池田清子「時代はあった」、永田アオ「朝食」、木谷明「~眠れるソファ~」、徳永孝「あなたに届けられるなら」、青柳俊哉「細れ粒」(朝日カルチャーセンター、2022年01月16日)
受講生の作品。
時代はあった 池田清子
地方のまち中に育った
友達と山に分け入ったり
兄妹で磯遊びをした思い出はない
でも
時代は、あった
すきま風を知っている
火吹き竹で火を吹いた
近所の大人達がもちをついた
火鉢の中でもちを焼いた
裏庭ではチャボにみみず
おちょうずの水は
ひしゃくか 指先でチョン
あんよポイ
抱きしめたくなる、過去
*
「時代」「過去」ということばが観念的ではないか、という指摘があった。「観念的」という意味では「地方」「まち」も観念といえるだろう。「思い出」も観念かもしれないが、それは,いったん脇においておく。
たしかに「時代」は観念なのだが、その観念を「あった」と断定しておいて、四連目で具体的な「時代」の描写が始まる。「観念」が具体的に言い直される。この「言い直し」をスムーズにするためには「観念」からはじめる必要がある。
観念は、何かを整理するときに必要だ。この詩では「過去」がそういう働きをしている。そして抒情詩の多くは、具体的なものをある観念で整理し直してみせるときに成立しているのだが、池田の四連目は観念的な整理にならずに、つまり、意味にならずに具体的なまま並列されている。それを象徴するのが「あんよポイ」である。だれも、その「意味」を理解できなかった。「あんよ」は「足」だと推測できるが、それがどうしたのか、だれもわからない。しかし「意味がわからなくても平気、記憶を語るときの音とリズムがいい」という指摘があった。この指摘につきる。
どんなことばも意味(観念)を含んでしまうが、それを蹴散らしてことば(音)が動くとき、そこに何か楽しいものが生まれる。それが楽しい。
最初に書いた「地方」「まち」「思い出」も観念であるというのは、そこに具体的なことが書かれていないからだ。抽象化された「意味」しかないからだ。その「意味」を「ない」と否定して、「ある(あった)」のは「時代」である、とさらに観念を強調する。そのあとで、その観念を「具体的」に語るというのは、たぶん、無意識にしたことだとは思うのだけれど、数学でマイナスとマイナスをかけるとプラスになるような効果がある。「ない」もの、「観念」が、「ある」にかわる。この「枠構造」もおもしろいと思う。
ほんとうは「ない」ものが「ある」にかわる。その運動を支えるのが「ことば」である。というところから、今回の講座に集まった作品を読んでいく。
*
朝食 永田アオ
ボップアップのトースターは
トーストが好き
でもトーストは
トースターが嫌いで飛び上がってる
湯気を立てて
朝からブツブツ哲学を語る
コーヒー爺さんは
遠視が酷い
むかし
詩人が欲しいといった
春風で作ったゼリーを添えて
今日のささやかな朝を始める
ことばにすることによって初めて存在するのは何か。「春風で作ったゼリー」が注目を集めた。(その詩人はだれですか? 立原道造です、というやりとりがあったが、特に「事実」に結びつける必要はないだろう。永田のつくりだしたことばと理解してもいいはずだ。)「コーヒー爺さん」と「遠視が酷い」も、ことばにしないと存在しない。
私が最初に注目したのは一連目の「好き」「嫌い」ということばである。トーストも、トースターも「もの」であり、ものは感情を持っていない。擬人化されているのだが、ここにもことばにしないと存在しないものがあるといえる。
すべては、ことばにしないと存在しない。
「朝からブツブツ哲学を語る」ということばは「コーヒー爺さん」を修飾する。学校文法では「爺さん」に焦点をあてて、「爺さんが哲学を語る」と整理するかもしれないが、この二行は「コーヒーがブツブツ哲学を語る」とコーヒーを擬人化した方がおもしろいだろう。
そういう世界の変化があるから、「春風で作ったゼリー」も、何か実在するもののように見えるくるし、だれかが作るのではなく春風そのものが春風のゼリーを作ると読むこともできる。そのあとの「ささやか」もことばがつれてきた「新しい世界」として輝く。「ささやかな朝」というのは、だれでもがつかうことばに見えるが、この詩では、それがしっかりと詩の最後をおさえている(落ち着かせている)のは、ことばによって「ある」をつくりだす運動がゆるぎないからだろう。
*
~眠れるソファ~ 木谷 明
ねえこのソファ ちょうだい
そう言って 眠って
持って行かない
帰って来るたび 眠って
やっぱりこのソファ ちょうだい
いいよ
と言っているのに
このソファがなくなったら
どうなるかな
つつみこまれるようだね って
座れば眠ってしまう
家族が座って そして眠った
いいよ 持っていってください
「この詩は、見たもの、体験したことを書いている。写生している」という指摘があった。ことばにしなくても「ある」世界が前提になっている、その「ある」世界から別の世界へ行っていないという意味だと思うが。
ほんとうに、ここに書かれていることは、すべて「ある」のか。
娘かだれか明確に書いていないが、一緒に暮らしただれかが、「ソファをちょうだい」といい木谷が「いいよ」と答える。しかし、持っていかない。たしかに、そのことが、嘘を交えずに「ある」がままに書かれているのだろうが、ほんとうにすべてが「ある(あった)」のか。
池田の詩を読んだとき、リズムが問題になったが、この詩でもリズムが重要である。リズムの中でも、行間がつくりだすリズムが大切である。「間(ま)」もまた、ことばがつくりだす「ある」なのである。
後半の行をつめてしまうと、まったく違う詩になってしまう。その起点となる「と言っているのに」の「のに」という語尾、語尾が含むゆらぎも、ことばにしないと明らかにならないものを含んでいる。「のに」を書かなければ、つぎのことばは出てこない。だから「のに」にによって「行間」も「ある」ことができた、と言い直すこともできる。
