詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

永井亘『空間における殺人の再現』

2023-01-23 22:12:51 | 詩集

永井亘『空間における殺人の再現』(現代短歌社、2022年12月25日発行)

 永井亘『空間における殺人の再現』は歌集。巻頭の歌。

ひそやかなざわめきが到着したらやさしい宇宙から降りてきた

 ちょっと困った。何が「宇宙から降りてきた」のかわからない。「ひそやかなざわめき」か、あるいは「ひそやか」か「ざわめきか」。それとも「やさしい」か。もしかしたら「到着する」という動詞かもしれない。
 しかも、というか、そして、というか……。このわからなさが、どうもおもしろい。中途半端な感じが、とても新鮮だ。

メリーゴーランドは破綻した馬を雇い不自然だがどこか微笑ましい

 (牧場が?)破綻して、遊園地に再雇用された馬? 理想の場所じゃない。だから不自然? でも、生きているから、それでいい? どう読んでもいいんだろうなあ、と思う。そう思いながら読むのだけれど、このときの私の「解釈」が一定しない。「解釈」が「結論」にならない。感想が形にならない。ことばに誘われて何かを思うのだけれど、その私の思いは中途半端なまま。
 だれか知らない人に会って(紹介されて)、名前も顔も覚えたのに、どうも何か変。つかみどころがない。好きになっていいのかな? 気をつけないといけないのかな? 中途半端なまま、時間が過ぎていくような感じだ。

落書きであふれた廊下を「どうだ?」って逃げ回るのはユーモアだ

 うーん。この「中途半端」は、ことばのひとつひとつが「独立」しているからだ。論文のようにというと変だが、なにか、「結論」に向かって動いていかない。「感情/抒情」というものがあるとして、それをはっきりとわかるようにはしていない。むしろ、「抒情」という「論理」を拒否して、ことばを「解放」している。「感情」が「抒情」にならないように、「論理」の糸を切っている。
 どこかにことばのすべてをつなげる「糸(論理)」があり、その「論理」によって「ことば(存在)」は比喩となって人を突き動かすのだが、ことばがそんな運動にしばられることを拒絶している。永井は、「抒情の論理」を拒否して、ことば(存在)そのものを、ただ存在させようとしている。
 この歌では「どうだ?」と、「どうだ?」という声を発する人の「過去(論理)」をまったくみせない。そのくせ、それを「ユーモアだ」と断定している。どんな落書きを思い浮かべるか、どんな廊下を思い浮かべるか、「どうだ?」と言っているのはだれなのか。そういう「物語」は、ここにはない。「どうだ?」と言って逃げ回るのを、永井が「ユーモアだ」と思ってみているのか、それとも永井が逃げ回る自画像を「ユーモアだ」と批評しているのか。
 「解釈」は、どうとでもできる。
 永井が私の書いた感想を、「それは違う」と否定したとしても、意味はない。その否定に対して、「でも、それは表面的な否定であり、永井は無意識にそれを認識している。だからこそ、否定で反応するしかないのだ」というようなことさえ、私にはできる。
 つまりね。
 「解釈」にしろ、「批評」にしろ、「感想」にしろ、どんなことばも、そこにある「作品」に対して「後出しジャンケン」のようになんでも言えるのだ。こういう奇妙な世界では、作品は、そんなものなど知らないというために「中途半端」であるしかないのだ。
 「意味/論理/抒情」が近づいてきたら、するりと身をかわす。ただ、ことばだけがそこにある、という感じで揺れる。永井の借りて言えば「つかまえられるかい? どうだ?」と言って「逃げ回る」ことば。それが「詩」なのだ。
 たぶん「新しい詩」。

まぶしさで浮き輪が消える快楽を青い青いと忘れるのかな

 いいなあ。全部のことばが夏の海に溶けていく。その海は、しかし、存在しない。存在しないから、海と言えるのだ。
 しかし、

綿菓子を頬張りながら連れ戻す死に舌先はまだ甘すぎる

 というのは、「意味」が強すぎて「現代詩」くずれ、という感じがするなあ。たまたま開いたページにあったのだが。

ぬくもりが不変であるということに内臓は瓦解するしかないね

 この歌も「意味」が強いかもしれないが、私は、好きだ。「瓦解する抒情(意味の論理)」が永井の歌の姿かもしれないなあと、ぼんやりと思うのである。
 前の方の歌が、後の方の歌よりも、私にはとてもおもしろいものに思える。
 読む歌が増えるに従って、巻頭の歌がいちばんよかったかなあ、と思い出すのである。

 

 

 

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三木清「人生論ノート」から「仮説について」

2023-01-22 21:03:57 | 考える日記

三木清「人生論ノート」の「仮説について」。

仮説とは何か。「本当かどうかわからない説」というのが18歳のイタリア人の「定義」だった。
ここから、「仮説」の反対のことばは何かを考える。どういうときに「仮説」ということばをつかうか。
コペルニクスは、地動説を唱えた。最初は「仮説」(コペルニクスは、信じていたが)。それが「事実(真理)」になるまでに、どういうことがあったか。「論理」が正しいと「証明」できたとき、「仮説」が「事実/真理」になる、というようなことを雑談で話し合った後、本文のなかに出てくる「証明」ということばに注目するようにして読み進める。
三木清の書いている「仮説」は科学的な「仮説」ではなく、「思想(まだ認められていない行動指針)」を「仮説」と呼ぶことで論を展開したもの。
つまり、三木清は「仮説」とはどういうものであるか、というよりも、「思想」とはどういうものであるかを、「常識」と対比させて語っている。
「思想」とは「信念」であり、それはときには危険である。他人にとって危険というよりも、本人にとって危険である。そのことをソクラテスを例に、さらりと書いている。ソクラテスが従容として死に就いたのは、彼が偉大な思想家だったからである、と。
この論理展開の仮定で、三木清の好きな形成、構想、創造ということばが出てくる。これを18歳のイタリア人が、的確に読み進める。

