽家は言うだろうか。
 Jesus のこの絵については、すでに書いたことがある。「裏切り」について書いたと思う。愛はいつでも裏切られる。だが、同時に憎しみも裏切る。つまり、捨て去ったはずの過去が、とても懐かしく感じられるときがある。自分ではなく、ほかの男を眺めている女の目が、美しかった思い出してしまうことさえある。もしかしたら、その目の輝きにこそ恋したのかもしれない。嫉妬の瞬間に、新しい愛が燃え盛るときがある。その感情は、統一を、秩序や意味をあざ笑うように、突然やって来る。すべてをかき乱す。
 思い出したいのだろうか。忘れたいのだろうか。隠したいのか。あらわしたいのか。区別のつかない。しかし、そんな苦悩など知らないかのように、散らばっている赤、青、黄色が美しい。見たものを「意味」にしてしまわないために、私は、そういう書いておく。

 

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「現代詩手帖」12月号(29)

2023-01-07 11:57:35 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(29)(思潮社、2022年12月1日発行)

 安藤元雄「虚空の声」。

そんなことを言わず我慢してくれないか
もう長いことでもあるまいから
そう言いかけて口籠ったが
妻の耳には届いたかどうか

 詩に限らず、どんなことばにも「省略」がある。その省略を安藤は「口籠もった」と言っている。こころのなかでは言った。でも、声に出さなかった。しかし、声に出さなくても、親しい間柄なら、その「意味」は届いてしまう。
 安藤は、何と言ったのか。
 妻は死んでいる。(省略したが、一連目に書いてある。)その妻が夢の中で「悲しいわ」と訴える。それに対して、安藤は「そんなことを言わず我慢してくれないか/もう長いことでもあるまいから」と答えるのだが、これはことばを補えば、「私がそこへ行くまでには(私が死ぬまでには)、もうそんなに長いことはない(もうすぐそばに行く)。だから、我慢して待っていてくれ」と言うことになるだろうか。
 なぜ、口籠もったのか。それを聞く相手がたとえ死者であろうとも、だれかが死ぬということを語るのは「不吉」である。それに、もうすぐ死ぬから待っていてくれというのは、「おまえはもう死んでいる、死んでいることを自覚してくれ」と言うに等しい。それを生きていて(生きているから)悲しいという「生身の声」を否定することでもある。そんなことは、できない。
 この葛藤のなかに、安藤の「自然」が、とても「自然に」出ている。「わざと」でもなく、「わざわざ」でもなく、「自然に」あふれてきたことばが、とても切ない。

 石松佳「ヨルエ」。

懐かしい匂い。髪が靡く、網戸を抜ける風だ。田には水が張られており、空に漣が立っている。

 このことばを読んだとき、私は、不思議な気持ちになる。石松の詩に登場する「風景」、その風景は私の知っている風景にとても似ている。ただし、それは「いまの風景」というよりも、私が幼いころに見た風景ととても似ている。一方で、それはないだろう、という部分もある。石松がほんとうにこういう風景を知っているかどうか、私は疑問に思っている。たぶん、「文学知識」として知っている風景なのだろう。
 この部分でいちばん美しいのは「空に漣が立っている。」である。なぜ美しいか。現実には「空に漣が立つ」ということはない。空には「水」がないのだから。つまり、この「漣」は比喩なのである。本当は「田に張られた水」の上を風が吹き、漣がたつ。田の水には空が映っていて、その青い色のなかに漣が立つ。まるで、空に漣が立っているのを、田の水が映し出しているような感じ。これは、とてもよくわかる。(だれかの句にあったような風景だとも思う。)
 それはいいのだが。
 田に水を張るのは田植え前である。もちろん田植えの直後も、田には水が張りめぐらされている。だから、「空に漣が立つ」というのは、田植え前や、田植え直後、あるいは苗が大きくなる前のことである。苗が大きくなってしまうと、田の水は見えなくなる。
 でも、それは「網戸を抜ける風」が吹くときではない。網戸を抜ける風が吹くときは、戸は開けられているが、網戸は閉まっている。虫が入ってこないようにするためである。つまり、それは「夏」である。
 田植えはもちろん地方によって時期が違うが、多くは春や初夏である。まだ網戸は閉まっていないだろう。そして、空の青さも、網戸をしめる夏よりも透明である。だからこそ、漣が似合う。
 何が言いたいかというと。
 石松の書いている風景は、「美しく」見えるが、実際には「架空のもの」、実際に見たものではなく、「文学」のなかで拾い集めてきたものにすぎない、そこには「実感」がないということである。少なくとも、私の「実感」とはぜんぜん重なりあうところがない。なんだ、これは、と思ってしまう。
 石松も、これは、理解しているのかもしれない。だから、先の描写のあとに、こう続けている。

