野木京子「声のひび割れ」(「風都市」25、2013年冬発行)
野木京子「声のひび割れ」はある女性(たぶん)との交流を描いている。そのなかで、声が重要な位置を占めている。
茜さんの「ことば」ではなく「声」が重要な位置を占める--と思わず感じるのはと、蝉の「声」という表現に引きずられるからだろう。「蝉自身よりも声のほうが長く生きる」のは、「声」が「私の鼓膜の内側へ入り込んだ」からである。肉体の内部に「声」は残る--とは、肉体はそれを「覚えている」ということだ。
「声を落とした」は声を小さくした、という意味である。というようなことは、まあ、どうでもよくて、野木は茜さんの「ことば」を聞くと同時に「声」を聞いている。そして、それに反応している。「ことば」よりも「声のほうが長く生きる」、「私の中で」と、私は「声」の持ち主を蝉から茜さんに置き換えて読んでしまう。
「ことば」ではなく、「声」(その響き)こそが「私の中で」生きる。「ことば」もひとは覚えるかもしれないが、「声」も覚える。「声を落とした」という、その「声」の調子をこそ覚えていて、それが「私の中で」生きる。ことばに「意味」以上のものをつけくわえる形で生きる。それが「小さな騒ぎ声」のように、「意味」よりも「長く生きる」。
野木はそんなふうには書いていないのだが、私には、そう書いているように感じられる。
「ことば」は「意味」をもっていて、その「意味」はたとえば「声」ではなく「文字」にしても伝わる。この詩では、私は直接茜さんの「声」を聞いていない。野木の聞いた「ことば」を読んでいる。ところが、野木は「ことば」を聞くだけではなく、「文字」ではつたえられない「声」をこそ聞き、それに反応しているのに気づく。
「蝉の声」は「ことば」ではないので「意味」をもたない。けれど、「私(野木)の中で」生き残る。(私の「肉体」の中で、と私は「肉体」を補って読む。)「意味」がないものでも「声」は生き残る。その「声」に野木は反応している。私には、そう思える。「声」に反応している野木の肉体に私は触れて、私の肉体も反応する。
「声」は「肉体」なのだ。「意味」を越えて「生きる」ものなのだ。その「声」、「声の肉体」に触れるからこそ、次のような展開がある。
「声」をもたないヤモリに対しては、野木は「腹部と胸には、腸や心臓や肝臓や肺」に反応している。ヤモリの「腹部と胸には、腸や心臓や肝臓や肺」は見えない。それでも反応するのは、そのとき、野木の内臓が反応しているのである。これは茜さんの声が野木の肉体の中に入り込んで、そこで生きている(野木の肉体がそれを覚えている)からこそ起きる反応だ。)
蝉の「声」を肉体に取り込んでしまったために、「声」をもたないヤモリからは直接「内臓」を取り込んでしまう。その「内臓」は野木の肉体の中で「いくつもの冬を越えて」生きていく。
野木は「意味」ではなく、そこにいっしょにいる(生きている)肉体と反応し、その肉体を自分の中に取り込んで、内臓で反応するのである。
この自分の外にある「もの」、自分の外で「生きているもの」の「肉体(内臓)」を自分の「肉体」と共鳴させるという感じは、茜さんにもある。野木と茜さんの区別は、つかない。これも、「ことば」を意味として「頭」で受け止めるからではなく、「ことば」を「声(肉体)」として肉体で受け止めるから、区別がなくなるのである。「声」が肉体の中で、肉体そのもの(たとえば、心臓などの内臓)になっているのだ。
道に倒れてだれかが腹を抱えてうずくまっている。腹がいたのだと思う。自分の腹でもないのに、その痛みがわかる。それと同じように、野木には茜さんの「肉体」がわかる。茜さんにも野木の「肉体」がわかる。野木の「肉体」がわかるからこそ、ヤモリを見つめてヤモリの内臓を思い描いている(肉体に取り込んで、その内臓と共鳴している)野木に対して、ヤモリについて語るのである。