私がいちばん驚いたのは、途中に出てくる「自己自身」ということばを「自分自身」と読み違え、すぐに気づいて「自己自身」と読み直したこと。「自己自身」を「自分自身」と読み違えることができるのは、完全にネイティブのレベル。意味は同じだから。「最初の文字を見たら、次の文字を連想して読んでしまう」というのだが、それができるのがネイティブ。

さすがに、ソクラテスのところに出てきた「従容」は読めなかったが、これを正確に読むことができる日本人がどれくらいいるか。「従容」をつかって「例文」をつくれる日本人が何人いるか。

 

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郡宏暢「スタンプ」

2023-01-22 12:01:30 | 詩(雑誌・同人誌)

郡宏暢「スタンプ」(「アンエディテッド」、2022年12月31日発行)

 郡宏暢「スタン」プの一連目。

郵便受けに落ちた手紙の
あて所に尋ねあたりません、の
青いスタンプに
なんでも見通せてしまう世界をすり抜けて
人の消息だけが消えてしまう
そんな
濡れた髪が
乾くまでの時間のような懐かしさを抱きかかえて
わたしの差し出した手紙は
わたしの手のひらへと
湿り気を帯びた主語をたずさえて
舞い戻る

 手紙がもどってきた。そこから、いろいろなことを考えていく詩なのだが、私は途中にぽつんと出てくる「そんな」という一行につまずいた。「そんな/濡れた髪が/乾くまでの時間のような懐かしさを抱きかかえて」というたとばの「配分」につまずいたというべきか。つまずきの最初が「そんな」という一行だったのだ。
 「濡れた髪が/乾くまでの時間のような懐かしさ」は比喩だが、「そんな」はどのことばまでを指し示しているのか。「そんな濡れた髪が」ではないだろう。「濡れた髪」は、そのことばの前には出てこないのだから、指し示しようがない。それでは「濡れた髪が乾くまでの時間=そんな時間」なのか、「そんな濡れた髪が乾くまでの時間のような懐かしさ=そんな懐かしさ」なのか。
 こんなことは、たぶん、考えてみたって始まらない。
 最初から計画を立てて(?)、そういうことばにしようとしていたのではないだろう。書いているうちに自然にことばがことばを呼び、長くなって行ったのである。
 「そんな」と書いた瞬間は、まだ「濡れた髪」ということばを思いついていない。「濡れた髪」がやってきたあと、「乾くまでの時間」ということばがやってきて、それから「懐かしさ」というこばがやってきた。「そんな」を書いたときには、「懐かしさ」ということばはまだ存在していない。
 なぜというに。
 手紙を出したとき(書いたとき)、それがもどってくるとは想像していない。受取人がいると想像している。ところが受取人がいない。不在だとわかって、はじめて不在の人が「懐かしくなる」ということが起きる。「懐かしい」ひとに書いた手紙だとしても、不在だとわかった(連絡がとれなくなったとわかった)ことによって、「懐かしさ」が強くなる。そういう「変化」がここには書かれているのだから。
 そのことが、この詩全体のなかで果たしている「役割」というのは、私にはよくわからないが、(簡単に言い直すと、それ以後は「青いスタンプ」の「青い」ということばに象徴されるように、書かれているのは「抒情」だけという気がするのだが)、「そんな」という一行の抱え込んでいる不思議なあいまいさはおもしろいと思った。
 音楽(交響曲)が転調するときの、最初の不思議な、鮮烈な「一音」という感じだ。
 この、どこへことばが動いていくかわからないという感じのまま、その後のことばが動いていくと、とてもおもしろい作品になったと思う。

 

 


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中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(4)

2023-01-22 10:47:09 | 中井久夫「ギリシャ詩選」を読む

中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(4)

 「窓」。幽閉されている。投獄されているのかもしれない。窓がないかと探し回る。

一つ開いていたらすごい救いだ。

 「すごい」ということばをこういう具合につかいはじめたのはいつのころからだろう。私はいまでもどうにもなじめないのだが、中井は「すごく」ではなく「すごい」とつかっている。そこに「文法の破れ」というか、「口語」の卑近さを感じるのは私だけかどうかはわからないが、この「すごい」によって、投獄されている人が「生々しく」見えてくる。気取った人間、私とは別世界の人間という感じではなくなる。
 この詩の真骨頂は、このあとの意識の変化のスピードにある。今回の連載では、詩から引用するのは一行だけと決めているので、その急展開のおもしろさを紹介できないのだが、その「急」を予感させる(想像させる)のが「すごい」という粗野なというか、品を欠いた口語である。

 

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Estoy Loco por España(番外篇280)Obra, Luciano González Diaz

2023-01-22 09:50:03 | estoy loco por espana

Obra, Luciano González Diaz

 Lo que llama mi atención de esta obra es la exageración del brazo izquierdo. Los brazos humanos no son tan gruesos. Sin embargo, al mantener el equilibrio en un trapecio con el brazo alrededor de esta forma, el brazo puede sufrir tension. La conciencia está en el hombro izquierdo. Por otro lado, no hay conciencia de las piernas. Así, la pierna izquierda es absorbida por la derecha como si no existiera. La curvatura desde la cintura hasta el pecho también es extraña, pero el movimiento de la fuerza puede ser así.
 Las obras de Luciano siempre encarnan el movimiento de fuerzas dentro del cuerpo más que el movimiento del cuerpo. A menudo se expresa en espacios inestables. Esto hace que el movimiento de las fuerzas dentro del cuerpo sea más vívido. Parece como si se moviera, aunque está inmóvil.
 Algunas obras de Luciano conmueven. Si toco este trabajo también, el columpio se balanceará. Entonces lo entenderás. En ese, por el contrario, el cuerpo del hombre está firmemente estabilizado. Luciano está convirtiendo el movimiento de las fuerzas internas del cuerpo en una obra de arte.

