詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野木京子「声のひび割れ」

2013-02-16 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
野木京子「声のひび割れ」(「風都市」25、2013年冬発行)

 野木京子「声のひび割れ」はある女性(たぶん)との交流を描いている。そのなかで、声が重要な位置を占めている。

西日がみんなを焼いてしまう。
だから午後になるとカーテンを閉めてしまうと茜さんは言った。
部屋の外にいたときは、蝉の叫び声が空気を震わし、辺りは真っ白だった。部屋の中へ入るとそれらの音は遠のいたが、蝉の声は私の鼓膜の内側へ入り込んだまま、小さな騒ぎ声を立て続けていた。案外、蝉自身よりも声のほうが長く生きる。これからいくつもの冬を私の中で越えていく。

 茜さんの「ことば」ではなく「声」が重要な位置を占める--と思わず感じるのはと、蝉の「声」という表現に引きずられるからだろう。「蝉自身よりも声のほうが長く生きる」のは、「声」が「私の鼓膜の内側へ入り込んだ」からである。肉体の内部に「声」は残る--とは、肉体はそれを「覚えている」ということだ。

茜さんはもう一度、声を落とした。
斜めに少し私を焼くのよ--

 「声を落とした」は声を小さくした、という意味である。というようなことは、まあ、どうでもよくて、野木は茜さんの「ことば」を聞くと同時に「声」を聞いている。そして、それに反応している。「ことば」よりも「声のほうが長く生きる」、「私の中で」と、私は「声」の持ち主を蝉から茜さんに置き換えて読んでしまう。
 「ことば」ではなく、「声」(その響き)こそが「私の中で」生きる。「ことば」もひとは覚えるかもしれないが、「声」も覚える。「声を落とした」という、その「声」の調子をこそ覚えていて、それが「私の中で」生きる。ことばに「意味」以上のものをつけくわえる形で生きる。それが「小さな騒ぎ声」のように、「意味」よりも「長く生きる」。
 野木はそんなふうには書いていないのだが、私には、そう書いているように感じられる。
 「ことば」は「意味」をもっていて、その「意味」はたとえば「声」ではなく「文字」にしても伝わる。この詩では、私は直接茜さんの「声」を聞いていない。野木の聞いた「ことば」を読んでいる。ところが、野木は「ことば」を聞くだけではなく、「文字」ではつたえられない「声」をこそ聞き、それに反応しているのに気づく。
 「蝉の声」は「ことば」ではないので「意味」をもたない。けれど、「私(野木)の中で」生き残る。(私の「肉体」の中で、と私は「肉体」を補って読む。)「意味」がないものでも「声」は生き残る。その「声」に野木は反応している。私には、そう思える。「声」に反応している野木の肉体に私は触れて、私の肉体も反応する。
 「声」は「肉体」なのだ。「意味」を越えて「生きる」ものなのだ。その「声」、「声の肉体」に触れるからこそ、次のような展開がある。

私の右隣の壁にヤモリが数匹じっとはりついているのが見えた。おやおや、家の中だというのに。茜さんがまもろうとしているのはこのヤモリたちなのだろうか。朽ちた木の枝のような色をしているが、枯れた枝とは違い、細く膨らんだ腹部と胸には、腸や心臓や肝臓や肺やらが湿度ともにひくついているはずだ。

 「声」をもたないヤモリに対しては、野木は「腹部と胸には、腸や心臓や肝臓や肺」に反応している。ヤモリの「腹部と胸には、腸や心臓や肝臓や肺」は見えない。それでも反応するのは、そのとき、野木の内臓が反応しているのである。これは茜さんの声が野木の肉体の中に入り込んで、そこで生きている(野木の肉体がそれを覚えている)からこそ起きる反応だ。)
 蝉の「声」を肉体に取り込んでしまったために、「声」をもたないヤモリからは直接「内臓」を取り込んでしまう。その「内臓」は野木の肉体の中で「いくつもの冬を越えて」生きていく。
 野木は「意味」ではなく、そこにいっしょにいる(生きている)肉体と反応し、その肉体を自分の中に取り込んで、内臓で反応するのである。

私がヤモリたちを見つめていることに茜さんが気付いて言った。
この生き物たちは私の記憶の末裔なのです--
このヤモリたちのなかに茜さんの記憶が詰まっているの? と私が訊くと、
「分散してバラバラに散らばって、こういう生き物になって、やがて廃墟を這いずりまわるのだ」と茜さんが答えた。
その声が急にひび割れ始めたので、ああ、もう少しでばらばらに砕けるのだと、私にもわかった。

 この自分の外にある「もの」、自分の外で「生きているもの」の「肉体(内臓)」を自分の「肉体」と共鳴させるという感じは、茜さんにもある。野木と茜さんの区別は、つかない。これも、「ことば」を意味として「頭」で受け止めるからではなく、「ことば」を「声(肉体)」として肉体で受け止めるから、区別がなくなるのである。「声」が肉体の中で、肉体そのもの(たとえば、心臓などの内臓)になっているのだ。
 道に倒れてだれかが腹を抱えてうずくまっている。腹がいたのだと思う。自分の腹でもないのに、その痛みがわかる。それと同じように、野木には茜さんの「肉体」がわかる。茜さんにも野木の「肉体」がわかる。野木の「肉体」がわかるからこそ、ヤモリを見つめてヤモリの内臓を思い描いている(肉体に取り込んで、その内臓と共鳴している)野木に対して、ヤモリについて語るのである。
 ヤモリのように「分散してバラバラに散らばって、こういう生き物になって、やがて廃墟を這いずりまわるのだ」と語る。--この「ことば」の意味は、わからない。というか「意味」を考える前に、廃墟を這いずりまわるヤモリ(とかげ)のようなものが見えてくる。そして、その「肉体」が茜さんのよう感じられる。意味はわからないが、そこに「ある」肉体が実感できる。
 「肉体」に「共感(共振、反応?)」するということは、「肉体」を他者と「分有」することである。他者の「肉体」を自分の中に取り込む。同時に、そうすることで自分の「肉体」を他者に「分有」させる。そのとき「分有」は「分有」であると同時に「共有」なのだ。
 それは「意味」も同じだ--という人がいるかもしれない。そうかもしれない。そうに違いない。だから社会が成立しているのだけれど、その「意味」を越えてというか、「意味」を利用せずに、「肉体」を「分有」しながら「共有」するということが、人間にはできる。そしてその「肉体」の「分有/共有」という形の方が「意味」よりも「長く生きる」。少なくとも、野木はそう感じている。私もそう感じる。
 人間の「肉体」がそういうものなら、死んでしまうこと、「肉体」が内部の統一を失ってばらばらになっても、それはどうということはない。--という「覚悟」まで到達するのはむずかしいことだけれど、そういうものに、野木は触れている。





ヒムル、割れた野原
野木 京子
思潮社
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ロドリゴ・ガルシア監督「アルバート氏の人生」(★★)

2013-02-16 11:37:43 | 映画

監督 ロドリゴ・ガルシア 出演 グレン・クロース、ミア・ワシコウスカ、アーロン・ジョンソン

 女性なのに、生きるために男装をしてウエイターの仕事をしつづけたアルバートの人生。舞台でも演じたグレン・クロースが、どうしても映画で主演したかったという。ふーん。グレン・クロースがそんなに惚れ込んでいるのなら見てみるか。
 あ、なるほど、舞台だね。映画には不向きとは言わないけれど、舞台の方がおもしろいだろうと思う。
 生身の肉体が目の前で動く。カメラの仲介がないだけに、肉体の呼吸がつたわってくる--ということ以上に。舞台の方が「うそ」を前提としている。これからはじまるのは「芝居」です。現実ではありません。そう断っておいて、そのなかで女性が男性を演じる。芝居だと、アルバートが「女性」とわかっていても、不自然ではない。もともと、芝居は観客が「想像力」を駆使して、「うそ」をほんとうと思い込むものだからね。俳優とは観客の「共同作業」だからね。
 ところが映画は「うそ」だけれど、「うそ」を前提としていない。つまり、観客の「想像力」を頼りにしていない。観客の想像力を上回る映像で、観客の想像力を裏切るのが映画である。この映画には、その要素、観客の想像力を裏切ることで、生き生きと輝くシーンがとても少ない。
 あるとすれば、ひとつだけ。グレン・クロースが同じように「男性」のふりをして生きている女性と、ある日、海岸へ行く。女性のドレスを着て。そのとき、グレン・クロースが、浜辺を走りながら「こんなよろこびがあったのだ」と輝くような顔をする。そのアップ。あ、これは「芝居(舞台)」ではむずかしい。単に顔の演技(全身の演技)の問題ではない。光や潮風といった風景の問題もある。自然のなかかでしか存在しない肉体の呼吸というものがある。この瞬間だけ、グレン・クロースは別人だった。






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瀬崎祐「洗骨」

2013-02-15 20:24:49 | 詩(雑誌・同人誌)
瀬崎祐「洗骨」(「風都市」25、2013年冬発行)

 瀬崎祐「洗骨」には一か所奇妙なところがあり、とても気になる。

いつくしんでいた泥のなかにうめておいた
今宵に千回の夜をへてほりおこす
空では月がくもにかくされている
にぶい光りがもののかたちをあわくしている
みえないところでとけだしていくのをまっていたのだ

 ひらがなの多い作品である。「音」が肉体のなかに入ってきて、肉体を動かす。ことばに肉体が反応して、肉体そのもののなかに肉体の運動がうまれる--そのときの感じが、区切りがなくて、とてもいい。黒田夏子の「abさんご」のように、奇妙な言い回しもなく、自然なひらがなの力(効果)を感じる。「みえないところでとけだしていくのをまっていたのだ」には「みる」「とける(とけだす)」「まつ」という動詞があって、そのうち「とけだす」だけは「主語」が違うのだけれど、その「わたし」ではないものをのみこむようにして動詞が肉体を刺戟するので、--あ、掘り起こす主体である「わたし」は、実は掘り出される「わたし」であって、掘り出されるために「とけだしていく」のをまっていたのかなあ、とも思えてくる。「主語」が、肉体の中であいまいに融合する。
 そういう感覚に至った後で、

わたしの髪がのびた
わたしの爪がのびた
ときをまつ幾夜かには
女のためにみをひるがえすこともあった

 ね、髪が伸びた「わたし」は、骨を掘り起こす(で、いいのかな?)「わたし」なのか、骨を掘り起こされる「わたし」なのか、どっちともとれるでしょ? 主語が「肉体」のなかで「ひとつ」になって、区別がつかない。「主語」がどっちかわからないのに、「髪がのびた」「爪がのびた」の「動詞」が「肉体」のなかで動き、そのときの「主語」がさらに「骨を掘るわたし/骨を掘られるわたし」ではなく、「髪/爪」という肉体の部位に限定されながら肉体と結びつくので、ますます「肉体」が私(谷内)の「肉体」と重なり、ああ、変だなあ--実は、ああ、いいなあ、なのだが、という「矛盾」した感じになってきて、ちょっとわくわくするのである。
 ところが、そのあと、

待つものと待たれるものが
あわくからみあっていたのだろう

 なぜ「待つ」という漢字がここに出てくるのだろう。それまでひらがなだった動詞がなぜ漢字になったんだろう。これが私にはよくわからない。とても奇妙に感じる。
 実は、いま引用した詩の1連目のなかほど、「みえないところ……」と「わたしの髪がのびた」のあいだには、

