「現代詩手帖」12月号(34)(思潮社、2022年12月1日発行)
田中庸介「日本全国路面電車」。
よく見るとおじさんとおばさんがくっついている
枕の底面にある柄で判断する
頭が大きいけれど花柄の方がおばさんで
頭が小さいけれど渋いボーダー柄の方がおじさん
私は、「おばあさん」「おじいさん」と読んでいた。でも、引用(転写)していて「おじさん」「おばさん」と気がついた。田中から見て「おじさん」「おばさん」というのは何歳くらいの人だろう。何歳くらいから見分けがつかなくなるのだろうか。
急に、書きたいと思っていたことが、変わってしまった。
「花柄」「ボーダー柄」で男女を区別しているが、この区別は、田中に見つめられている二人にも共通するものだろうか。
「無意識」に共有されている何かが、この詩の、この部分では動いているのだが(そこにはたぶん「路面電車に乗る世代」というものも含まれている、と思う)、この「共有されている無意識」に刺戟を与えるというのが田中のことばの運動だとして……。
でも、これを書いていくと、最初に書こうと思っていたことが何だったのか忘れてしまいそうだ。最初に書こうと思っていたことと、無関係なことを書いてしまいそうだ。
いや、無関係なこと、新しく思ったことを書いていけばいいのだろうが、最初に思ったことも書いておきたい。
私が最初に思ったのは、「おじさんとおばさん」という順序で出てきた二人が、二人を識別する段階で「おばさん」「おじさん」の順序にかわっていること。これは、どうして? たぶん「花柄=女性」という「無意識」が「ボーダー柄=どっちかわからない、どっちでもいい、中性(?)」を突き破って動いたんだろうなあ、ということ。これは、田中のなかに、対象を「明確にしたい」という欲望が強いからなんだろうなあ。
こう言い直した方がいいか。
「ボーダー柄」が「おじさん」と最初に書くと、「ボーダー柄を着ている女性はいないのか(女性だってボーダー柄を着る)」という意識が動き、つまずいてしまう。それでは、ことばのスピード(論理のスピード)が鈍る。たぶん、そういうことだろうなあ。
田中の詩は、全体として(?)、「つまずき」(言われるまで気がつかなかった)を書いているのだが、つまずきを書くためにはスピード(安定したリズム)が必要だからなんだろうなあ。そういうことに、非常に配慮してことばを動かすというのが田中の詩の特徴なのだと思う。
しかし、これは私の「先入観(無意識)」かもしれない。
で、私は「無意識」に「おじいさん、おばあさん」と読んでいたのだ。個人的に田中のことを私は知らないが、「若者」ではない。「おじさん」の類だと思う。「おじさん」がだれかのことを「おじさん/おばさん」と意識するか。ふと目を止めて、年齢を意識するなら「おじいさん/おばあさん」だろうなあ、と私は思っていたわけである。田中のことばのスピードなら「おじいさん/おばあさん」になるとかってに思い込んでいたのである。
路面電車は「お年寄りに優しい」(お年寄りは路面電車の方が好き)という「先入観」も動いていただろうなあ。
私がいま書いていることは、詩とは関係がない。詩の批評ではない、と思う人が多いと思う。ほとんど百%の人がそう思うだろうなあ。
しかし、詩を読む(文学を読む)というのは、自分自身のことばの運動を見つめなおすことだから、こういう「どうでもいい」感想が、私にとっては批評なのである。
谷元益男「石」。川から石を持ち帰ることを書いている。石は、墓石にするのである。いつのことを書いているのかわからないが、(田中の詩なら「いま」を書いているとわかるが)、
水の膜ごと石を剥がして
台車につんで持ちかえる
この「水の膜ごと石を剥がして」がとてもいい。これが、あとの部分で、
涙がひとしずく石の表を
伝っていく
にかわる。涙は、死んだ人(弔われている人)の涙である。「水の膜」は川という「この世」から引き剥がされた石、「あの世」に来てしまった石の涙のように思い出されるのである。
しかし。
この詩を読みながら、私はもう六十年以上前のことを、まざまざと思い出した。親類の家で墓を造ることになった。そのときの石を、実際に、川から拾ってくるのである。重機のない時代、親類が総出で引っ張り上げる。そのとき、石が水をこぼす。まるで石のなかに水が入っていたかのように。それは、死んでいく人が最後に吐き出す「息」のように、なんだか、見てはいけないもののように見えた。これは、そのとき思ったのではなく、いま思っている感想である。あのときは、ただ水が滴り落ちていることが異様に見えて、それを覚えているのである。引き上げた後、その石を取り囲んでいる男たちの写真があったはずだ。たぶん、私の父もそこに写っていたのだろう。その墓は、いまもあるが、近いうちに別の場所に移し、いくつかの墓と合体させると聞いたから、どうなるかわからない。過疎地域では墓を維持するのもたいへんなのである。ということもあって、谷元の詩を読みながら、どうしても、これはいつの詩?と思ってしまうのである。
野村喜和夫「頌」。
まるく琥珀に閉じ込められた
ような秋の日に
もうバッハ
しか聴かなくなりました
西脇順三郎の詩のリズムだな、と思っていたら、
西脇順三郎の詩を読み
西脇にはなぜか
バッハが似合う
ことを発見したりした
という行が出てくる。
「ことを発見したりした」という行が、西脇っぽくない。ない方が西脇に近づくと私は思う。西脇は、野村のことばを借りて言えば「発見した」ことをだけを書いている。そして、それを「発見した」とは書かない。西脇も「発見した(見つけた)」とランボーのように書いたかもしれないが、それはそこでおしまい。「したりした」と「報告」はしない。ただ「発見した」と叫ぶのである。
西脇と野村の違いは、野村の方が「一言多い」。
野村に限らないが、つまり私もそうだが、どうしても「饒舌」になってしまう。「饒舌」が詩であった時代もあるし、いまでも「饒舌」のなかにある詩があるが、「わざと」なのか「わざわざ」なのか、区別がむずかしいね。
と書いて、ふと思い出すのだが。
きのう触れた杉本真維子「八月の自棄(じき)」の最終連の
ジーキィジーキィ 腹の底から蝉があえぐ
の「ジーキィジーキィ」はタイトルの「自棄(じき)」に重なる。「わざと」重ねてる。重ねるために「自棄」に「わざわざ」、「じき」と振っている。ルビがなくても、重なる人には重なる音かもしれないが、「自棄」を「やけ」と読む人がいるかもしれない。いや、私はそう読んでしまう人間なので「じき」か、うるさいなあ(むだな饒舌だなあ)、と最初は思ったのである。しかし、蝉の鳴き声が出てきて、「腹の底」ということばも、その直前の「臓腑」とつながるし、とてもいいなあ、と思うのである。
で、その、とてもいいなあ、なんだけれど。
実は、杉本が感じていることを感じたくはないと強く思うことでもあるのだ。きのう書いた例で言うと、道で倒れてうめいている人を見ると、あ、この人は腹が痛いのだと思うが、同時に、こんなふうに道に倒れて苦しみたくないなあと思うのに似ている。
「共感」は「反感/拒絶」でもあるし、「拒絶」より強い「共感」はないかもしれない。悲劇を読むと(見ると)、悲しいけれど、何か、とてもさっぱりする。清らかな気持ちになる。こういうことは、整理し、どちらかに「統一」してしまってはいけないことなのだと思う。「矛盾」したままにしておかないといけないのだと思う。
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