 この作品で目を引きつけられるのは、男の左肩、左腕の誇張である。人間の腕はこんなに太くない。だが、ブランコのコープに、このような形で腕をまわしてバランスをとるとき、肩と腕には力が入るかもしれない。意識の中心は左肩と腕にある。一方、足の方には意識が行かない。だから左足はないかのように右足に吸収されてしまっている。腰から胸へかけての湾曲も異様だが、力の動きはたしかにこんな具合かもしれない。
 肉体の動き(形)ではなく、力の動き(その配分)を見る作品なのだ。Luciano の作品は、いつも肉体の動きというよりも、肉体のなかの力の動きを具現化している。それは多くの場合、不安定な空間のなかで表現される。そのために、肉体のなかの力の動きがより生々しくなる。止まっているのに、まるで動いているように見える。
 Luciano の作品は、動くものが多い。この作品も揺すれば、ロープごと揺れるだろう。そのときわかるはずだ。その揺れのなかでは、逆に、男の肉体はしっかり安定する。揺れる動きを吸収し、支配する肉体のなかの力の配分が具体化されているのだ。

 

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Estoy Loco por España(番外篇280)Obra, Picasso y.....

2023-01-21 13:24:44 | estoy loco por espana

Obra, Picasso y.....


 ピカソとその時代(ベルリン国立ベルクグリューン美術館展)を見た。私がいちばん気に入ったのが、「鶴」。ブロンズなのだが、もとはスコップやフォーク、ガス栓(?)などである。自転車のサドルとハンドルを組み合わせた牛の頭と同じように、そのあたりにあったものをパッと組み立てている。もちろんパッとというのは「比喩」。ほんとうは素早くではないかもしれない。しかし、ピカソのすべての作品がそうであるように、思いついたらその場ですぐに、という印象がある。スコップを見た瞬間に鶴の羽を思い出したのだろう。それをそのまま形にしていく。ここにはなんといっても造る喜びがあふれている。 「踊るシノレス」と比較すると、そのスピード感が違う。「男と女」(手前は、ジャコメッティー)は、やはりスピード感があるが、「鶴」の方がはるかに速い。それは「思いついた」という印象を与えるからだろう。

 この美術展では、マティス、セザンヌも展示されている。私はピカソ、マティス、セザンヌという私にとっての三大画家を見ることができるのというので見に行ったのだが、あっと驚いたのがクレーである。30点以上展示されている。私は特にクレーに関心があるわけではないのだが、見ていて、笑い出したくなった。どういうことかというと……。ベルリン国立ベルクグリューン美術館というのは、ベルクグリューン家のコレクションが中心らしいのだが、そのベルクグリューンというひとは、どうもクレーが大好きだったらしい。その「大好き」という気持ちが作品を見ると伝わってくるのである。私は目当ての作家でもないし、軽い感じで見ていたのだが、コレクションの「密度」が高い。セザンヌ、マティス、ピカソはばらつきがある。作品によって引きつけられ方が違う。ところがクレーの「吸引力」の方は一定している。安定している。どの作品を見ても気持ちが落ち着く。じっくりと見たい気持ちになる。これは、ベルクグリューンの「ほら、これ見て。いいだろう?」と自慢している声が聞こえるからである。


 自分にとってあまり関心がないことであっても、あるひとが、そのことを熱心に語っているのを聞くと、その熱心さに引き込まれる。何を話していたか忘れてしまうが、熱心に話していたことだけは忘れることができない。そういう感じで、クレーを見てしまう。クレーか、何があるは忘れたが、クレーを見るならベルクグリューン美術館がいいよ、と言ってしまいそうである。これではベルクグリューン美術館がいいといっているか、クレーがいいといっているか、わからなくなるが、芸術とはそういうものだろうと思う。作品に直接引きつけられるときもあれば、その作品を紹介するひとの熱意に引きつけられて、作品に近づくこともある。
 

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「現代詩手帖」12月号(43)

2023-01-21 08:58:16 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(43)(思潮社、2022年12月1日発行)

 三角みづ紀「幼いまま枝を広げて」。

どうして星は光るのか
どうして雨は降るのか
どうしてお菓子のはいった缶は
食べたら空っぽになるのか

どうして と問いつづけた
小さい自分を忘れないまま

ことばを丁寧に受けとめ、
いとおしく触れて、
疑いの眼で対峙している
わたしの日々

 この三連目は「ことばを丁寧に受けとめ」る、「(ことばに)いとおしく触れ」る、「(ことばと)疑いの眼で対峙している」と、「ことば」を補うと、互換性のない動詞に一貫性があらわれる。さらに、「(どうして)ことばを丁寧に受けとめ」る、「(どうして/ことばに)いとおしく触れ」る、「(どうして/ことばと)疑いの眼で対峙している」という具合に展開してみると、「わたしの日々」は「小さい自分(幼い自分)」のままなのだとわかる。一貫する「どうして」が「日」を「日」にわけていく。分裂させていく。
 この姿は、こう展開される。