からみあっていた怨念や情念もとけだしていき

 という行があるのだが、その「怨念」「情念」という硬いことば(観念的なことば)と「待つもの/待たれるもの」の「待つ」と漢字で書かれたことばが響きあって、どう言っていいのかわからないのだけれど、冷たい違和感を覚えるのである。「怨念」「情念」は肉体の中ではからみあってどっちがどっちかわからない。けれど頭で整理して漢字にしてしまうとまったく別のものに「見えて」しまう。それが、とても「冷たく」感じられる。こういうことは単なる感覚の意見というものではあるのだけれど。
 区別のつかなくなっていた肉体が、突然、「頭」で整理されなおされるような、そんなあいまいなところへ引き込まれては駄目、と叱られたような気がするのである。「みえないところでとけだしていくのをまっていたのだ」のような、誰が誰だかわからない、どっちでもいい、いや、掘り出すわたしであると同時に掘り出されるわたしだったらいいのになあと、肉体で感じていることを、「待つもの/待たれるもの」ということば(表記?)のように、明確に区分しないと駄目と叱られたように感じるのだ。
 「掘り出すわたし/掘り出されるわたし」と「待つもの/待たれるもの」はどう違う? 同じじゃない?と言われると少し困るのだが--というのは、「掘り出すわたし/掘り出されるわたし」は、私が瀬崎のことばを読むときに私がつくりだした「便宜上」のことばであって(私が「頭」でつくりあげたものであって)、ほんとうは瀬崎のものではないからね。--つまり、ここでは、私は「私の頭」と「待つもの/待たれるもの」と書いた「瀬崎の頭」と向き合っているのであって、それまでのように、「私の肉体」と「瀬崎の肉体(同時にほりだされる死者の肉体)」と融合している(一体になっている)わけじゃないからね。
 書けば書くほど、面倒くさくなるのだが(肉体で起きていることと頭で起きていることを、いちいち印づけて書かないとごっちゃになるからね--肉体の中ではわかりきっていることなのに、それを頭のことばで整理するのはとても面倒なのだ)、まあ、そういうことが起きる。
 で、それが次の連に影響する。

骨には
まだいくらかのものがこびりついている
かざりすぎていたものはあっけなくうしなわれて
すてきれなかったものだけがこびりついている
ほそくよじれた神経繊維がとちゅうでとぎれながらも
まだなにかをつたえようとしている
ささくれだっていろがかわっている筋肉繊維はほそく
まだなにかをうごかそうとしている
それはみれんでしかないのですよ と
指がつたえようとする

 うーん。「ほりおこすわたし」が「ほりおこされるわたし」を客観的に描写してしまって、つまり「頭」でことばを整理してしまって--それがたとえ「ほりおこされるわたし」の「心情」に迫ったって、そして「みれん」ということばで定義されてもなあ……。
 「怨念」「情念」と違い、「みれん」とひらがなで書くことで、それが「ほりおこすわたし」「ほりおこされるわたし」のどちらのものかわからないんようにしたつもりなのかもしれないけれど。

それはみれんでしかないのですよ と

 この最後の「と」がなんといえばいいのかなあ、「説明する人」(説明であること)を強烈に印象づける。融合しようとするものを、完全に分離するように動く。あ、「頭」がことばを動かしている、という印象がとても強くなる。
 骨を掘り出している「指」が掘り出される指に説明している感じがして、もう「掘り出される骨」でもあるかもしれないという気持ちが遠くなる。

 もし、「ほりおこす/わたし」「ほりおこされる/骨」という区別を明確にしたままことばを動かすのなら、1連目のひらがなは必然的だったのかなあ。ひらがなをつかうことで、「ほりおこす/わたし」「ほりおこされる/骨」の区別をなくし、相互をゆきかう「動詞」によって「肉体」そのもののなかにひとつの世界を出現させるのだったら、「待つもの」「待たれるもの」という漢字のつかい方が乱暴すぎたかなあ。そのために、あとの世界がまったく違ったものになってしまったのかなあ。

窓都市、水の在りか
瀬崎 祐
思潮社
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山本楡美子訳ヨシフ・ブロツキイ「その後」ほか

2013-02-14 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
山本楡美子訳ヨシフ・ブロツキイ「その後」ほか(「長帽子」74、2012年11月20日発行)

 きのうにつづいてヨシフ・ブロツキイの詩--という言い方でいいのかどうか、わからないのだが、山本楡美子訳ヨシフ・ブロツキイ「その後」の1連目。

歳月は過ぎていく。石づくりの宮殿の門に
罅が入る。目の弱い縫い子がやっと
針に糸を通す。聖なる家族、描かれた姿は
エジプトへ、辛くも、半ミリ近づく。

 「その後」とは何かの事件のその後、だろう。「歳月」ということばが、「その後」が「直後」ではなく、時間が経っていることを暗示する。で、その「時間」とは、どういうものなのか。例えば、10年、20年というような年月か。私は違うと思う。
 その「根拠(?)」は、……。

     目の弱い縫い子がやっと
針に糸を通す。

 この行の中にある「やっと」ということばと「目の弱い」、さらには「針に糸を通す」ということば。
 近眼。針に糸をとおすのに時間がかかる。それは「何十秒」か「何分か」、はかることもできるけれど、はかってもしようがない。「やっと」。その「やっと」は「肉体」が感じる時間である。肉体でしかつかめない時間。それも、「目の弱い」という肉体がつかむ時間。「やっと」だけれど、何かそこには到達感がある。それを含んだ時間だ。
 その「やっと」を経て、(これから先は私の想像だが)、縫い子は「聖なる家族」の刺繍を縫っていく。一針ごとに刺繍は完成に近づく。それを「エジプトへ、辛くも、半ミリ近づく。」と言う。
 このとき、「やっと」と「辛くも」は、どう違うのだろう。
 ロシア語の原文を私は知らないのだが、「やっと」と「辛くも」は、ロシア語ではやはり違うのだろうか。訳しわけているから違うのかもしれないが、同じことばでも違うふうに訳したのかもしれない。
 私の「肉体」の感想を言えば、「やっと」には縫い子の思いが、「肉体」の苦労がこもっている。けれど「辛くも」には何か「肉体」の印象がない--というと少し違うか……。うーん、「辛くも」は何か、私には「肉体」というよりも「客観的」な印象がある。傍観的な、と言い換えることができるかもしれない。外から見ていて「辛くも」と言っている感じがする。「やっと」は「肉体」の内部をいっしょにくぐることで「やっと」になる。
 「やっと」ということばが動いているのは「縫い子」という人間を主語とする文であり、「辛くも」の文では人間を主語とせず「描かれた絵」という「もの」だからかもしれない。「やっと」の方が、私には「親身」になれる。
 で、私がいいたいのは、同じ時間であっても、ある時間には「親身」になれるが、別の時間には「親身」になれないものがある。あるいは「親身」とは無関係に存在するものがある、ということ。
 そして、ブロツキイの「その後」という時間には、その「親身の時間(肉体の時間)」と「客観的時間(10年、20年という期間)」の「ずれ」があって、その「ずれ」ゆえに、ことばが詩になるというか、こころが動いて、そこに「ひとりの人間」が浮かび上がるという感じがする。

 ふつう、こういう「やっと」と「辛くも」の区別は感じずにやりすごすものだが、それが「意味」ではなく「肉体」に迫ってくるのは、そこにブロツキイの「肉体感覚」というものがあるからかもしれない。

私に触れれば--干からびたごぼうの茎に触れる。
遅い三月の夕暮れ、本能的な湿り気、
町の石切り場、広い大草原、
生きてはいないけれども私が覚えているものに触れる。

 ここはとても微妙だ。
 「覚えている」とは、どういうことだろうか。「生きてはいない」けれどとはどういうことだろうか。
 「干からびたごぼう」は「生きていない」のか。「石切り場」という無生物(鉱物?)も、「生きている」ともいえる。「大草原」は「生きている」のではないか。--「生きていない」は、たぶん、いまのブロツキイの「肉体」からは切り離されているものを指しているのだろう。それはいまはブロツキイには「触れる」ことはできない。けれど、それをブロツキイの「肉体」は「覚えている」。だから、「私(の肉体)に触れれば」、そのいま/ここにはない(生きていない)ものに触れることになる。
 ブロツキイの「肉体」のなかには、いま/ここには存在しないものが「ある」。その「ある」は「辛くも」あるのではない。そして「やっと」あるのでもないのだけれど、うーん、「やっと」では言い表せないけれど、「やっと」に近い何かの感じである。目の弱い縫い子が懸命に針に糸をとおすときの「力」に通じるもの、これをするんだという「力」のようなものとして「肉体の内部」から外へ向けて動きだす「力」として「ある」。
 だからこそ、ブロツキイは書く。

私に触れれば--私を無視するもの、
私を、私のコートを、
私の顔を信じないような人を困らせる。
その人の本では私はいつも遺失物。

 「事件」の後、つまり「その後」、親身な人もいれば、そうではない人もいる。そして、親身ではない人がもしブロツキイの「肉体」に触れたら、それがただ単に「肉体」であるだけではなく、そのなかに、いま/ここにはない「干からびたごぼう」「石切り場」「大草原」があるのを知って困惑する。ブロツキイの「肉体の内部」から、そういうものがいまも「生きているもの」としてあふれだしてくるのがわかるから、困惑する。ブロツキイを信じない人(親身ではない人)は、ブロツキイの内部に生きているものを「殺して」しまった。けれど、ブロツキイに触れると、それが自分たちの「肉体」のなかでも「辛くも」生きているということがわかる。それがわかるからこそ、ブロツキイを「紛失物」にして切り離したいのかもしれない。--客観的な時間(10年、20年という期間)のむこうへ押しやりたいのかもしれない。
 けれど、「肉体のなかの時間」は、押しやることができない。「肉体」のなかでは「 1秒前」と「10年前」は区別がないから。そして、その「肉体のなかの時間」は客観的な時間とは共存できない。そのことが、「その後」ブロツキイにははっきりわかった、ということなのだ。

 というようなことを考えながら、山本楡美子「日の遺跡」を読み返す。

その日
二、三十羽の子スズメが飛び立った
辺りの野原には
草でできた籠が並んでいた
今にもころがっていきそうだった
はちみつ色の聚落
踏みつけそうだった
古くは発掘された遺跡
新しくは草を素材にして造った家々
相似形の
寒い風
子スズメがいっせいに羽ばたく
外敵(人間 ネコ とかげ 影 大声
わたし)がいなくなるまで戻ってこない
透けている聚落
さあ
わたしたちを置いて
もう行きなさいという

 子スズメの「時間」、「わたしの時間」がすれ違う。そのとき、山本のなかで、人間の「いまの時間」と「遺跡の時間(過去の暮らしの時間)」がすれ違う。「時間」は、それぞれの「肉体」のなかで違った具合に動いている。そして、違いながら、また「同じ」ふうにも動いている。どこが「同じ」かといえば、「違う」ということが「わかる」ところが「同じ」なのだ。--この「わかる」は、まあ、私がいつも書いていることばで書けば「肉体が覚えていること」なのだけれど。








森へ行く道
山本 楡美子
書肆山田
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たなかあきみつ訳ヨシフ・ブロツキイ「(日々は汝が織りし布をほどく……)」ほか

2013-02-13 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
たなかあきみつ訳ヨシフ・ブロツキイ「(日々は汝が織りし布をほどく……)」ほか(「エウメニデス Ⅲ」43、2012年10月25日発行)

 翻訳というものを私はしたことがないのでわからないのだが、ときどき「ことば」は「辞書」どおりではない、「頭」を裏切るものではないか、という気がする。というか、「頭」で理解、整理したとおりのことばでは「肉体」になじまないことがあるのではないか。「肉体」は「頭」とは違うことばを覚えているので、辞書ではなく「肉体」のなかへことばを探しに行かなくてはいけないのではないかと思うことがある。
 ヨシフ・ブロツキイ「(日々は汝が織りし布をほどく……)」をたなかあきみつが訳している。

日々は汝が織りし布片をほどく。
その布片は眼前で、手もとで身をすくめる。
緑の糸は青い糸を追って、
灰色に褐色に何色でもない色になる。
すでにもうそのバチスト織の切端がどうやら見えるらしい。
画家はひとりとして並木道の終点を描かないだろう。
すなわち、洗濯するや花嫁のドレスはたちまち縮む、
だからこそ身体はこれ以上漂白されない。
チーズはひからびたか、あるいは呼吸を圧迫したか。
あるいは横顔からして鳥はカラスなのに、心臓部はカナリア。
ところがおろかなキツネは、喉をかじりながら、
血はどこか、テノール歌手はどこか斟酌しない。