ヤモリのように「分散してバラバラに散らばって、こういう生き物になって、やがて廃墟を這いずりまわるのだ」と語る。--この「ことば」の意味は、わからない。というか「意味」を考える前に、廃墟を這いずりまわるヤモリ(とかげ)のようなものが見えてくる。そして、その「肉体」が茜さんのよう感じられる。意味はわからないが、そこに「ある」肉体が実感できる。
「肉体」に「共感(共振、反応?)」するということは、「肉体」を他者と「分有」することである。他者の「肉体」を自分の中に取り込む。同時に、そうすることで自分の「肉体」を他者に「分有」させる。そのとき「分有」は「分有」であると同時に「共有」なのだ。
それは「意味」も同じだ--という人がいるかもしれない。そうかもしれない。そうに違いない。だから社会が成立しているのだけれど、その「意味」を越えてというか、「意味」を利用せずに、「肉体」を「分有」しながら「共有」するということが、人間にはできる。そしてその「肉体」の「分有/共有」という形の方が「意味」よりも「長く生きる」。少なくとも、野木はそう感じている。私もそう感じる。
人間の「肉体」がそういうものなら、死んでしまうこと、「肉体」が内部の統一を失ってばらばらになっても、それはどうということはない。--という「覚悟」まで到達するのはむずかしいことだけれど、そういうものに、野木は触れている。
野木京子「声のひび割れ」はある女性(たぶん)との交流を描いている。そのなかで、声が重要な位置を占めている。
西日がみんなを焼いてしまう。
だから午後になるとカーテンを閉めてしまうと茜さんは言った。
部屋の外にいたときは、蝉の叫び声が空気を震わし、辺りは真っ白だった。部屋の中へ入るとそれらの音は遠のいたが、蝉の声は私の鼓膜の内側へ入り込んだまま、小さな騒ぎ声を立て続けていた。案外、蝉自身よりも声のほうが長く生きる。これからいくつもの冬を私の中で越えていく。
茜さんの「ことば」ではなく「声」が重要な位置を占める--と思わず感じるのはと、蝉の「声」という表現に引きずられるからだろう。「蝉自身よりも声のほうが長く生きる」のは、「声」が「私の鼓膜の内側へ入り込んだ」からである。肉体の内部に「声」は残る--とは、肉体はそれを「覚えている」ということだ。
茜さんはもう一度、声を落とした。
斜めに少し私を焼くのよ--
「声を落とした」は声を小さくした、という意味である。というようなことは、まあ、どうでもよくて、野木は茜さんの「ことば」を聞くと同時に「声」を聞いている。そして、それに反応している。「ことば」よりも「声のほうが長く生きる」、「私の中で」と、私は「声」の持ち主を蝉から茜さんに置き換えて読んでしまう。
「ことば」ではなく、「声」(その響き)こそが「私の中で」生きる。「ことば」もひとは覚えるかもしれないが、「声」も覚える。「声を落とした」という、その「声」の調子をこそ覚えていて、それが「私の中で」生きる。ことばに「意味」以上のものをつけくわえる形で生きる。それが「小さな騒ぎ声」のように、「意味」よりも「長く生きる」。
野木はそんなふうには書いていないのだが、私には、そう書いているように感じられる。
「ことば」は「意味」をもっていて、その「意味」はたとえば「声」ではなく「文字」にしても伝わる。この詩では、私は直接茜さんの「声」を聞いていない。野木の聞いた「ことば」を読んでいる。ところが、野木は「ことば」を聞くだけではなく、「文字」ではつたえられない「声」をこそ聞き、それに反応しているのに気づく。
「蝉の声」は「ことば」ではないので「意味」をもたない。けれど、「私(野木)の中で」生き残る。(私の「肉体」の中で、と私は「肉体」を補って読む。)「意味」がないものでも「声」は生き残る。その「声」に野木は反応している。私には、そう思える。「声」に反応している野木の肉体に私は触れて、私の肉体も反応する。
「声」は「肉体」なのだ。「意味」を越えて「生きる」ものなのだ。その「声」、「声の肉体」に触れるからこそ、次のような展開がある。