やがて
ときおりやってくる鳥に
どうして飛べるの
と問うような
砂漠に立つ一本の木になりたい

 「鳥」は「ことば」かもしれない。「木」は私かもしれない。そうすると「砂漠」は「日々」かもしれない。
 「どうして」かは、書かない。

 吉増剛造「「愛着!」/"rouge "!」。

 吉増の詩は、引用できない。タイトルは仮に転写してみたが、正確なものではない。感嘆符は斜めのものをつかっているし、「rouge 」には「ルージュ」とルビがついている。本文中も、ルビが頻繁に出てくる。ひらがなにまでカタカナのルビがあれば、「アカ」ということばには「rouge 」というルビがついている。
 吉増は「音」にこだわっているのだろう。「ことば」を「音」に還元したいのだろう。だが、そうだったら、紙の媒体にアンソロジーを載せることにどんな意味があるのか。いまはインターネットでいろいろなことができる。「音」を収録したサイトをURLで表示するくらいの工夫(読者向けの対策)をするべきなのではないのか。
 さらに、この「音」へのこだわりから、もう一度「表記」へもどっていけば。
 吉増は、きっと「表記」にもこだわっているはずだ。単に、ルビだけではなく、文字の大きさも詩と考えているだろう。活字ではなく、手書きの文字(形)にもこだわれば、そのときの紙、筆記具にもこだわっているだろう。すべての「感覚的なもの」が総合されて詩になっている。たぶん、吉増の「老い」そのものも。それを紙の雑誌を媒体にしてつたえるのは不可能だろう。
 谷川俊太郎ではじめ、吉増剛造でとじるアンソロジーの形式にこだわるくらいなら、もっとほかのことにこだわった方がいいだろう。

 「現代詩手帖」の表紙には、「2022年代表詩130篇収録」とある。私は一日3篇ずつ読んできた。43回×3篇=129篇。ただし、最終回の今回は2篇の感想なので、どこかで2篇、感想を書き漏らしているようだ。どの感想を書き漏らしたのか、調べても意味はないだろう。だから、このままにしておく。


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Estoy Loco por España(番外篇279)Obra, Joaquín Llorens

2023-01-20 21:49:43 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens

 Puede que la escultura no consista en mirar el color. Sin embargo, al contemplar estas tres obras de Joaquín, me da cuenta de que el color también es una obra de arte. El azul cobalto une las tres piezas. Son obras distintas, pero están conectadas. Me parecen tres expresiones diferentes de una misma obra.
 Lo que todas tienen en común, además del color, es que están formadas por superficies curvas. Y estas superficies curvas albergan sombras y luz en sus colores. La luz y la sombra cambiarán en función del ángulo de visión. La propia forma también debe cambiar en función de los cambios que se produzcan en ese momento.
 Si estas tres obras se filmaran como una película desde varios ángulos con una sola pieza musical, la danza se desarrollaría como el primer, segundo y tercer movimientos.

 彫刻は、色を見るものではないかもしれない。しかし、このJoaquín の三点を見ていると、色も作品なのだと気がつく。コバルトブルーが三つの作品を結びつけている。それは別々の作品なのだが、通じ合っている。ひとつの作品がみせる三つの表情に見えてくる。
 共通しているのは、色の他に、それぞれが曲面でできているということ。そして、その曲面が色に影と光を抱えている。光と影は見る角度によってかわるだろう。そのとき起きる変化に合わせて、形そのものも変わっていくに違いない。
 ひとつの曲に合わせて、この三つの作品を様々な角度から撮影すれば、それは第一楽章、第二楽章、第三楽章というふうに展開していくだろう。

 

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「現代詩手帖」12月号(42)

2023-01-20 00:00:00 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(42)(思潮社、2022年12月1日発行)

 藤原安紀子「拙速どうぶ」。

ムコウからあるいて
眼うらからわたしも むかい
トク トクとまたたく この
温かい は じぶんの 地から手と
なり 降られた えいえんに
あるいて あるいて

 わかったようでわからない。「わかったようで」というのは「ムコウからあるいて/眼うらからわたしも むかい」を、私は、向こうから誰かが歩いてくる、それに対して私はその相手の方へ歩いていくと想像するからだ。そのとき、私の肉体のなかの変化。それを「眼のうら」から動く、肉体の内部から動くと想像できるからだ。「わかる」は「想像できる」。そして、「想像する」とは自分の肉体を他人の肉体に重ねること。単に足を動かして歩くのではなく、「歩く」はもっと肉体内部の運動、対象を見つめる「眼」の奥、瞼をつぶっても見えるものへとこころが動いていくことが力となっているからなのだと読み、あ、おもしろいと感じる。三行目に出てくる「またたく」は「まばたき」(瞼をたたく)にも通じると感じる。そのあとは「温かい」「血から」「手」という具合に、ここには「肉体」が書かれているのだと誤読をすすめ、いっそう「わかった」という気持ちになる。ことばが「学校文法」どおりに動いていないのは、何かことばにならないものを書こうとしているからだと思ったりする。
 でも、こういう感じは……。
 何と言うか、習い始めた外国語を、わかっている(つもり)の意味をつないでいくようで、どうも落ち着かない。
 こういう奇妙に関節がずれたような文体でないと語れないことなのだろうか。私は、逆に、どう読んでも「学校文法」どおりなのに、読み終わると自分の関節がずれてしまうという印象が起きる文体の方を好む。

 文月悠光「見えない傷口のために」。

ひとの言葉が刃であるなら、
唇はあらかじめ備わった傷口だろう。

 なるほど。

あなたへの伝わらなさに苛立つとき
噛みしめて思う 唇は傷口であると。

 「ひとの言葉」は他人のことばではなく、自分のことば。だから、唇も他人の唇ではなく自分の唇。しかし、そうすると「刃」は自分の内部、たとえば「舌」のようにして唇を切り裂く?