 なかほどに「すなわち」「だからこそ」ということばが出てくる。原文はどういうことばなのか。それはよくわからないが、どうも違う訳があるのではないか、という気が私にはする。私の「頭」ではなく、「肉体」がそう主張している。(←「感覚の意見」というやつである。)
 詩の前半の織物は何だろうか。ある織物をほどいて、その糸を漂白して、新たに「バチスト」を織るというのだろうか。それともすでにあるバチストの一枚の布を花嫁のドレスのために裁断していくことを「ほどく」と呼んで、ドレスをつくる一連の作業を描いているのか。
 よくわからないが、花嫁と布を「ほどく」とが密接に関係しているらしいことは、そこに繰り広げられる「動詞」から推測できる。もしかすると「汝が織りし布片」とは「布」ではなく花嫁の「いのち」そのものかもしれない。いままでの「いのち」とは違った「いのち」に生まれ変わる。それが「花嫁」になるということ。
 その「変化」のターニングポイントとして「すなわち」があるのだが。
 ロシア語では「すなわち」だとしても、日本語でこういうとき「すなわち」というのかなあ。「すなわち」とは「即ち、則ち」なのか。「色即是空/空即是色」ということばがふいに思いつくが、そうすると、この「すなわち」をはさんで前半の5行と後半の5行はいつでも入れ替わることができる。何をどう表現するかは、まあ、一種の「方便」になる。--というといいかげんだが、結婚前夜(初夜前夜)の緊迫した恐怖というか不安が震えるように伝わってくる。--そう思うと、「すなわち」はてかなかいいことばだと思う。
 のだけれど、そうすると……。
 その次の「だからこそ」。うーん、これが私にはほんとうにわからない。さらに、そこにつまずくと、「……か、……か」という並列。「あるいは」「なのに」「ところが」と次々につまずいていく。いいかえると「すなわち」から遠くなる。
 私の感覚では、日本語の「すなわち」は何か論理を超越していて(色即是空、がその代表)、それは単なるイコールではなく、何か矛盾しているものを肯定するときに「すなわち」がつかわれる。「すなわち」のなかには、「だからこそ」も「あるいは」も含まれている。
 原文も読まずに(読んでもわからないのだけれど)こういうことを書くのは変なのだけれど、たなかはロシア語のことばに忠実でありすぎて、何か「誤読」しているような、「誤訳」しているような気が私にはするのである。
 詩の中心にある「すなわち」をいったん肯定すると、後半は、私の感覚では、

すなわち、洗濯するや花嫁のドレスはたちまち縮む、
すなわち、身体はこれ以上漂白されない。
すなわち、チーズはひからび、すなわち、呼吸を圧迫した。
すなわち、横顔からして鳥はカラス、そして心臓部はカナリア。
すなわち、おろかなキツネは、喉をかじりながら、
血はどこか、すなわち、テノール歌手はどこか斟酌しない。

 という感じに「肉体」に響いてくる。あらゆるところに「すなわち」があると見えてくる。ロシアでは「色即是空」というようなことばは「日常的」には耳にしないだろうから、「すなわち」の意味も違ってくるだろうけれど、意味もわからずに「色即是空」ということばを耳にし、口にしてきた私の「肉体」には、あれもこれも、「すなわち」に見えるのである。ぜんぜん違うものがなぜ「すなわち、これ」などということは、違うから「すなわち、これ」でつないでしまうのだとしかいいようがないのだが。
 前半も、

日々は汝が織りし布片をほどく。
すなわち、その布片は眼前で、手もとで身をすくめる。
すなわち、緑の糸は青い糸を追って、
すなわち、灰色に褐色に何色でもない色になる。

 という感じ。
 「もの」それ自体はそれぞれ独立して別の名で呼ばれる。けれど実体は別の名で呼ばれるもの、矛盾したものと「同じ」。つまり「A即是B」という感じじゃないのかなあ、と私の「肉体」は言っている。
 「論理」をあらわすことばは、「頭」のなかでは正確に動くけれど、それを「肉体」に引き下ろし、「ことばの肉体」にするときには、一呼吸置いて「肉体」がなじむまで待つ必要があるのかなあ、などと空想した。
 まあ、これは、単なる思いつきだけれど。



 訳詩ではなく、たなかは日本語でも詩を書いている。(変な言い方かな?)「禁漁区--ハンス・ベルナールの惑星」。ハンス・ベルナールの人形のように、どこか解体されていて、それでいてつながっている。
 その3連目。

かつて夜行列車の始発駅ならどこでも
ピアノの黒鍵は鳥籠の格子に同調しない
わざと踏みはずされた
Jugendstilもどきの音階は
何度も単独行のアキレス腱をはじく
コンクリートの打ちっぱなしの場所での
輪回し遊びが少女Balthus をワープして
感電しのふちへ追いやるように
鳥獣禁漁区を夜どうし旋回する嬌声たち
あるいは嫌気性の植物群に
さらされる漕座ではもちろん
波やうねりに充分な注意が必要である

 何のことかわからないのだが、これを読んで、さっき読んだ訳詩のことを思うと、田中の「くせ」のようなものがなんとなく私の「肉体」につたわってくる。
 私はことばを読むとき「動詞」を中心に読んでしまう。「動詞」のなかには「こと」があり、その「こと」というのは「肉体」が別の存在であっても(日本人であっても、ロシア人であっても)、基本的に同じに働くと考えているからである。
 で、この部分を「動詞」を中心に読んでいくと、その「主語」がどうも「人間」ではない。「ピアノの黒鍵は……同調しない」「音階は……アキレス腱をはじく」。で、「黒鍵」と「アキレス腱」は「韻」を踏むことで「同じ・鍵(腱)」になる。
 「名詞(もの)」をぶつけ合って、そこに詩を誕生させるという手法が見えてくる。(診察台の上のミシンとこうもり傘の出合い、だね。)
 ほんとうの「動詞」、人間の「肉体」が動くときの「動詞」は、その「もの」を引き合わせるという形で動いていて、そのとき「主語(私=たなか)」は陰に隠れているので、うーん、これは、つまり「頭」で書いて、「頭」で読む詩なんだなあ。
 たなかは余分な(?)「肉体」をまじえないので、これはこれで「完結」しているのだけれど。

 このとき、その「頭」と「頭」(「もの」と「もの」)を「動詞」に頼らずにつなげるのだとしたら。
 そこに「音楽」があるべきだと、私は思う。
 抽象的にしか言えないのだけれど(私は音楽の専門家ではないし、だいたいたいへんな音痴で自分では何も音楽に関することはできないのだが)、ことばが「音」になって、それが「音楽」として響くなら、そのときことばは「肉体」に直接働きかけてくる。たとえそれが「頭」のことばであるにしても。
 そうなるといいのだがなあ、と思う。--これは、私の「欲望」であって、たなかがことばでやろうとしていることとは関係ないかもしれないけれど、そう思った。



ピッツィカーレ―たなかあきみつ詩集
たなか あきみつ
ふらんす堂
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大野直子「聖なる喧しさ」

2013-02-12 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
大野直子「聖なる喧しさ」「蛍光イエロー」(「クレソンスープ」1、2013年02月06日)

 大野直子「聖なる喧しさ」は北陸の冬を描写した文章である。雪国の冬は意外と喧しい。雪の前には雷が鳴る。この季節はブリのとれる季節でもあり、この雷が鳴るとブリがとれはじめるので、俗に「ブリおこし」とも呼ばれるのだが、そのころの海は荒く、海の音が数キロ先まで聞こえる。強い風に林が泣くように鳴る、と書いた後、

 そしてある朝突然、深い静けさはやって来る。雪である。しかし不思議だ。雪の積もった朝の静寂は、ふだんの静寂とは違う。その無音には、匂いがあり、かすかな金属音があり、人を威圧する気配がある。例えば、第九などを聴いている時に、大音響の中なのに誰もいない丘に一人佇んでいるような気持ちになるのと似ている。愛おしい寂しさである。静けさは布団の中までしんしんと降ってきて、狙われた小鳥のように身をこわばらせているのだけれど、脳のどこかでそれを懐かしんでいる。

 私は雪国で生まれ育ったので、雪の朝の「無音」「匂い」はとてもよくわかる。しかし「かすかな金属音」は「かすかな」はよくわかるが、「金属音」かどうか私は思い出せない。そのあとの「第九……」になると、あ、これが大野の個性なのだなあと感じる。私は第九などとは無縁の田舎で育ったので、そういうものは「肉体」が覚えていない。そうか、雪の静けさは音楽のなかで感じる静けさか。雪の朝には、音楽と静寂だけがあるのか。なるほど。
 でも……。「脳のどこかで懐かしんでいる」。ここで、私はまた驚いてしまう。人間は「脳」で懐かしくなるのだろうか。どうもよくわからない。大野のことばに私が感じる違和感は、どうもこのあたりに「理由」がありそうである。何かを「脳」で理解している。第九を「脳」の音楽と言っていいかどうかわからないが、まあ、私には、暮らしとは無縁の、あとから「学校」で学んだ音楽である。「頭」で聴いた音楽である。--大野は、「頭」で聴いたから「脳」が懐かしむ、というかなあ……。よくわからない。
 とはいうものの。
 この文章はまだつづいていて、

 やがて、スコップの音。ふっと、からだがゆるんで、町のあちこちから雪かきの音が鳴りはじめる。

 ここに出てくる「からだがゆるんで」は気持ちがいい。とても納得が行く。雪かきをしているスコップの音。その音に「からだ(肉体)」が反応してしまう。自分では肉体を動かしていないのに、雪かきをする時の「肉体」の動きが「肉体」をゆする。そうすると、からだがそれを思い出し、覚えていることが動きだす。目覚めたばかりの硬いからだが、覚えている動きのなかでゆるくなる。この文章はいいなあ、と思う。
 大野のことばには、とても「わかる」部分と、どうしてそうなのかなあ、と「わからない」部分がある。こんなことは、誰のことばに対しても起きることなのかもしれないけれど、そういうことが私には気になるのである。
 詩も、少し、そういう感じがする。「蛍光イエロー」は柚子のことを書いている。

てのひらの凹みで
ゆっくりと自転する柚子
柚子には隕石のかおりがする

小宇宙ごと搾りなさい
光年のずれごと薫りなさい

二三・四三度のマジックだ
宙では 軸のずれがこれほどまでにあらわ
胸が空くほどの自由
氷と蒸気が隣り合わせをする星
感傷なんか 柑橘系のトゲにさされればいい

無口だけれど
手を洗いたくなるほどの黄色
小さな爆弾
細胞がひとひら
包丁に吸いついた

 1連目がかっこいい。「柚子」は「隕石のかおり」か。うーん。鮮烈だ。しかし、この鮮烈は私の「肉体」が感じる鮮烈ではない。私は「隕石のかおり」をかいだことがないのでわからない。この「わからない」が鮮烈だ。刺戟的だ。「わからない」のはいつでも刺戟的だ。この「刺戟」は、言い換えると「脳(頭)」にやってくる刺戟だ。「肉体」はそういうものを「覚えていない」ので「わからない」としかいいようがないのだが、「頭」は「隕石」ということばを知っていて、「かおり」ということばも知っている。「頭」が知っているのに、「肉体」が知らないことがある--それが「柚子」という「肉体」でも知っているものと結びつき、「肉体」に「わかる?」と呼び掛けてくる。私の「肉体」が知らないものが「ある」ということが、「刺戟的」であり、「鮮烈」ということだ。私にとっては。
 私が「頭」でしか知らないこと(第九、とか)を大野はしっかりと把握している。それを「肉体」となじませている、ということかもしれない。
 2連目もすごい。
 「小宇宙ごと搾りなさい」--搾るのは「肉体」、手である。手が、「頭」で知っている「宇宙」を搾る。「肉体」が宇宙より大きくなる。「光年のずれごと薫りなさい」。「光年のずれ」か。巨大だなあ。かっこいいなあ。「薫りなさい」は「柚子」に対する呼びかけだろう。自分の「肉体」で搾り、その反応を「柚子」の「肉体」によびかけて、求める。そのとき「宇宙」に対して「光年」ということばがきらめく。
 「頭」と「肉体」が大野の場合、とても刺戟的に呼応している。私は何もわからないまま、その「ことば」を追いかける。はじめて聴いたことばをこどもが追いかけるように。
 「二三・四三度」なんて、「肉体」は感じない。地軸のずれなど私は肉体で感じたことがないので、びっくりしてしまうが、それが「事実(ほんとう)」なら、追いかけるしかない。そういうことば(「事実」だけれど、「頭」で共有するしかないこと)と「感傷なんか 柑橘系のトゲにさされればいい」という「肉体」のささいな反応をひとつのことばのなかでとらえることが大野の特徴なのだろう。