私の右隣の壁にヤモリが数匹じっとはりついているのが見えた。おやおや、家の中だというのに。茜さんがまもろうとしているのはこのヤモリたちなのだろうか。朽ちた木の枝のような色をしているが、枯れた枝とは違い、細く膨らんだ腹部と胸には、腸や心臓や肝臓や肺やらが湿度ともにひくついているはずだ。
「声」をもたないヤモリに対しては、野木は「腹部と胸には、腸や心臓や肝臓や肺」に反応している。ヤモリの「腹部と胸には、腸や心臓や肝臓や肺」は見えない。それでも反応するのは、そのとき、野木の内臓が反応しているのである。これは茜さんの声が野木の肉体の中に入り込んで、そこで生きている(野木の肉体がそれを覚えている)からこそ起きる反応だ。)
蝉の「声」を肉体に取り込んでしまったために、「声」をもたないヤモリからは直接「内臓」を取り込んでしまう。その「内臓」は野木の肉体の中で「いくつもの冬を越えて」生きていく。
野木は「意味」ではなく、そこにいっしょにいる(生きている)肉体と反応し、その肉体を自分の中に取り込んで、内臓で反応するのである。
私がヤモリたちを見つめていることに茜さんが気付いて言った。
この生き物たちは私の記憶の末裔なのです--
このヤモリたちのなかに茜さんの記憶が詰まっているの? と私が訊くと、
「分散してバラバラに散らばって、こういう生き物になって、やがて廃墟を這いずりまわるのだ」と茜さんが答えた。
その声が急にひび割れ始めたので、ああ、もう少しでばらばらに砕けるのだと、私にもわかった。
この自分の外にある「もの」、自分の外で「生きているもの」の「肉体(内臓)」を自分の「肉体」と共鳴させるという感じは、茜さんにもある。野木と茜さんの区別は、つかない。これも、「ことば」を意味として「頭」で受け止めるからではなく、「ことば」を「声(肉体)」として肉体で受け止めるから、区別がなくなるのである。「声」が肉体の中で、肉体そのもの(たとえば、心臓などの内臓)になっているのだ。
道に倒れてだれかが腹を抱えてうずくまっている。腹がいたのだと思う。自分の腹でもないのに、その痛みがわかる。それと同じように、野木には茜さんの「肉体」がわかる。茜さんにも野木の「肉体」がわかる。野木の「肉体」がわかるからこそ、ヤモリを見つめてヤモリの内臓を思い描いている(肉体に取り込んで、その内臓と共鳴している)野木に対して、ヤモリについて語るのである。
ヤモリのように「分散してバラバラに散らばって、こういう生き物になって、やがて廃墟を這いずりまわるのだ」と語る。--この「ことば」の意味は、わからない。というか「意味」を考える前に、廃墟を這いずりまわるヤモリ(とかげ)のようなものが見えてくる。そして、その「肉体」が茜さんのよう感じられる。意味はわからないが、そこに「ある」肉体が実感できる。
「肉体」に「共感(共振、反応?)」するということは、「肉体」を他者と「分有」することである。他者の「肉体」を自分の中に取り込む。同時に、そうすることで自分の「肉体」を他者に「分有」させる。そのとき「分有」は「分有」であると同時に「共有」なのだ。
それは「意味」も同じだ--という人がいるかもしれない。そうかもしれない。そうに違いない。だから社会が成立しているのだけれど、その「意味」を越えてというか、「意味」を利用せずに、「肉体」を「分有」しながら「共有」するということが、人間にはできる。そしてその「肉体」の「分有/共有」という形の方が「意味」よりも「長く生きる」。少なくとも、野木はそう感じている。私もそう感じる。
人間の「肉体」がそういうものなら、死んでしまうこと、「肉体」が内部の統一を失ってばらばらになっても、それはどうということはない。--という「覚悟」まで到達するのはむずかしいことだけれど、そういうものに、野木は触れている。
ヒムル、割れた野原 | |
野木 京子 | |
思潮社 |