言葉を発するほどに、傷は深く重くなる。

 はい。論理的によくわかります。

誰もが持つ無防備な傷口のために
政府から四角い包帯が配られる。
それでも、わたしの存在を「わたし」だけに
閉ざしておくことはできないのだ。

 うーん、しつこい。
 でも、まだまだ、とまらない。

悲しみをほどいても、心は埋まらない。
「満たされる」とは
自分を最高の相棒にすることだ。
この身体を留めつづけるために
響くような怒りと傷が必要だ。
わたしをわたしたらしめる傷を
わたしは愛する。

 これは、まだまだつづいていく。読み続けると、文月の唇(肉体)が私の肉体をのっとってしまいそうで、こまったなあ、いやだなあという気持ちになる。「わざわざ」最後まで読まなくても、なんとなく「結論(?)」めいたものがわかるのだけれど、私は「わざと」最後まで読む。
 そして、推理小説や映画のエンディングを語るように、「わざと」こう書く。この詩の最後はねえ……。

光が傷を飲みこんで
今ようやく言葉になった。

 ね、想像どおりでしょ? でも、この想像どおりが想像どおりであることを確認するために、最初から最後まで、私が省略した部分を詩集『パラレルワールドのようなもの』で読み直してください。
 優れた映画は「結末」がわかっていてもたのしく読むことができる。知っている内容なのに何度でも見る。詩も、そういうものだ。

 水沢なお「窓の外で燃える火」。

授業中 たまに揺れる
山を切り拓いて 石灰を取り出すらしい

 からはじまる。巨大な何かから、一部を分離する。そういうことと「ぼく」の存在が重なるように(重なることをめざして?)、ことばが動いていく。「ぽく」は切り拓かれる山なのか、取り出された石灰なのか。
 「どちらも本当」だろう。この「どちらも本当」ということばは、六行目に出てくるのだが、それから先は「本当」が分離されるというよりも、より強固に結びつく。それがおもしろい。

 

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「現代詩手帖」12月号(41)

2023-01-19 00:00:00 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(41)(思潮社、2022年12月1日発行)

 夏野雨「トーキョーウォータータクシー」。

「言葉は水の脈みたいに、繋がっている。誰かと。」

 異母兄弟の兄と、父の遺骨を海に撒くために乗った「トーキョーウォータータクシー」で、兄がそんなことを言う。このことばが書きたかったのだろうと思うが、最初の方に出てくることばが、ここに書かれていることばとつながらない。

岸壁沿いのマンションがささやかな生活の光を跳ね返す。ベランダでまどろむ洗濯物や植物たち。

 なぜ、つながらないか。「岸壁沿いの……」は、どこにも「事実」がないからだ。見かけは本当だが、それは「常套句」という嘘。まるで村上春樹の小説のように、私は読んでしまう。「岸壁沿いの……」で読む気力がなくなるのだが、読む気力がなくても最後まであっと言う間に読んでしまうことができるのが村上春樹のことばの特徴だが、私は、そういうことばとはつながりたくない。
 「常套句」は、その国語を話しているひとの、おおざっぱな感覚をつかみとるのにとても便利なので、私は村上春樹の小説を日本語教材(外国人に日本語を教える)としてつかっているが、それは「文学」とはかなり違うものではないかと私は感じている。

 蜂飼耳「夜のベランダ」は、夏野が「トーキョーウォータータクシー」から見たかもしれない光景であるが、そこには「常套句」はない。

ある日、ベランダのすみに火山が出来る
ときおり、くらりと煙を上げ、
灰をまき散らすが苦情は届かない
おそらく 見えないのだ どこからも
私の火山なのだろう

 いや、「火山」が「煙を上げ」る、「灰をまき散らす」は「常套句」だが、それはふつうの人には「見えない」から、常套的な描写であることを超越している。「常套句」は蜂飼のように「わざと(わざわざ)」つかうから効果的なのである。「文学」になるのである。文学とは「私の」ことばである。

夜の続きに取り囲まれる
なにか言おうとして、
火山がふくらんでいく
闇の中に煙が見える

 何を言おうとしたのか。それは読者が考えることである。「答え」があるとしたら、それは作者の中にあるのではなく、読者の中にある。「私の」何かを、言うことができるように誘い出すもの、言うことができるまでそばによりそうのが「文学/詩」であるだろう。

 平林敏彦「詩」。

最後の一日のため
詩で生活を表現する
詩が生活を打ちこわすとしても

 詩は「常套句」ではない。だから「生活を打ちこわす」。そうすることで「つながる」ための「水脈」になる。それは、それまでの「常套句」を壊さないかぎり広がらない「水脈」だ。
 そのために「わざと」、「わざわざ」書くのである。

 

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Estoy Loco por España(番外篇278)Obra, Laura Iniesta

2023-01-18 10:46:21 | estoy loco por espana

Obra, Laura Iniesta
"La paraula arbre"200x200cm, técnica mixta sobre tela,FUNDACION VILA CASAS, Colección privada de Antoni Vila Casas.