化け野―詩集
大野直子
澪標
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黒田夏子「abさんご」

2013-02-11 23:59:59 | その他(音楽、小説etc)
黒田夏子「abさんご」(「文藝春秋」2013年3月号)

 75歳、最高齢の芥川賞、横書き、ひらがなの多様……と話題が豊富なのだが。まあ、そんなことは関係ないなあ。読みはじめたら、そこにことばがあるだけ。
 この作品の特徴は「主語」の書き方にある。「私は」とか「黒田は」とか「父は」ということばのかわりに、

示されなおした者は、

目ざめた者は、

 という形(書き出しの1段落、 414ページ)。動詞が「者」を修飾することで、主語を区別している。なかには「きかれた小児は、」( 414ページ)という形をとるものもあるが、基本は「……者は」である。
 で、この「動詞」なのだが、動詞というのはちょっとおもしろい働きをする。他人の描写(小説のなかの登場人物の描写)であっても、それを読むと、読者の「肉体」が動く。私だけかもしれないが--まあ、そんなことはないだろうと思う。
 「肉体」が動くと、それは「登場人物」の「肉体」であるにもかかわらず、その瞬間「私の肉体」になる。動詞に合わせて肉体が動くことで、登場人物のガ「肉体」になって、読者と「一体(ひとつ)」になる。そうすると、たとえば「示されなおした者」がAであり、「目ざめた者」がBであったとしても、ABの区別は「頭」がすることであって、肉体的には区別がない。ABは見分けがつかなくなる。融合してしまう。「者」という同一のことばが、その融合に拍車をかける。これがこの小説のおもしろさの基本、ことばの基本である。
 この「融合」にさらに拍車をかけるように、

 ごくうすい絹だったか紙だったか、あるいは絹のも紙のもあったのか、卵がたのも球にちかいのも、淡い水いろをおびたのもそうでないのも        ( 412ページ)

 という具合な描写がつづく。ふつうなら「もの」をくっきりと描くところを、逆にあいまいにする。どちらでもいいように書いてしまう。その結果、この文章からは「もの」そのものは消えて、「ごくうすい」とか「淡い」とか「おびた」とかいう「状態」をあらわす属性だけが浮かび上がる。それが「もの」の共通項だからである。ひとはだれでも「個別」のものを覚えると同時に「共通」のものを覚える。そして繰り返される「共通」のもののほうが、繰り返された分だけ「肉体」に入ってくる。別なことばで言うと「印象」だけが「肉体」に入ってきて、「事実」は「肉体」にはもちろんのこと、「頭」にも入って来ない。「頭」には「……だったか、あるいは……だったか」(そうである、そうではない)という断定を避けた「意識」だけが残る。
 こういう「印象」とか「意識」の状態(あり方)を何と呼ぶか。
 「まじる」という。
 「まじる」が黒田の書いている「肉体(思想)」のテーマというか、キーワードである。それはキーワードだから、ほんとうは書いてはいけないのだけれど、どうしても書かずには進めないときに、それが出てきてしまう。 412ぺーである。ちょっと長いがその1段落を引用しておく。

 それぞれにちがったはずの花の絵がらもまるでおぼろで、秋くさなのだかと似ていないではない配置がおもいえがかれても、木わくとのれんかんもつかないばかりか、夏ぶとんの染めもよう、掛け軸の筆のはこび、はてはずっとのちになって店さきで見かけただけのうちわの絵やだれかがだれかからうけとったようなうけとらないような絵はがきなどもまじってしまい、そんなはかない影のうちでも最もはかない稲科植物の葉ずえのとがりに消えこんでいく。

 ここに書かれた「花の絵」のように、主人公の「記憶」はあらゆるものと「まじってしまう」。母の記憶なのか、父の記憶なのか、母の死後に家族に入り込んだ女の記憶なのか--それはひっくりめて「私」の記憶なのか。もちろん書いているのが「私(私ということばは出てこないのだが、便宜上、そう書いておく)」なのだから、それはすべて「私の記憶」であって、「父の記憶」ではない。「父」が何かを思い出しているわけではない。
 で、いま、私の書いた文章は、ちょっとこんがらがるでしょ?
 私が覚えている父のことを「父の記憶」と私は書く。そして「父の記憶」ということばからはふたつのことが考えられる。「私が覚えている父」と「父自信が覚えていること」と。「父の記憶」ということばのなかで、ふたつがまじりあい、そしてそれはときには、まったく同じ「事実」を指すときもある。たとえば「私が幼いときに母は死んだのだが、そのときの父はやはり若かった」、「私(父)が若いとき、妻(娘の母)は死んだ」。幼い子供、若い父、若くして死んだ母--この「事実」は同じである。
 しかし「事実」が同じだからといって、そのとき感じたことが「ひとつ」ではない。つまり「同じ」ではない。それはあたりまえのことである。だが、その「ひとつではない」ことを、いざことばにすると、そのことばのなかで奇妙なことが起きる。「私が感じたこと」を書いても、それは「私」だけのものではなく、もしかしたら「父」が感じたことかもしれない。また「父」が感じたことであっても、あ、いま「父」はこんなことを感じていると思った瞬間から「私」のものにもなる。
 まじりあって、ひとつになって、「全体」になる。つまり、「生きている」ということの「世界」をつくりあげる。
 これを黒田は、一篇の小説にしているのである。そしてこの「まじる」を押し進めるのが「動詞+者」という形の主語の書き方なのである。
 「まじる」ということばは、私は目が悪いので読み落としたかもしれないが、もう一回410 ページに、「親族がいとなむ料理屋で、一そう目には二けんの使用人がいりまじってくらしていた。」という形でつかわれているが、ほかには書かれていない。「まじる」ということばをつかわずに、この小説が書かれたなら、さらにおもしろいものになったと思うけれど、そのキーワードをつかってしまったのが、この小説の「限界」でもあると私は思った。(「まじる」ということばがでてきた瞬間に、小説の構造が露呈し、「私小説(自分史文学?」が露骨に動きはじめる。)

 脱線しすぎたかな? 小説に戻る。--というか、「肉体」の問題に戻る。ことば、思想の問題に戻る。

示されなおした者は、

目ざめた者は、

 こういう「主語」を「動詞」で特定することばの運動では、おもしろいことが起きる。「動詞」というのは、「過去」のことを書いても「いま」の「肉体」を刺戟する。
 別な言い方をすると、この冒頭の段落に出てくる「示されなおした」という「時」と、「眼ざめた」という「時」は離れているのだが、その「あいだ(時間の隔たり)」は「肉体」のなかでは客観化できない。また「示されなおした」という「動詞」のなかには「示した」という「なおした」という「時」以前の「時」もふくまれていて、その「時」と「目ざめた」という「時」の関係は、もう、ほとんどどう客観化していいかわからない。
 「頭」では「示された(幼い時)」「示されなおした(現在の夢--現在の少し前)」「目ざめた(現在)」という具合に、線上に配列できるかもしれないが、そういう「こと」を思うとき、それはすべて「一瞬」のなかに統合されている。ことばは「一瞬」ではすべてを言えないので、便宜上、別々に動くだけで、ほんとうはいっしょに動いている。「肉体」が「動詞」を反芻するとき、そこには「いま」しかない。そして「いま」のなかで「過去」も「未来」もひとつになる。10年前の「過去」も1日前の「過去」も、「肉体」がそこで起きたことを「動詞」として反芻するとき、「時差」というものがなくなる。「あいまい」になる。この結果、黒田の「まじる」は「同時代的」でありながら、「通時代的」でもあるという具合に、「融合」の世界を広げる。
 「世界」は「いま」という時間でのみ「融合」するのではなく、時間を超えて、つまり過去とも未来とも「融合」する。いいかえると、その瞬間に「永遠」になる。「融合」するとこで、「永遠」が浮かび上がる。
 このことを、黒田は「肉体」でつかみとって、それをことばにしている。それが、この小説である。
 ここまでが、私の、この作品に対する「評価」。いいなあ、と思う点。

 以下は、批判。
 こういうことは、小説では珍しいのかもしれないけれど、詩ではたくさん書かれている。「肉体」のなかで「時間」が入り混じり、その反映として「複数の人物」が融合する。融合しながら「世界」を目の前にあらわさせるというのは、そんなに不思議なことではない。また「融合」をとおして「永遠」を描くというのは、詩のもっとも基本的な形である。(だから、私は、何の驚きもなく、この小説を読むことができた。)
 現代の詩人たちと黒田の違いは、そういう文体をどれだけ続けることができるかである。詩人たちは、黒田のような文体で 100枚書くことはできない。そういう意味では黒田には詩人をはるかに上回る筆力がある。ただし、黒田の小説も15の「コンテンツ」に分かれているから、これは「小説」ではなく「散文詩集」ということにすれば、まあ、詩とは大差がない。
 ひらがなの問題も、現代の詩人たちが多用している方法と差はない。
 で、ひらがなの問題に関して別のことをいうと……。「選評」のなかで奥泉光が「読者はひらがなをいちいち漢字に変換して読み進むことを強いられるので、人によっては苛々するかもしれない。」と書いていた。まあ、奥泉は苛々しながら読んだのだろうけれど。あ、読み方が間違っている、と私は思う。ひらがなを漢字に変換して「意味」を読みとるという具合に読んでは、この小説を読んだことにはならない。
 たとえば「一そう目、二そう目」というような表現が出てくる。これは「一層目、二層目」かもしれない。そう読むと「建物の1階、2階」という具合に把握しやすくなる。しかし、そうではなく、わからないまま「一そう目、二そう目」ということばを「肉体」で生きてみないと、この小説は動かない。
 子供時代を思い出せばいい。大人が何かことばを話している。「一そう目、二そう目」。「そう」がわからない。でも「一」と「層」はわかる。それを頼りに、「一そう目、二そう目」ということばが出てくる現場に何度か出会う。そうすると、あ、「そう」は重なった何かだな、とわかってくる。建物には階が重なっている。そうか、「一そう目、二そう目」は「一階、二階」か……。それが「わかる」ためには、「意味がわからないけれど、音ならわかるという、その音」を「音」として繰り返し繰り返し書く(読む/聞く)ことで肉体に溜め込むことが大切。漢字に変換して「頭」で整理しなおしていたのでは黒田のことばを読んだことにはならない。黒田が懸命に作り上げた「文体」を読んだことにはならない。奥泉の読み方は、奥泉の「文体」で黒田を読むという方法にすぎない。そんなめんどうなことをするから時間がかかるのである。「文学」というのはもともと「個人語」で書かれた「外国語」なのだ。翻訳するのではなく、そのまま直接「ことば」にふれることを繰り返して、ことばが「肉体」のなかで「もの」として存在感を持つまで待つしかないものなのである。そして、それが「わかった」後は、やはり「一そう目、二そう目」ということばを引き続き信じるのが「文学」の読み方である。「一階、二階」と読み替えていたのでは「文学」にならない。(あ、黒田批判ではなく、奥泉批判になってしまった。)
 読み返すのではなく、読み返さずに突き進むことが、この小説の「思想(肉体)」に触れる方法である。

 詩との関係で言えば、たとえば、選評でだれかが書いていたが「傘」を「点からふってくるものをしのぐどうぐ」というように書かれてもぜんぜんおもしろくない。「どうぐ」ではなく、ここも「者」にしてしまえばいいのだ。「者」も「もの」にしてしまえばいいのだ。そうすると「人間」と「もの」がいっそう入り混じり、世界の「融合」がよりなまめかしくなる。