*
ライブハウスから 徳永孝
Gue のアルバムジャケットの
シックな絣柄の模様
居酒屋の垂れ布のデザイン
らふのアルバムジャケットは
まっ黒な地に鮮やかな絵の具をたらしたよう
診察所の棚の上の小箱
あいみょんのファーストアルバムには
大きな卵焼
スーパーのお弁当箱にも容器いっぱいの長い卵焼
ライブハウスの閉じた音楽空間から
色や形が
街に世界に滲み出してきている
最終連が徳永の言いたいことであり、それはことばにしないと存在しないもの(ことばが存在させた現実)ということになるのだが、これは、私の見方では「要約/整理/結論」である。「結論」は、詩の場合、ときどき、それまでの生き生きとあらわれていた世界を壊してしまう。
詩の感想を語り合うとき、どうしても詩の世界を要約した後、それについての感想を言うことが多い。たとえば、この詩の場合なら、ミュージシャンのアルバムジャケットで見たもの、それに類似したものを街のなかで見かけ、あ、ミュージシャンの世界が街にあふれている(滲み出しいている)ということが、生き生きと鮮やかに書かれている、という具合。
要約すると、安心してしまうが、それでは詩が死んでしまう。「生き生きと鮮やかに書かれている」と感じたのは、どのことばから? 私は、それを聞きたい。自分には思いつかないことばは何? それこそが、作者がことばにすることによって生まれてきたもの、「ある」になったもの。
この詩では、たとえば「長い卵焼」である。その直前にある「大きな卵焼」は多くの人がつかう表現である。でも「長い」ということばと卵焼を結びつけることは、ふつうはしない。だいたい、「長い」って、どれくらいの長さ? 何センチ?
「スーパーのお弁当箱にも容器いっぱいの長い卵焼」という一行を読んだら、その卵焼の大きさがわかる。目に浮かぶ。この一行で、この作品は詩になっている。しかし、最後の三行で、詩を壊してしまっている。
もし、アルバムジャケットとの関係を明確にしたい(街に「滲み出している」をつたえたい)というのであれば、「居酒屋の垂れ布のデザインになった」「診察所の棚の上の小箱になった」「スーパーのお弁当箱にも容器いっぱいの長い卵焼になった」という具合にすれば伝わると思う。自分が見たものをことばにする、そのとき、すでに「ある」は起きている。事件は起きている。詩というの事実は生まれている。それを「整理/要約」しては、学校の国語の授業の先生の説明になってしまう。
どうしても最終連の三行が必要ならば、最終連にではなく、最初に書いた方がいい。池田が「過去」と抽象的に書いた後、具体的に言い直しているように、「滲み出している」を最初に書いた後、それを具体的に言い直した方が「要約」に陥らずにすむ。
*
細れ粒 青柳俊哉
葦原は白く靡き
水辺を行く鳥の
羽に雪がふる
細れ粒の肌触り
細れいく群青の波頭の移り
ひとすじの薄日のさす岸に
朝がふり 蒼穹を
つきぬけていく透明な
鳥かげ 葦の葉擦れの音に
舞い遊ぶ金色の水粒
幼いものの至福のように
ちらちらきらめいて
青柳の作品は、出発点には現実の風景があるかもしれないが、そこからどんどんことばを展開させていく。青柳自身「具体的なものを書いたのではなく、気持ちを書いている」という。つまり、すべてがことばによって「ある」になっていると言えるし、だからこそどのことばによって「ある」が生まれているかと見つめなおすのはむずかしいのだが。
私が、これはいいなあ、と感じたのは「朝がふり」。この「ふる」の動詞のつかい方。ふつうは「朝がくる」(日が昇る)のような言い方をする。朝は、ふつうには地平線上というか水平線上というか、人間と同じ高さ(あるいは低いところ)からやってくる。しかし、青柳は「朝がふり」と書く。上から、突然襲ってくる感じだ。待っている余裕がない。
そのあとの「蒼穹を/つきぬけていく透明な/鳥かげ 葦の葉擦れの音に」の「つきぬけていく」の主語は、学校文法では「鳥かげ」か「葦の葉擦れの音」になるのかもしれないが、私は朝が「蒼穹を/つきぬけて」降ってきて、世界が透明になったように錯覚する。
私は青柳のことばを「誤読」しているかもしれない。しかし、詩とはもともと世界に対する「誤読」なのだから、私は作者の「意図」を気にしないのである。作者が言いあらわそうとしているものよりも、私が作者のことばをとおして見たもの(感じたもの)の方がおもしろいと感じれば、それを詩と呼ぶ。
蒼穹(天)から啓示のように降ってくる朝、その透明な力、降ってくるものが透明であるだけではなく、世界を透明にしてしまう力、それが「降る」ととらえることば、精神の運動、そこに詩がある、と。
**********************************************************************
★「詩はどこにあるか」オンライン講座★
メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。
★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
★ネット会議講座(skypeかgooglemeet使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。
費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。
お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com
また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571
*
オンデマンドで以下の本を発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com