 La obra de Laura. ¿Cómo la pintó ella? ¿O cómo la "escribió"?
 Su trabajo siempre me recuerda a la 書(caligrafía). Las gruesas líneas negras son impresionantes. En caligrafía(書)el pincel se mueve de arriba abajo, de izquierda a derecha. ¿Y en esta obra?
 Me parece que escribió (o pintó) de abajo hacia arriba. Lo que rebosa de abajo sube hacia arriba. Además, cuanto más subes, más grande se hace. Las composiciones cercanas a triángulos invertidos suelen ser inestables, pero esta obra es estable. ¿Por qué? No sólo está siendo empujada hacia arriba desde abajo, sino que la fuerza que llega arriba está tirando hacia arriba de la energía de abajo.
 Este fuerte movimiento engrandece aún más la obra.

 Laura の作品。どうやって描いたのだろう。あるいは「書いた」のだろう。
 私は彼女の作品を見ると、いつも書を思い出す。黒の太い線が印象的だからである。書というか漢字は、上から下へ、左から右へと筆を動かす。この作品は?
 下から上へ向かって描いているように見える。下から溢れてきたものが、上へのぼっていく。しかも、上に行くほど、それは大きくなる。逆三角形に近い構図は、ふつうは不安定だが、この作品は安定している。なぜか。単に下から突き上げているだけではなく、最上部に達した力が、下にあるエネルギーを引っ張りあげているからだ。
 その強い運動が、この作品を、さらに大きなものにしている。

 

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「現代詩手帖」12月号(40)

2023-01-18 10:16:45 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(40)(思潮社、2022年12月1日発行)

 高橋順子「哀悼・大泉史世」。

いま大泉さんの声で
「死ぬのっていいわよお」
と聞こえてくる
困っている

 大泉は充実した人生を生きた人だったんだなあ、と感じさせることばである。そう思わせるのは、なかなか大変なことだと感じる。「困っている」はうれしい、だろう。
 高橋は、こういうことを「自然」に書くことができる。

 高橋睦郎「老老行」。ひとは、どういうときに「老いた」と感じるのか。そして、どう生きようとするのか。(高橋は正字体で書いているが、新字体で引用する。)

前立腺肥大予防に老いびとも自慰励めとぞ雨戸閉てきり

 やっぱり病気が気になる。病気は死につながるから、死が気になると言い直せるかもしれない。逆に、それは生への執着、どうやって生き続けるかということが気になるでもある。生は性にもつながる。でも、老人は何を想像しながら自慰をするのだろう。ここからが、老詩人・高橋睦郎の真骨頂である。若者の自慰とどこが違うか、書いてしまう。詩人は、書かずにはいられない。

死ぬるまで性交せよと週刊誌叫喚す性交しくつつ死ねとか
老男女交接のまま相死ぬる窮極相対死とや言はむ

 ここに書かれる死は、セックスの絶頂のときの、エクスタシーではないのだが、完全に行動されている。若者の「死ぬ!」という絶叫とは全く違うはずなのに「死ぬ」ということばが重なって、そのことばのなかに快感、官能、欲望、本能が動いている。
 しかし、「意味」はわかるが、どうも、読んでいて楽しくない。「音」がぎすぎすしている。「死ぬのっていいわよお」につながるような音の伸びやかさがない。音がもっとのびやかで、音楽的だったらどんなにいいだろう。
 私は、このぎすぎすした音に「困っている」。これでは「うれしい悲鳴」(共感)ではなく、むしろ「叫喚」に近い。

 竹中優子「骨壺」。ああ、また、死が出てくる。現代詩手帖のこの編集は「わざと」なのか「偶然」なのかわからないが。

夕方 博多駅に着く
うどんでも食べて帰ろう
そう思いながら階段を下る
席に着く、鞄をそっと引き寄せる
鞄には父の骨壺が入っている

 「鞄をそっと引き寄せる」の「そっと」がとてもいい。大きな肉体の動きを書いてきて、そのあとに「そっと」。小さな動きがはじまる。「遺骨」ではなく「骨壺」と竹中は書いている。そこに、なんというか、「肉親」ならではの距離感がある。他人の「遺骨」を「骨壺」と呼ぶことはなかなかむずかしい。
 父が死んだ、母が死んだというかわりに、父が亡くなった、母が亡くなったという人がいるが、私はこういうときの「亡くなった」には妙な冷たさを感じる。「死んだ」がいい。それと同じように、この詩では「骨壺」がとてもいい。「遺」ではないのである。「生きている骨」というと語弊があるが、死んだ人間の骨ではあるが、まだまだ「生きている」ものが、そのまわりに動いている。「遺」にはなっていないのだ。
 その微妙な動きのなかに、竹中は「そっと」入っていく。何かに触るたびに「生きている」ものが動くのだ。高橋順子が書いた大泉の「死ぬのっていいわよお」は、竹中には「逆説」のように聞こえるだろう。そうだろうなあ、死んでしまった人間は何も悩むことはない、「そっと」動く必要なんかはない。どれだけ暴れ回っても、すべてが「たのしい」思い出である。

今日
私の身体は温かく流れている
引き込んだものと混じり合って
骨壺は部屋にある
布の下に父は眠っている

 いろいろなものが混じり合っているかは「そっと」竹中は息を整えている。そばには父の骨壺がある。それを竹中は再び「そっと引き寄せ」たかどうかわからないが、最後の一行には「そっと」を補って読んでしまう。

布の下に父は「そっと」眠っている

 やっぱり、「生きている」。
 『冬が終わるとき』に収録されているのだが、どの詩もすばらしい。とてもいい詩集である。

 