 もうひとつ。私は、この小説にベケットの影響を感じた。そして、その影響が、消化されきっていない。

言いたかったのが、どれをほしいとかほしくないとかではなく、いまえらびたくない、えらべるはずがない、えらぶ気になってからえらびたい、えらぶ自由をいっしゅん見せかけただけちらつかせるようなのではなく、決めない自由、保留の自由、やりなおせる自由、やりなおせるつぎの機会の時期やじょうけんの情報もほしいということだったとさとるまでに、とりかえしのつかない千ものえらびのばめんがさしつけられては消えた。

  390ページの、この「えらぶ」をめぐる言い直しの方法はベケットそのものである。違いは、ベケットは言いなおしてもけっして「前」へは進まない。「いま」という「時間」の重力のなかにどんどん沈んでいく。黒田の「肉体(思想)」でそういうことが起きれば、それはベケットを超えることになるかもしれないが、「前」に進んでしまえば、それまで書いてきた「融合」が大なしてある。
 また別なことばで別なことを言いなおすと。「自由」ということばが頻繁に出てくるが、この「自由」は「肉体」ではつかめない。「もの」ではないからだ。それは概念であり「頭」のことばである。こういう「頭」のことばは、「入り混じらない」。「まじる」ことを拒絶して「頭」野ことばは誕生したのだから、こんなものを「動詞+者」という形で動くことばの世界に持ち込んでは、せっかくの「動詞+者」という主語が死んでしまう。「頭」のことば、その融合を書くのなら、「動詞+者」というような文体はつかうべきではない。
 私はこの部分では、思わず、むかっと腹が立ってしまった。
 この部分では、ごちゃごちゃとあいまいなことを書いているようで、書かれていることはきわめて「論理的」である。「……だったか、……だったか、あるいは……」という前半の文章と比較するとそのことがよくわかる。
 このベケットの影響を受けた部分は、あまりにも異質で、作品から分離している。こんな具合にベケットをまねするふりはやめてほしい。






abさんご
黒田 夏子
文藝春秋
コメント (3)
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ウェス・アンダーソン監督「ムーンライズ・キングダム」(★★★★★)

2013-02-11 20:00:29 | 映画
監督 ウェス・アンダーソン 出演 ブルース・ウィリス、エドワード・ノートン、ビル・マーレイ、フランシス・マクドーマンド、ティルダ・スウィントン、ジェイソン・シュワルツマン、ジャレッド・ギルマン、カーラ・ヘイワード

 芸達者な役者たちが、実につまらない役(?)を演じている。映画のストーリーも、まあ、くだらない。ローティーン(12歳)の少年と少女が、世間が気に入らないのでふたりで駆け落ちする。それをみんなが探し回る。それだけ。
 人生の「深み」が描かれているわけではない。出ている役者たちも、うまいのだか、へたくそなのだか、よくわからない感じ--ぼーっとしている。ぼーっとした、たよりない演技をしている。
 でも。
 おもしろい。
 このおもしろさを、最後の最後で監督が説明している。--まあ、こういう説明はなくてもいいのだけれど、この映画はあった方がいいだろうね。最近は、こういう「映画文法」でつくられる映画がないので、ついつい説明したんだよね。
 その説明を私がここで繰り返すと。
 「映画」とは映像と音楽でできている。(台詞もあるが、なくても映画は成り立つね。)で、そのとき映像も「音楽」であると、とても楽しい。
 音楽というのは、ひとつの「主題」がある。それをさまざまな楽器で演奏する。舞台の上の楽器が全部鳴り響くときもあるけれど、少しずつ合奏されることもある。で、音楽は、単独の楽器でも可能だけれど、いろいろ集まった方が豊かな響きになる。そして、そのときただ楽器が集まればいいというのではない。やはり、その瞬間、その瞬間のタイミングがある。
 この「音楽」の特質と、この映画の役者たちの演技が、重なる。
 「主演映画」ならそれぞれが「自己主張」するのだけれど、ブルース・ウィリスもエドワード・ノートンもビル・マーレイもフランシス・マクドーマンドもティルダ・スウィントンも、ここでは頼りない大人という「脇役」。存在感が欠けている。ぼーっとしている。そして、その存在感が欠けて、ぼーっとしていて、頼りないということは、つまらないようでいて、いやあ、
 それが出会って絡み合うときに、役者の存在感ではなくて、その場の「空気」が不思議と厚みをもってくる。ひとりひとりでは物足りないのに、集まると、そこに一人一人がもっている「音」は単調なのに、違う「音」と出会うことで、そこにひとりではつくりだせなかった「音」(和音)がふいに立ち現れてくる。
 とっても、おかしい。
 人間はみんな、おろかで、何か欠けている。それは天才である少年と少女も同じ。何でもできるようでもできないことがある。そのできないことを、他人が助ける--というのではないが、いっしょにいると、ひとりではつくりだせない何かがふっと湧いてくる。
 これは、魔法だね。
 そういう「音楽」がいつもやっている魔法を、映像(映画)でやってみたのが、この作品。つまらないというか、欠けているというか--そういうものがあるからこそ、その欠けているものと他の欠けているものが出会うと、そこに新しい何か、いままで存在しなかったものがあらわれる。
 で、こういうとき、リズムがとても大切。
 映画が終わった後の「種明かし」ではていねいに、音楽がはじまる前に、まずメトロノームが登場する。同じリズムを守って、いろいろな色の音が積み重なる。そうして、ひとつの「曲」になる。映画はリズムを守るために、達者な役者たちの「過去」を消して(存在感を消して)スクリーンにほうりだす。リズムに乗るために、事故の主題を消し去って軽々と動く、いわば「紙芝居」のような(あるいは学芸会のような)肉体になっている。監督の過激すぎる欲求に、みんなが完璧に答えている。で、それがとても完璧なので、映画はあっというまに終わる。ややこしい「人生哲学」なんかはほうりだして、ただ、終わる。
 とってもしゃれている。おしゃれ度 100点の映画です。
                        (2013年02月11日、天神東宝2)



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夏目美知子「ホウセンカ」

2013-02-10 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
夏目美知子「ホウセンカ」(「乾河」66、2013年02月01日発行)

 夏目美知子「ホウセンカ」はホウセンカが弾けるときのことを書いている。

黄緑の球を指で押すと
その途端、球は弾けて種が飛び出す
残った球はくるりときれいに裏返っている

ホウセンカは
昔、どこにでもあった素朴な花だ
押すと押し返してくる
その感触が
私の親指と人差し指の腹に
残っている

 押すと弾ける--それがおもしろくて何度も何度も球を押したことを私も覚えている。この覚えていることを夏目は「肉体」にしっかり「覚えている」。あ、変な文章になってしまった。夏目は「覚えている」を「残っている」と書いている。「覚える」は肉体に「残る」ということ。「肉体」から消えないということ。そのときの肉体は「指の腹」とどこまでも個別的だ。個別的であることによって「正確」になる。この「正確さ」が「残った球はくるりときれいに裏返っている」ととらえる「目」にも反映している。「肉体」のそれぞれの部位は別々の名前で「目」とか「指」とか、さらには「指の腹」と呼ばれるけれど、相互につながって「ひとつ」になっている。「肉体」として「もの(ホウセンカ)」に向き合っている。この感じがなかなかいい。

そんなことを思い返していると
けれど、それだけでなかったような
まだ何かあるような
それは何だろうかと
押したから押し返してきたのだろうかと

 この3連目。最後の行の末尾にはには、たぶん「思い返した」ということばが省略されている。1行目の「思い返していると」と連動し、「思い返していると」……「思い返した(思った/考えた)」と、「肉体」から「精神(思考?)」が独立して動いているのがわかる。「肉体」が「覚えている」ことから出発し、思考が動きはじめている。
 「肉体」のなかで、ことばがことばになろうとしている。「押すと……押し返してくる」というのが「肉体」が直接的に「覚えている」ことだが、それはそれだけでいいのか。そういう疑問をもった、ということだろう。この「疑問」というのは、「肉体」ではなく「精神(思考)」の働き、「頭」の働きだね。それはしかし「空想」ではなく、「肉体」の点検でもある。「肉体」はこんな具合に「覚えている」が、それでいいのか。それだけで「世界」をとらえることができるのか。ホウセンカという人間とは違った存在(もの)をきちんとつかまえたことになるのか--そういう具合に、世界を点検しているのかもしれない。「肉体」だけでとらえられる世界より、世界は広い。肉体の外にも世界は広がっているから、その肉体の外を夏目はつかまえようとしているのだ。
 私は「頭」で書かれた詩は好きではないが、こういう具合に「肉体」が「覚えている」ことをほんとうにそうなのかと問いかける(自問する)「頭」の動きは信頼している。「覚えている」を「肉体」で反芻してから、「ことば(頭)」でもう一度反芻する。そうすることでことばも「肉体」も確かになる、と思う。
 
 で、夏目は、

違う
指を当てただけで
自分から
押してきたのだった、確かに
今でも指に残るこの感触は
待ちきれない
ホウセンカの思い
弾けるというのは
そういうこと

 ホウセンカにも「思い」があるということを見つけ出す。ホウセンカにも「肉体」があり、それが「押してきた」。つまりそれは「ホウセンカ」の「肉体」をうごかす力がホウセンカの内部にあり、それを「思い」と言うことができる、というところにたどりつく。「思い」がぶつかり世界をはっきり感じる。思いは自分の肉体の外もある。それが世界だ。
 それを夏目は「頭」だけではなく、「今も指に残るこの感触」からつかみとっている。ホウセンカの「肉体」に夏目の「肉体(指/感触)」が呼応して、そのかけ離れたものをつなぐために「思い」というものが動いているのだ。
 「ことばの肉体」が動いているだ。「思い(思考)」は「ことばの肉体」が動いたときに、「人間の肉体」から自由になって誕生するものなのだ。「思い(思考)」とは「ことばの肉体」の自立した運動のことなのだ。






私のオリオントラ
夏目 美知子
詩遊社
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丸山真由美『停留所(バスストップ)』

2013-02-09 23:59:59 | 詩集
丸山真由美『停留所(バスストップ)』(編集工房ノア、2013年02月01日発行)

 丸山真由美『停留所(バスストップ)』は詩集のタイトルがとても古くさい。「停留所」だけでも古くさいのだが「バスストップ」というルビがさらに古くさい。詩も「新しい」感じはしない。
 しかし。つかわれなくなったことばのなかには、ときにはっとする美しさがあって立ち止まってしまう。「可愛いフリル」(これもタイトルがよくない、と思う。)

ミシンの前に腰かけ
エプロンの裾にフリルを付ける
ひさしぶりに針を持つ
 女てえものは針仕事をしてる姿なんざ
 いっとうようござんすね(落語で言ってた)
ちくちく縫って糸を引き絞る
絞った糸を軸にして
フリルの布はあっちをむいたり こっちをむいたり
ととのえながら本体にとじあわせしつけをする

 「しつけをする」。あ、そうか、「しつけ」は、これか。行儀・作法の「躾け」ということばくらいしかいまは聞かないけれど、何かをつくるために下準備をすること、特に裁縫ではそういうことを「しつけ」と確かにいうなあ。「しつけ糸」ということばをいまでも私は聞く。「しつけ」をしないとつぎに進めない。そういう針仕事をしながら「しつけ」を、たとえば親から教えられたものとしてではなく、自分の肉体に「覚え込ませる」。「もの」を「しつける」ことで、自分の「肉体」そのものを「しつける」。そういうつながりがあるなあ。
 「女性詩」というより、「女の詩」。こんなふうに書くと女を「家事」に閉じ込めてしまいそうで申し訳ないが、自分の肉体と「もの」とのあいだを往復しながら、自分の肉体を「もの」のように整然とととのえていく生き方(思想)には、やはり不思議な力がある。
 きのう読んだ中上哲夫の作品には、中上の「肉体」と「川(自然)」の断絶と、それを結びつける「思考(観察)」の力が働いていたが--そして、そこから私は「宇宙」と「孤独」というようなことまで考えたが……。
 丸山は、「いま/ここ」で手に触れるものをとおして、そして「触れる」ことのなかで「もの」をととのえるだけではなく、「ととのえる」ということはどういうことかを「肉体」で「覚えている」のだと思う。
 詩はつづく。