この景色には少しだけ悪意がある。

 「悪意」に、どういう思いを込めているのかよくわからないが、こう書くことを「批評」と思っているのかもしれない。
 石松の声は、決して「口籠もる」ことはない。安藤は、何かを言おうとして、その言おうとしたことのなかにある「ほんとう」の前でたじろぎ、口籠もる。だから、その声を聞き取るには、いろいろな体験が必要である。体験を積み重ねても、理解できないものがある。つまり、「個」がそこにある。安藤という「肉体」がそこにある。でも、石松のことばのなかには「肉体」がない。ただ「文学」がある。
 「文学」が「悪意」なら、それはそれでいいけれど。
 でも、「わざわざ」文学のなかから(確立されたことばの運動、定型から)、美しいことばを寄せ集めてこなくても、書けることがあるのではないか。書かなければならないことがあるのではないか、と私は疑問に思う。
 秋亜綺羅がH賞の選考で(たしか、そのとき石松は受賞した)、作品を特定して言っていたわけではないが「古くさい」というようなことを言っていた(正確には思い出せない)。「古くさい」は「文学臭」のことである、と私は感じた。

 大崎清夏「風の匂いを四人で嗅ぐ」の最終連。

ほら、いま
風が風の匂いになった

 「風が風の匂い」であるのは、何か新しいことでもあるのか、と思うかもしれない。しかし、その前には、実は、こういう行がある。

土曜日 ここは繁華街だから
匂いにはスパイスの香りが混ざっていて
風まで混雑している

 繁華街では「風」は匂わないのだ。いろいろな匂いが混ざっていて、それが風の動きに合わせて変わる。でも、ある瞬間、違うものになる。それは何も、強い風が吹いたからではない。物理的な現象ではない。
 「風が風の匂いになった」ということばの前に、こういう連がある。

あまり死ぬことを恐れたくないねと
いつか私に言った人は
まだ生きていて
私もまだ
生きている

 何かに気づいた瞬間、その「気づき」のなかを「風」のようなものが吹き抜ける。その「風」は比喩だが、比喩であることを忘れるくらいに自然に吹いていく。
 ここには「文学」ではなく、「生きている実感」がある。
 「生きている実感」を安藤は口籠もって語るが、大崎は口籠もらず、明確に語る。その明確は「風が風の匂いになった」のように、明確でありすぎることによって、一瞬、無意味にも見える。「風が風の匂い」であるのはあたりまえ、言わなくてもわかる、になる。しかし、これこそが「批評」なのである。批評とは、だれもがわかっていること、知っていることを、そのまま語ること。
 だれも知らないことを語るのは、たぶん「悪意」である。「わざと」である。
 だから。
 私は、こうつづけて書いておこう。
 石松は「懐かしい匂い。」と書いているが、それはどんな匂いなのか。風はどんな匂いを運んできたのか。たとえば、田んぼに関して言えば、私にとっていちばん懐かしい匂いは、稲が実る匂いである。芭蕉が「頼もしい」と言った、収穫前の匂いが懐かしい。刈り取ったあとの稲架で日を浴びる匂いも懐かしい。春先の田を耕したときの匂いも懐かしいし、田んぼに水を引き入れる(張る)ときの新鮮な水の匂いも懐かしければ、田んぼに張った水が日を浴びて温む匂いも懐かしい。石松は、風に靡く髪のことを書いているが、その髪の匂いにいちばんぴったりくる「懐かしい匂い」は、田んぼの(田の水の)どのときの匂いなのだろうか。私以外の読者は、石松の詩のなかで、いったいどんな匂いを懐かしいと感じているのか。

 

 

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