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「現代詩手帖」12月号(39)

2023-01-17 09:18:54 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(39)(思潮社、2022年12月1日発行)

 齋藤恵美子「白点」。

無数の、白点が埋めてある
ひと、に似ているが、光、かもしれない
--世界の剥製に触れているのか

 「無数の、白点が埋めてある」は断定。しかし、そのあとにつづくことばは、と書いて、私は迷う。推定、疑問であり、仮定である、といったんは書いてみるが、認識であると書き直そうとして、さらに悩む。「無数の、白点が埋めてある」は認識ではないのか。断定しているが、それは「事実」なのか。齋藤の間違い、「誤認」かもしれない。
 つまり。
 「ことば」しかないのである。

ここにも、白点が施され
打たれた水滴の、一つ一つが
魂のように見えてしまう

 私は「魂」を見たことがないので、「魂のように見えてしまう」と書かれていても、何も想像できない。ほんとうに「魂のように見えた」のか、「魂のようだと見たい」のか。たぶん、「見たい」のだろう。「見えてしまう」ことを後悔している(見たくない)というよりは、「見たい」という欲望が「見えてしまう」にこもっていると私は感じる。最初に書かれていた「ひと」が、ここでは「魂」と書き直されており(つまり、齋藤は「ひと=魂」と見ているのであり)、この書き直しこそが齋藤の「欲望/本能」が動いている部分であるといえるだろう。
 世界は「欲望/本能」にあわせて、ことばとして現われる。

 鈴木康太「福祉」。「撃たれた鳥」の落下を書いている。

地面にぶつかる、そのまえに
ぼくは満たされたい
額から顔が出る
それは、あなたの顔で
声はぼくの喉を切る

 それを「見たい」。このときの「見たい」は「体験したい」になる。いいなあ、額が割れて、その裂け目から別の顔が出る。それは作者の「欲望」そのものだ。それに気づいて、悲鳴を上げる。
 ここに「矛盾」があるとして、それは対立するものが結合しようとする矛盾だろうか、それとも分離することを欲する矛盾だろうか。
 こういうことは「論理」の問題になってしまう。そして「論理」の問題であるかぎり、それは「後出しジャンケン」であり、どうとでもいえる。

 では、「論理」って、なんのためにある? ということの「答え」になるとは思わないが、瀬尾育生「ウエスタン」は、とても「論理的」な詩である。

木がそこに生えているので、私はそれによりかかっていたのです。私は決して、木がそこにはえていると信じたから、それによりかかっていたのではありません。木が生えているということは私にとって、そのようなことです。
                  (注、「と信じた」には傍点が振ってある。)

 「信じる」と「気持ち」の問題。「認識」の問題とも言い直せる。しかし、それが「認識」であるかぎり、いつでも「誤認」の恐れがある。間違っているのに信じてしまう。その結果、たどり着くものが「間違い」なら、その「認識」は無効になる。だから、「信じる」を根拠にして「論理」を展開することは無意味である。
 しかし。
 「論理」というものが、そういうものであるという「認識」そのものをテーマにすれば、「認識」について語ることができる。「事実」と「認識」の関係ではなく、「認識」とはどういうものであるかという「認識」。テーマとしての「認識」は、いわば「虚数」のようなもの。現実には存在しないが、「論理」のなかでは存在すると定義して動かすことができる存在。ここからはじまる「認識」の運動を「メタ認識」というのかな? 面倒なことは、私は知らないままにして、テキトウに書くのだが、瀬尾が書いているのはそういう「純粋な(つまり「事実」を無視した)、論理のための論理」の運動と「ことば」の関係である。
 「そのようなこと」という表現(そして「そこ/その」の多用)が、それを的確にあわらわしている。「そのような」としか言えない、そう指し示すしかないものがあり、指し示した以上、そこからことばが論理として動き始めることができる。
 これを象徴的にあらわしているのが「生えている」という動詞。木が「ある」のではなく「生えている」。それは、「よりかかる」という動詞と切り離せない。木があったからよりかかったように見えるが、ほんとうは「よりかかる」という動詞が「木」を呼び出している。木を「生えさせている」のである。「よりかかる」とき木が「生えてくる」のである。もっと言えば「その/そこ」と何かを指示した瞬間に、その指示を確固とするために「生えてくる」。
 そのような世界。
 私も瀬尾を真似て「そのような」をつかうしかないのだが。

 こういうことは「わざわざ」しないと出現しないことばの世界なのだが、その「わざわざ」が「自然」になるときがある。「自然」になるとおもしろいし、そういう「自然」にふれると何か目がさーっと洗われる感じになるが、「自然」に到達しないときは「わざと」が目障りになる。
 瀬尾は、この「自然」を畏れながら(恐れながらではない)、そこに近づき、遠ざかり、という運動を繰り返している。「自然」に到達できることを知っているが、「自然」に到達することを拒否しながら、「わざと」書いている。「自然」に到達しないこと、を課題にしているのかもしれない。到達してしまうと「哲学」か「宗教」になってしまうかもしれないからね。
 ややこしい詩人だ。面倒くさい。しかし、この「ややこしさ/面倒くささ」は、私には「信じられる」もののひとつである。

 


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三木清「人生論ノート」の「感傷について」

2023-01-16 16:15:23 | 詩集

18歳のイタリア人と読む三木清。「感傷について」。
これは、とてもむずかしかった。
「感傷」と「感情」はどう違うか。この定義が、まずむずかしい。三木清の文章を読む前に書いた作文では「感傷」を「感情」とほとんど同じ意味でつかっていた。「感傷」にぴったりあうイタリア語はないようだ。