ほっほ これだけ下手間をかければ
きれいに仕上がることだろう
しごきをする

 「しごき」。これは「厳しく訓練をする」でもなければ「体罰を加える」でもない。「しつけ糸」をまっすぐにしているのだ。ここでも丸山の肉体は、私が日常的にはつかわないことばを、「肉体」で「覚えた」ときのままの形でつかっている。
 「しつけ」「しごき」。そのことばの奥には、丸山の「肉体」が動いている。丸山の「肉体」は「もの(布、フリル、糸)」に触れながら、その「もの」のなかで動く力(運動)を自分自身の「肉体」で感じている。「もの」をしつけ、しごくだけではなく、丸山は自分の「肉体」をしつけ、しごいている。(いま、こういうことばが日常的につかわれなくなったのは、そういう「肉体」のつかい方、「肉体」を「思想」にするやり方が消えたということなのかもしれない。)
 こういう「仕事」のなかから「親密」ということばの意味が生まれてくると思う。「もの」に触れ、「もの」を生かし、「もの」に育てられる。--「この子は、やっと裁縫のしつけができるようになったんです」というように……。こういう「肉体(思想)」は、うーん、美しいと、思い出すのであった。
 さらに詩はつづく。

思わず力がはいって
何たること
糸が素抜けてしまった
糸尻に玉止めはしたつもりなのに
ほどけて
水の泡

魂止めをしっかりしていなかったのかもしれない
あなたは足早に行ってしまった
握手もしないで

 「あなた」を失ったことが、そして「魂」というものを、こんなふうに自分の「肉体」になじませて「思想」そのものにする。「魂」というものに触れることはむずかしいけれど(むずかしいと私は思っているが)、丸山はしっかりと「手」で触れていたのだ。「手仕事」をするように「あなた」に触れていたのだ。それが「握手」ということばに静かに生きている。
 「ボタン」も美しい作品だ。坂道でボタンが落ちているのを見つけた。袖口のボタンだろうか。その後、服のボタンがとれていることに気づいた。新しいボタンを付けてみるがどれもにあわない。

ほどけた糸は空から
どこまでもながくたゆたい
ふわり
流され

まだあなたは
探しているのですか

 ボタンをつけていた「糸」は「もの」である。けれども「もの」と「手仕事」を通じて生きることを覚えている「肉体(思想)」は、思わず「あなた」と呼んでしまう。そういう「もの」と「親密」な思想を、丸山は生きている。
 「あなた」と「もの」が「親密」ということばのなかで「同格」というのは変かもしれないが、丸山は「あなた」も「もの」もわけ隔てせずに、自分の「肉体」として生きているのだ。「もの」を正しくつくることは自分を正しく育てること。「あなた」と生きていてこそ「私」は「生きている」を実感できる。
 「もの」と「あなた」も、そのときともに「肉体」である。「肉体」が「魂」である。で、この「わけへだてのなさ」、すべての存在を自分の「肉体」と触れあう領域でつかみとる思想は、ときにかわいらしい表現を生み出す。「群舞」は2センチくらいのバッタを描いている。

エメラルドグリーン
80番手のミシン糸より細い脚
日々草に似た外来種の葉を食い荒らして
 まだ乳歯なんだろう
一寸つまんではなしてやる

 「乳歯」がいいなあ。バッタの乳歯か。うーん、見てみたい。乳歯だとわかると、うれしくなるだろうなあ。








詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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中上哲夫「川について」

2013-02-08 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
中上哲夫「川について」(「現代詩手帖」2013年02月号)

 中上哲夫「川について」には不思議な静かさがある。離れているものを、離れたままそっとつなぐ静かさがある。

ふしぎだわ、と窓ぎわに立って外をながめているきみが泡粒のよう
いう。川がさかさにながれている、と。海から逆に。そして、ほら、
見てというのだ。点滴を受けているベッドのわたしに向かって。

むしろ、川は海から山へと流れるものだと信じていた人びとがかつ
て存在した。北の大地に。秋になると、波立って鮭の群れをつれて
くるのだ、と。確か、川崎洋さんの詩で読んだような気がするのだ
けど。

 「離れたものを、離れたまま」という印象は、たぶん、

川がさかさにながれている、と。

秋になると、波立って鮭の群れをつれてくるのだ、と。

 この、倒置法の「文体」が影響している。

川がさかさにながれている、と「きみが言う」。

秋になると、波立って鮭の群れをつれてくるのだ、と「信じていた人びとが存在した」。

 こう書き直すと、印象がずいぶん変わる。言った「こと」、信じた「こと」が「きみ」と「人びと」のなかに閉じ込められて、そこには人間がいることがはっきりするが、「こと」はあくまで人間がそうとらえるからそこに存在するのだということがはっきりするが、中上の書き方は違う。
 「きみが言う」「人びとが存在した」と言って、そのあとに「切断」がある。句点「。」がある。それから、引き返すようにして「言った/内容(こと)」、「信じていた/内容(こと)」が語られる。
 「こと」が、「きみ」や「人びと」から独立して存在する。
 「こと」を私はこれまで「肉体」と結びつけて考えてきた。「肉体」が動く。何かが起きる。その動詞とともにある「こと」。動詞によって引き起こされる「こと」。
 中上の書いていることは、それとは微妙に違う。
 「川がさかさに流れている」「(川が)波立って鮭の群れをつれてくる」。この文では、「主語」が「私」ではない。そこで動いているのは「私の肉体(人間の肉体)」ではない。私は、そこで起きている「こと」を自分の「肉体」では反芻できない。
 私の「肉体」でないものが、「人間の肉体」でないものが、そこで動いている。こういう自分の「肉体」ではない動き、その動詞を、私は何によって把握し、納得しているのかなあ。
 どうして、その動きを理解できるのかなあ。
 これはもしかすると、道にだれかが倒れていて、腹をかえてうずくまっているのをみて、あ、このひとは腹が痛いのだとわかること以上に不思議なことかもしれない。自分の痛みでもない腹の痛み--それを感じることができるのは私にも腹が痛くて、腹を抱えて呻いた経験があるからだ。そういう「こと」を「覚えている」からだ。
 でも、私は「川が逆流する」ときの「水の運動」を、あるいは「鮭が川をさかのぼる」ときの「鮭の運動」を自分の「肉体」そのものとして体験したことはない。それでも、それが「わかる」。
 この「わかる」には、何か、とんでもない飛躍がある。
 水が流れてくる。その水のなかに立ったことがある。そのとき「肉体」は「水の流れ」というものを「覚える」。「肉体」を押してくるものを「覚える」。そしてたとえば川上に向かって歩くとき、水の抵抗を感じる。その水の抵抗は、水の抵抗なのか、「肉体」の抵抗なのか--その両方なのか。
 私たちは「肉体」以外のものに触れながら、「肉体」の運動の可能性を「覚える」のかもしれない。自分ではできない可能性を学ぶ。夢を見るのかもしれない。夢を「覚える」のかもしれない。
 そのとき、私たちはまた、自分の「肉体」ではない、「ものの肉体」の力を「覚える」。「もの」にも「肉体」がある。力がある。それと人間の「肉体」は出会い、ちょっとした「非情」を感じる。人間の思いなどとは関係なく存在する「肉体」の、その自立に、さっぱりとした力を感じる。「自然の力」といってもいいのかなあ。
 何か、それは人間の「肉体」の、「肉体」にしがみついているものを洗ってくれる。不思議な自立する力。そのために、さっぱりした感じがする。どんなにものが、たとえば川の水が激しくぶつかってきても、その激しさには何か清潔なものがある。人間の「肉体」とは無縁な、何かがある。
 実際に「人間の肉体」と「水の肉体」は接しているにもかかわらず、離れている。離れているにもかかわらず、接している。--自立、独立という感覚(分離という感覚)といっしょに。

 そこに孤独の、あるいは宇宙の(自然の)美しさがある--というのは、うーん、飛躍なのだが、そう思ってしまう。

 これはいま引用した1連目と2連目の関係についてもいえる。「いま/ここ」にある「川の肉体」と中上が思い出している「川の肉体」は同じではない。離れている。しかもそれは「距離」的に離れているだけではない。2連目の「川の肉体」は川崎洋の「ことばの肉体」のなかで流れているのである。
 中上の(あるいは中上の妻?の)「肉体」とはかけ離れたところにあって、かけ離れることによって接触している。接続している。

 自分の「肉体」とは離れたものに触れた瞬間の驚き、その驚きのなかで自分の「肉体」をふと思い出した驚き--その断絶と接続の、不思議な呼吸が「……、と。」という倒置法のことばの動きのなかにある。また連と連との構成、1行の空白を挟んでことばが向き合う動きのなかにある。倒置法と、連と連との呼応の、不思議な「往復」運動が、人間が何かしら自分とは直接「肉体関係」のないものと同時に存在するときの、その「宇宙」、「宇宙の孤独」を感じさせてくれる。

 詩は、このあとアマゾン川の「満潮」による逆流、中上の「冠動脈」の弁の障碍(?--動脈の逆流?)のようなことが語られるのだが、そういう「肉体」のなかの「逆流」と「逆流する川」が呼びあって(呼応し合って)、中上の「宇宙」をすこし複雑にする。
 そのことについてきちんと私のことばはついていけない。どう書いていいかわからない。
 この詩には、私がこれまで考えてきた「肉体」の問題とは少し違った--けれどもどこかで通じているはずの別の問題が隠れているのを感じる。それは最初に書いたように、なんだか離れながら、同時に存在するものなのだけれど。
 うまく私のことばは動かない。

 また、いつか、思いついたら考えるしかないなあ。



木と水と家族と―中上哲夫詩集
中上 哲夫
ふらんす堂
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山本博道「母とぼくの夏のおわりのある朝と夜」、金子鉄夫「ナオコ……」

2013-02-07 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
山本博道「母とぼくの夏のおわりのある朝と夜」、金子鉄夫「ナオコ……」(「現代詩手帖」2013年02月号)

 山本博道「母とぼくの夏のおわりのある朝と夜」は認知症の母親との暮らしを書いている。山本は母親の介護にずいぶん疲れている。

わが家の廊下とは様相がすこし違う廊下の天井から吊るした紐で母
が首を吊っていたどうしてそんなことが認知症の母にできるのか不
思議に思いながら首の紐をほどいて温かみのない母の身体を下ろし
たが悔やまれたのはそこで目が覚めたことだった寝室のカーテン越
しに朝の光が射しこみ夏のおわりの一日がまたはじまろうとしてい
た寝ていただけで生きていた母を起こしパジャマを脱ぎなさいシャ
ツと股引とパンツを脱ぎなさいここに手を入れてこれを穿きなさい