遠回りになるが、まず季節の印象を聴いてみた。春はどんな気持ち?何をする? 明るくなる。いちばん好き。 夏は? 夏休み。楽しい。 秋は? 落ち葉が散る。静か。秋も好き。 冬は? 寒いから、閉じこもる。

感情には、どんなものがある? 愛とか、憎しみとか、悲しみとか。 
激しい感情、激しい憎しみ、激しい怒り、激しい悲しみ。情熱的な愛情。活発に動くのが感情。
感傷は、激しい感傷という言い方はしない。激しくない。静かな印象がある。だから、季節で言うと秋がいちばん感傷的な季節と、日本では言われる。

傷には、重傷と軽傷がある。区別ができるかな? 聞いたことがない。
軽傷は、たとえばナイフで指先を切ったとき。血は出るが、そのままにしておいても治る。重傷は、病院へ行って手当てを受けなければならないとき。
感傷は「感情」が「傷ついた」状態。傷だけれど、軽傷の傷。ほうっておいても治るもの。

三木清は、感情によって人間の行動は活発になるが、感傷の場合は静止するということろからことばを動かし始めている。そして、思索とは(思想とは)活動的でなくてはならないという点へとことばを動かしていく。 

 


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「現代詩手帖」12月号(38)

2023-01-16 09:41:33 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(38)(思潮社、2022年12月1日発行)

 唐作桂子「根も葉も」。どの詩にもあるのだろうけれど、この詩にも省略がある。あるいは欠落がある。その省略、欠落と、どう共振することができるか。中井久夫なら「チューニング・イン」ということばをつかうだろうなあ、と思いながら読んだ。

根も葉もなく
たっている

 私は「うわさ」を省略、あるいは欠落したことばとして読んだ。「うわさ」は自分自身の力で生まれてくるのではないが、生まれてしまったら「自立」してしまうところがある。そして、それは「チューニング・イン」を要求してくる。あるいは、人間は、それを要求されてしまう。そのまま、無傷でいることは、なかなかむずかしい。
 というようなことを書いたかどうか忘れたが、この詩は、私はとても好きである。ブログに感想を書いたことがあるので、興味のある人は探して読んでみてください。

 北川透「岬にて」。北川の詩にも「省略」はあるかもしれない。しかし「欠落」はない。

なぜか 理由もなく
私たちは三つの形式を持っている
北の果ての海に臨んだ凍土という形式が一つだ

 と、はじまる。「理由もなく」の「なく」は「欠落」を意味するかもしれない。しかし、「欠落」ではない。なぜかというと、かわりに「三つの形式」を持っているからである。言い直せば「理由もなく」の「ない」は「象徴/比喩」なのである。
 「象徴/比喩」は、それだけでは「意味」を持たない。というか「不完全」であり、全体を表象することができない。だから、それは必ず繰り返される。つまり、言い直される。そうすることで「チューニング・イン」が強まっていく。徐々に細部が重なり、全体になり、「実在のもの」と「象徴/比喩」の区別がつかなくなる。
 北川は、これをとてもていねいに書いていく。

どんな舞台もドラマも失われたが
わたしたちはなお岬を演じなければならない
これが第二の形式だ

岬は南の青い海に没しながら
なおリズミカルな点滅を繰り返している
最後の灯台を愛惜する岬という形式が三つ目だ

 「三つの形式」と書き始めたら、ちゃんと「第一」「第二」「第三」と展開する。その過程で「ない」は「失われた」「没する」という具合に変化しながら「チューニング・イン」をつづける。「海に臨んだ凍土」は「岬」に、「岬」は「灯台」にという具合に描写の「対象」の大きさは、いわば「大、中、小」という感じで凝縮してゆき、その過程(リズミカルな点滅)のなかに「愛惜(する)」という感情を浮かび上がらせる。
 「チューニング・イン」の最終的な到達点(?)は「感情」である。感情が「チューニング・イン」してしまう。
 「欠落」も「省略」もない。
 私は、この北川のことばの運動の「形式(スタイル)」を、なぜか、とても「自然」なものとして読んだ。読みながら、あ、私はこのスタイルの詩を読み続けてきたのだと気がついたと言った方がいいかもしれない。
 若い人の詩は、北川の詩のように、読むことができない。しかし、これは、北川が完全に古典になってしまっているということを意味するかもしれない。私は若い人の書くことばの動き、ことばの変化についていけなくなっているだけなのかもしれない。
 なんの疑問もなく、北川の詩は読みやすいなあ、気持ちがいいなあと思ってしまう私をみつけ、そこで少し(かなり?)、つまずいた。「なぜか、理由もなく」。

 草間小鳥子「適切な距離を保って」。

問われた罪
問われなかった罪
これで手打ちだ、と本を閉じ
つじつま合わせの長い夜を越えた

 「罪」を「形式(比喩/象徴)」と読み直せば、私の、北川の詩への態度になってしまうかもしれない。私はテキトウに「つじつま合わせ」を書いただけなのだろう。
 草間は、先の四行を、こう言い直している。

やさしさに似た諦めが
ぎりぎりの肺を満たしている
結論は出せない
出せるものでもない

 まあね。
 私は、結論は常に壊していくためにあると考えている。書いたことを無効にするために書きつづけるとだけ書いておこう。しかし、それは

なにもないところから
ただ なにもないところへ

 というような感じにはしたくないなあ。たしかに人間は必ず死んでしまうんだけれど。

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