 こんなふうにつづいていく。特徴は句読点がないことである。句読点がないが、私はかってに句読点をつけて読んでいる。どうしてそんなことができるかといえば、まあ、習慣だね。日本語は動詞で文章が終わるから、そこに句点「。」が入る。で、それは考えようによっては、そういう行為は、そこに書かれていることを自分の「肉体」で反芻しながら、句点「。」とともに、いま何をしてきたかを「意識(頭?)」で確かめることだ。
 で、この作業というか、ことばを肉体と頭をつかって「ととのえる」という意識化は、だんだん面倒くさくなってくる。わざわざ句点「。」をいれなくても、肉体の動きが途中でかわれば、そのとき、まあ、「文章」は終わって、次の文章に入ったのだなと「頭」ではなく「肉体」がなんとなく納得する。
 ということよりも。
 そうやって文書を「肉体」で呼吸していると、ああ、だんだん、句点「。」なんてないのが「いま」なんだなあという気がしてくる。区切りがないのが「いま」であり、時間なんだなあと思えてくる。で、文章の意味を突き破って、たとえば「温かみのない母の身体」の「温かみのない」ということば、さらには「温かみ」ということばの手触りが、いつまでも私の「肉体」のなかに残っているに気がつく。「肉体」の「存在」を知らせる何かに触れている--その感じがいつまでも残っているのに気づく。
 「肉体」に区切りがないように、「肉体」の運動にも区切りがない。あるいは区切りを超えて、そこに「ある」ものが「ある。「意味」は区切りを必要とするが、区切ってとらえたものは、そのときの便宜上の問題だな。句点「。」なんて、「うそ」だな。「頭」が自分自身を安心させるために作り上げた装置なんだなとわかってくる。そして、そういう「うそ」が幅をきかすから、「うそ」では処理できない「肉体」を逆に「認知症」と否定的にとりあつかうことで自分を守るんだろうなあ。
 まあ、そういうことは、どうでもいいか。
 だらだらと句点「。」なしにつづく文章を読んでいくと、文章のつづき具合というか、意味の動きというか、それはどうでもよくなるね。つづいていくこと(つづいていること)が大事なのであって、それがつづいているかぎり「生きている」ということがわかってくる。何が起きたかはわからなくても、つづいているということは「生きている」ということ、というのが「肉体」にわかってくる。前に書いたことと重複するが、「温かみ(のない)」というような修飾語(それがなくても何をしたかという「行為のエッセンス」は伝わることば、付随的なことば)のなかに、何か「肉体」のほんとうのつながりが隠れているのに気づく。つまり、「意味」だけをおっているとき除外してしまうもののなかに「ほんとう」があることに気づき、ぞくっとする。「意味」という要約からはみ出してしまうものに触れて、「肉体」が何かを感じる。
 こうなってくると、母が首吊り自殺していたという「夢(うそ)」なんかは、その「意味」を押し流されて、「意味」を失い、「肉体」の「いきつづける」しつこさ、その力の不思議さを輝かせるものになる。「うそ」の方が死んでしまって、--というのも、それは「ことば」にすぎないからね、「うそ」とは無縁の「肉体」が未来を切り開いていく。つまり「いきる」ということで、時間をつくっていく。「うそ」は時間をつくらないが、「肉体」というの「ほんとう」は時間をつくって、「いま」をただ存在させる。「過去」も「未来」も「いま」のなかに引き込み、どっちへ向かおうと「いま(存在)」なのだと語ってくる。こういう「いま」の「ひろがり(拡大・増殖)」を書くには句点「。」は邪魔なのだ。いらないのだ。
 ハイデガーは「投企」などという面倒くさいことを言ったが、わざわざ何かを投げ出して、そこへ向かわなくても「時間」は生まれ、育っていく。句点「。」なんかいらないのだ。「切断」なんか必要としないのだ、私たちの「肉体」は。
 --と書けば、逆だろうという「声」が私のなかから聞こえてくる。「切断」したら「肉体」は生きてはいけない。句点「。」で切断するという「認識」のあり方、「頭」の整理の仕方が間違っているのだ、と何かが叫ぶ。区切らないこと、句点「。」を拒絶することが、「存在」そのものへの「投企」なのだ、と山本は言っているのだろう。
 なるほど、と私は思う。



 
 金子鉄夫「ナオコ(マトリックス体質)、キミのうんこ、うんこみたいだなあってうれしくなってロール、ロール!」はタイトルを読んでも何のことかわからない。作品そのものを読んでも、まあ、わからない。

発光、黴るコードひねりつぶしてジャンク、ジャンクなめまい、らんらん、らんらんに綱渡り脳、脱いでサワサワよろこびあふれるラブ、内実からさかしまに腫れて、腫れれば暴かれるトラウマちっくに作成された地図、その裏側で襞、ひだひだみだれて出会ってしまったナオコ(マトリックス体質)、キミは「痒いわぁ痒いわぁ」と赤味、帯びた疑問符アトピーを掻きむしりながら「歯も、歯もどこかへいっちゃったの奥歯からないの」って覗きこませた口腔内はdada, dadaの密林が騒ぐから侵入、すぐ侵入するナオコ

 私がわかるのは、ここには句点「。」がないということ。それは山本の書いている詩と同じだが、句点「。」がなくても山本のことばには「肉体」にからんだ運動が一応、句点「。」らしきものを暗示したのに対し、金子のことばでは「肉体」が句点「。」を呼び寄せない。
 そのかわり、おびただしい読点「、」があり、それは「肉体」そのものよりも、「呼吸」の感じを呼び覚ます。ちょっと簡略化していえば、金子のことばを読むとき、私の手足は動かない。けれど「呼吸」は動く。(山本のことばの場合、呼吸しているのを忘れる--意識しない。それは日常、私たちが「呼吸している」と意識せずに生きていることに似ている。)
 金子のことばは「呼吸」を覚醒させる。「呼吸」しないと生きていけないということを思い出させる。
 で、その「呼吸」って何?
 「肉体」の外にある空気を「肉体」の内部に取り入れ、「肉体」の内部の汚れたものを「肉体」の外に出す--まあ、そんなことだね。
 で、「肉体」の内部にある汚れたものって何?
 考え方はいろいろあるだろうけれど、私は「肉体」がそれ自身で取り込んだもの以外と考えている。別なことばでいうと「頭」が「頭」のなかに取り込んだもろもろ。それが「肉体」を苦しめている--疎外している。だから、それをほうりだすのだ。捨て去るのだ。大声でわめいて、いらいらを発散するようなものだね。
 大声でわめくとき、その「わめいたことば」にも意味があるかもしれないけれど、それ以上に「わめく」という「肉体」の運動によろこびというか、いきる力があるね。
 「意味」などわからないけれど、金子の書いていることば、その読点「、」の呼吸をおっていくと、私にはそれが「肉体」につたわってくる。金子のことばを「頭」で共有することはできないが、呼吸を「肉体」で共有することはできる。
 「ジャンク、ジャンク」「らんらん、らんらん」「腫れて、腫れれば」「襞、ひだひだ」「歯も、歯も」「dada, dada」「侵入、すぐ侵入」--しり取りをしながら、ことばが動いていく。ことばがことばを捨てていく。金子はことばを「獲得」するために書いているのではなく、捨てるために書いている。ことばを捨てる瞬間に、詩がある、のかもしれないなあ。
 「内実」とか「作成された地図」というようなことばは、実際、捨てるしか使い道がないかもしれないなあ。引用の後の方に出てくるのだけれど「熱病」「胚胎」「存在論」「廃屋」「排出」「退屈」「標識」「網膜」「署名」「疵口」「増殖」「逆説」という、ああ、古くさい、60年代の詩のことばたち。「異化」というようなちょっと前のことばもあるけれど。それだって、古くさいなあ。
 でも、いいさ。それを必死になって捨てる。まだことばになっていない何かを吸い込んで、「頭」が覚えていることばを捨てる。そのための、ひたすらの「呼吸」。「過呼吸」かな? あれは、苦しいらしい。だから「うんこ」というような、だれの「肉体」にも通じる「肉体」が「覚えている」ことばをときどきは思い出しながら、「呼吸」を「息」にかえる。
 そういう「肉体(思想)」が、ここにはあるのかもしれないなあ。私がついていけるのは、まあその「呼吸」が「呼吸」であるということくらいなのだけれど。






光塔(マナーラ)の下で
山本 博道
思潮社


ちちこわし
金子 鉄夫
思潮社
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粕谷栄市「来訪」(「現代詩手帖」2013年02月号)

2013-02-06 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
粕谷栄市「来訪」(「現代詩手帖」2013年02月号)

 粕谷栄市「来訪」は「好日」という小詩集(4篇)のうちの1篇。いつものように、少し変(かなり変?)なことが、繰り返し繰り返し書かれている。繰り返すたびに少しずつことばが動いていき、全体がわかったかなと思ったらもとにもどってしまう。あれは夢だった、そんな夢を見た--という具合にことばが閉じられる。
 何が起きたのかな? 何が起きているのかな? よくわからないといえば、よくわからない。

 深夜、唐突に、一匹の痩せた猪が、私を訪ねてきた。
まだ暑さののこる、九月のはじめだというのに、冬帽を
かぶって、古ぼけた冬の外套をきている。
 私に猪の知り合いはいない。玄関で、そのまま、帰っ
て貰うつもりだったが、何やら、やたらに、恐縮してい
る。
 部屋に入って貰って、向き合って坐ると、猪は、人間
ならば、小男で、文字通りに猪首だ。少し前屈みの姿勢
で、すぐ用件を話しはじめた。
 ところが、ひどい訛りがあるうえに、早口で、何をい
っているのか、聞き取れない。何度か問い直して、辛う
じてわかったことは、彼は、仕事が駄目になって、金に
困っている、ということだった。

 よくわからないのは、「猪」がほんものかどうか。現実的に考えれば猪が人間を訪ねてくるということはないから、まあ「比喩」なんだろうね。だから人間のかっこうをしている。「九月のはじめだというのに、冬帽をかぶって、古ぼけた冬の外套をきている。」と変ではあるが、人間のかっこうをしている。
 と、書いて気がつくことは、あ、「人間のかっこう」をしているから「猪」を人間だと思ってしまうのだな、ということである。「かっこう」は服装だけではない。「何やら、やたらに、恐縮している。」そういう人間っているねえ。何か用事があってきたらしいのだが、用事に入る前に「恐縮」だけをつたえるという人が。
 私はどうも「猪」の「肉体」を見ないで、そこに人間の「肉体」を見ている。そしてそれが「人間」の「肉体」に見えるから、そこに書かれていることを納得(?)する。そこに書かれていることが「比喩」あるいは「寓話」だと思って、安心(?)して読み進める。
 でも、「比喩」や「寓話」なら、なぜ、安心なのだろう。--これは、答えがむずかしい。思いつかない。読んでいるときは「比喩」とか「寓話」というようなことも考えず、ただ「肉体」で反応しているのだと思う。「肉体」が覚えていることを思い出し、そういうことばが動くときがあったな、と思い出すのだ。
 粕谷の詩がおもしろいのは、そういうことを「わかっていること(わかったこと)」として明瞭に書くのではなくて、粕谷自身でも何やら「わかったようなわからないような」という感じを表出しながら書くことである。
 「ひどい訛りがあるうえに、早口で、何をいっているのか、聞き取れない。」これは、わからない部分の表出。「何度か問い直して、辛うじてわかったことは、彼は、仕事が駄目になって、金に困っている、ということだった。」は、わかるの表出。
 その「わからない」と「わかる」のあいだには「何度か問い直して」という表現がつたえるように、「繰り返し」がある。そしてその「繰り返し」とは「動詞」である。「何度か聞き直す」--「聞き直す」という「動詞」を繰り返しているうちに「わかる」。それは、この詩の場合では、猪のことばがわかる、言っている意味がわかるということだけれど……。「猪」って「日本語」? 日本語を話している? あ、それはどうでもいいのだ。繰り返すことで、ことばではなく「肉体」がわかってしまうのだ。「肉体がわかる」というのは「肉体のなかで動いていることばにならない何か」が「肉体」に「ことば」を抜きにして伝わってくるということである。
 恐縮してなかなか話さない。そうかと思えば前屈みになって(つまり、顔を見つめてではなく)、早口で何か言う--あ、金を貸してくれといっているのだな、というのはほんとうかどうかわからないけれど、そう感じ取ることができる。「感じ取る」のは「肉体」である。
 私たちは(私は)、「猪」の「ことば」を直接粕谷から知らされていない。知らされているのは猪の「肉体」の動きだけである。「恐縮している」「前屈みの姿勢」「すぐ用件を話しはじめた」「早口」--そういう「肉体」の動きを粕谷が粕谷の「肉体」で反芻する。そしてそこに起きている「こと」を納得する。「猪のことば」ではなく「猪の肉体」に向き合い、「粕谷の肉体」を「猪の肉体」に重ねる。「肉体」のなかで粕谷と猪が「一体(ひとつ)」になる。それが猪を「わかる/こと」。
 この「わかる」は、肉体「を」わかる、ではなく、肉体「が」わかる、である。その、粕谷の「わかった肉体」と私(谷内)の肉体が重なり、一体(ひとつ)になったときと、私はそれを「わかった」と書く。「頭」でわかっているのではなく、ことばにならない「肉体」でわかっているので、その「わかった」をことばに転換し、書くのはなかなかむずかしい。書いても書いても、それが正しいかどうか見当がつかない。
 「猪」のことは、この詩を読んでも、少しも「わからない」。なんと言ったのか、それは「わからない」。「頭」で「わかる」部分をもっていない。けれど、私の「肉体」は「猪」をわかってしまう。ことばではなく肉体が「覚えていること」をとおしてわかってしまう。
 そういう「肉体」が「覚えていること」を、粕谷は「肉体」をとおして書いている。

 さまざまな事情で、私も仕事がうまくゆかず、鬱屈し
て、家に閉じこもっていたのだ。医師は、私に、何やら
むずかしい病名の診断をくだしていた。
 たぶん、そんなことから、あの気の毒な猪が、あやし
い血の時間に、私を頼ってくることがあったのだろう。

 「そんなことから」--これは「私(粕谷)」が病気だった。「鬱屈した」とか「むずかしい病名」とかという表現からは何やら精神的な病気を想像しがちだが(また「猪」を幻想と考えれば、さらに精神的な病気を連想しがちだが……) 、それを「肉体」は「覚えている」。
 「覚えている/こと」が、「そんなこと」の「こと」のなかにある。
 「そんなこと」としかあいまいに書けないのは、それが「頭=精神」の領域で処理できるものではなく、もっと「どこ」と言えないような「肉体」そのものの記憶だからである。
 「肉体」が触れあう。「肉体」がいっしょに動く。その「動き」のなかにある「ことば」にはならない何か--「そんなこと」を繰り返し書くことで「こと」を濃密にして行く。粕谷が書いているのは「こと」なのだ。

 その後、何度も眠れない夜明け、私は、あの猪の夢を
見た。彼は、廃れた工場の空き地で、汚れた紙幣を数え
ていた。そのときも、彼の細い目は、哀れに思えるほど
真剣だったのだ。

 紙幣を数えるときの目の「真剣」。「真剣」という「こと」が逆に「紙幣を数える」を呼び出しているようでもある。「紙幣」を「汚れた紙幣」にしているようでもある。そしてそこから「哀れ」という「こと」が起きる。哀れに「思える」と粕谷は書いているが、この「思う」は「頭(あるいは精神、こころ)」ではなく「肉体」が直接感じるものである。
 粕谷が実際に真剣に紙幣を数えた「こと」があったかどうかわからない。けれど、どこかでそういう「こと」を目撃した、あるいは聞いた。そのときの「こと」を「肉体」が「覚えている」。
 「そんなことから」、粕谷はことばを動かしている。
 「寓話」に見えるが、それは「頭」がつくりあげた「物語」ではなく、「肉体」が自分の肉体のなかから掘り起こしてきたものなのである。





遠い川
粕谷 栄市
思潮社
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アン・リー監督「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227 日」(★)

2013-02-06 12:30:58 | 映画

監督 アン・リー 出演 ベンガル虎、スラージ・シャルマ、イルファン・カーン、ジェラール・ドパルデュー

 こんなに退屈した映画は珍しい。なぜ退屈かといえば、ことばだらけだからである。それも作家が虎と漂流した男をインタビューするのをそのまま映画にしているからである。だれも体験をしたことがない虎との漂流--それだけが見たいのに、その貴重な体験をことばの枠のなかに入れてしまっては何もおもしろくない。自分が体験したことを映像にするのではなく、聞いたことを映像にする(映画化する)と「断り書き」がついているようなものである。
 で、それがとても長い。実際の漂流がはじまるまでが信じられないくらい長い。
 さらに体験を聞き終わった後、それはほんとうだろうかと吟味する。だれも体験談を信じなかったと体験者に語らせる。そして少年はだれにも信じてもらえないので(日本の保険会社に信じてもらえないので)、実は虎と漂流したのではなく、母親とコックともうひとりの船員と4人で漂流した。ひとの肉を食べて生き延びたという話をでっちあげたと語る。
 これをさらに作家が謎解きをする。少年が最初に語った足をけがしたシマウマは船員、チンパンジーは母親、虎(とジャッカル)はコックであり、途中で虎は少年にかわる。そして生き延びる……。ひとはだれでもまったくの嘘をつけない。どんな虚構にもそれに対応する現実がある--という「哲学」がそこで披露される。
 なんだ、これは。
 虎と漂流した少年の体験ではなくて、作家の「哲学」の押し売りである。そして監督の「哲学」の押し売りである。「哲学」なんて、個人個人が自分の肉体にあわせて「覚える」ものであって、ひとから「ことば」で教えられるものではない。
 で、せっかくの少年の「肉体」をかけてつかみとった「哲学」がどこかへ消し去られてしまう。
 「金を返せ」としか言いようがない。絶対に見ると損をする。「本」を読めばそれで十分である。



 私は虎が大好きである。しなやかな動きと獰猛さがたまらない。死ぬときは虎に食べられて虎の一部になりたいとさえ思う。
 で、この映画は実は虎を見るために行ったのだが。
 虎もぜんぜん美しくない。
 虎が船酔いをするかどうか私は知らないが、この映画では船酔いをする。そして、その船酔いを利用して虎を調教しようとするシーンが出てくるのだけれど、えっ、船酔いって舟に乗っている間中つづくもの? 虎の肉体だって船酔いに対応するんじゃないのかな。私の想像だから間違っているかもしれないが。なんだか、うそくさいのである。虎が海に飛び込んで魚をとろうとするシーンも。
 唯一納得できる美しいシーンは、ボートがメキシコに漂着したあと、虎がジャングルに去っていくシーン。海辺でよろめき、のびをして、それからジャングルの手前でいっしゅん立ち止まるが、少年を振り返ることなくジャングルのなかに消えていく。その瞬間だけ虎がとても自然で美しい。自分のいのちだけを見つめている輝かしさがある。
 
 海--漂流も、なぜわざわざ3Dで撮ったのかわからない。効果的なシーンなどどこにもない。

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谷川俊太郎「記憶と記録」

2013-02-05 09:45:45 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「記憶と記録」(朝日新聞2013年02月04日夕刊)

 谷川俊太郎「記憶と記録」は記憶と記録の違いについて書いている。俗に言う。長嶋茂雄(巨人の選手)は記録には残らないが記憶に残る。記憶とは感情の別称かもしれないね。谷川の書いているのも、それと似たことなのかな?

こっちでは
水に流してしまった過去を
あっちでは
ごつい石に刻んでいる
記憶は浮気者
記録は律儀者

だがいずれ過去は負ける
現在に負ける
未来に負ける
忘れまいとしても
身内から遠ざかり
他人行儀に
後ろ姿しか見せてくれない

 ふーん、そうか……。こんなふうに書くのか。うーん、あまりおもしろくないなあ。
 「浮気者」に対して「律儀者」が正直すぎるのかなあ。
 記憶が「浮気者」なら記録は「嫉妬深い(焼き餅焼き)」くらいの方がおもしろいかも。でも、「嫉妬深い」だと、「負ける」ということばにはつながらないか。
 「浮気者」は最初から勝負をしていないようだし、「律儀者」は、まあ、負けてしまうね。なんとなく、それが想像できてしまう。
 
 わかるけれど、なんとなく肩すかしを喰ったような気持ちになった。だいたい「わかる」ということがおもしろくないのかもしれない。わからないけれど、--つまり自分のことばで言いなおすことはできないけれど、それをそのまま「そうなんだ」と思えるのが「おもしろい」ということなんだと思う。この詩に対しては、そういう気持ちになれない。
 「記憶と記録」があまりにも簡単に(?)「過去/現在/未来」という「時間」のなかで語られていて、それがおもしろくなかった。
 谷川の詩を批判するというような機会はめったにないので、批判を書きたいなあ。
 そう思って書いている。

 長嶋は記録には残らないが記憶には残る--そういう「俗言」のなかには「真実」があると思う。「記録」は次々に更新されていく(あるいは追加されていく)。そのために「残らない」ということがある。
 ところが「記憶」というのは更新されない。いつでも「いま」でしかない。「記憶」には「過去」がない--と書くと、「過去のことだから記憶というのだ」と言われそうだが。
 たしかに「記憶」は「過去に起きたこと」についての「記憶」なのだが。
 これを「記憶する」ではなく、「思い出す」という「動詞」でとらえ直す必要があると思う。私たちは「記憶する」というが、この「記憶する」ということばは「未来」へ向けての動詞である。「覚える」というのは、いつでも「未来」だけを相手にしている。(「覚えておけよ」という乱暴ないい方もある。)「覚える」は「過去」を相手にしていない。「覚えて」、その「覚えたこと」を「つかう」ために「覚える」。
 「思い出す」も「過去」を「過去」として「思い出す」のではなく、「いま/ここ」でつかうために「思い出す」。「いま」を動かすために「思い出す」。思い出さないと「いま」が動かない。そういうときがある。
 「記憶」は時間を「過去-現在-未来」と線上に配置するとき「過去」に属するようにみえるけれど、それを「思い出す」瞬間は「いま」でしかない。10年前も20年前も「いま」思い出すとき、時間を失ってしまう。あるときに「起きたこと」を「思い出す」のである。
 長嶋が展覧試合でホームランを打ったこととか大事な試合でトンネルをしたこととか(ねじめ正一に聞いてみないとわからないが……)、それを「思い出す」(記憶を呼び戻す)とき、それはいつでも「いま/ここ」の興奮である。長嶋と観客が一体になる。その「こと」が「いま/ここ」で起きるのである。それが「思い出す」、「記憶」ということ。

 たぶん。

 たぶん、「記憶」というとき、私たちは「肉体」だけをつかう。それは「客観化」できない何かなのだ。
 「記録」ならたとえば谷川が書いているように「石に刻んで」記録するということができる。いまならハードディスクに、あるいはCDに焼いて云々。つまり「記録」は「肉体」ではなく、「肉体」の「外」にある。(肌に入れ墨をして「記録」するということもあるかもしれないけれど。)「肉体の外」におくことができる。「記録」は「外部媒体」である。
 ところが「記憶」というのは、あくまで「自分の肉体のなか」にあるもの。「肉体」といっしょに動いているものなのだ。それは「客観的」にみえてもぜんぜん客観的ではない。「主観的」でしかない。個人を離れて「記憶」は存在しない。
 「記録」はだれにでも共有できるが、「記憶」はそのひとにしか存在しない。たまたま「同時代」を生きると「記憶」が共有されるように感じるけれど、それは個人が「共有」するのではなく、「時代」が共有するのである。
 だから、私たちの世代が「長嶋があのときホームランを打って、感激したなあ」といくら真剣に話しても、そのとき生まれていなかった世代は、「だれ、それ? やっぱり興奮したのはイチローがホームランを打ったときだよなあ」というふうになってしまう。
 「時代(いま)」という「時間」があるために、私たちは「記憶」も「共有」されると思ってしまうが、それは「個人」によって共有されているのではないのだ。

 あ、だんだん、詩の感想ではなくなっていくなあ。
 まあ、しようがない。
 私は「詩の感想」を書いているのではないのだろう。それはいまにはじまったことではなく、ずーっとそうだったのだと思う。一度も詩の感想を書いたことがないのかもしれない。

 でも、詩に戻ると。
 私は「記憶と記録」には谷川の「肉体」を感じないのだ。あるいは、そこには私の知らない「肉体」があるのかもしれない。
 「他人行儀」ということばが出てくるが、この詩は「他人行儀」である。
 すっきりしている。
 「意味」は全部、わかる。
 たしかにどんなに「忘れまい」としても「忘れてしまう」ことがある。「忘れてしまう(忘れてしまった)」ということさえ「忘れる」ということだってある。そのとき「思い出」の「後ろ姿」を私たちは見るしかないのかもしれない。
 けれどねえ。
 何か違うと思う。
 思い出そうとして思い出せない「いらいら」。そういうものが「忘れる」と一体になっている。その感じが、谷川のことばから消えている。
 何か「他人行儀」である。「いま/ここ」が他人行儀である。好きになれない。引き込まれない。そして、とても淋しい気持ちになる。

 詩のことばには、いつでも「身内」であってほしいなあ。「肉体」であってほしい。
 「こっち-あっち」「水-石」「浮気者-律儀者」「過去-未来」「身内-他人(行儀)」という「対」の構造だけが整然としているのも、窮屈すぎるなあと思う。
 「身内-他人」ではなく、他人に「行儀」がついているように、この詩は「行儀」が余分なのかもしれない。「行儀」が悪くても、そこに「肉体」があれば、それは魅力的なのではと思うのである。








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