「河津聖恵詩集」(「現代詩文庫183」思潮社)を読む。
河津のことばは私にはとても読みにくい。ことばが乱反射して、それについていくのが苦しくなる。しかし、ときどき、すーっと体の中へ入ってくることばがある。
「吐息になる。」までは非常に読みにくい。ところが「吐息になる。」以後はとても読みやすい。わかりやすい。納得できる。
「吐息」が河津の作品のキーワードである。(少なくとも、私が河津を理解できるのは、「吐息」を中心に作品を読み直すときである。)
河津の作品には画家がたくさん出てくる。「ターナーは雲ばかり描いた」(「秋のタンポポ」)「夜のカンディンスキー坂」(「神楽坂」)から香月泰男を題材にした「青の太陽」など。河津は基本的に視覚の人間なのだろう。存在を視覚でとらえる人間なのだろう。視覚によって存在を自分の中に取り込み、ことばにして再現する。そして、その世界へ「音」(聴覚)を溶け込ませる。(触覚はなかなか溶け合わない。)
ところが、存在にはなかなかことばになってくれないものがある。目の前に存在するのに、それにふさわしいことば、それが河津の中に入り込んでいろいろな作用を引き起し「詩」にかわるはずなのに、「詩」になってくれないことばがある。そのとき、河津はもがく。もだえる。そうやって吐き出されたことば、未消化のことばが、たとえば先に引用した前半部分だ。
激しい嘔吐の花々。そうしたものが河津のことばの大半である。
嘔吐の後、人は「吐息」をつく。吐き出してしまって、体がやすらぐ。そのとき漏らす大きな息が吐息である。
吐息に出会い、あ、河津は、それまでのことばをただ吐き出さずにはいられなかったのだと気付かされる。
だが、吐息はことばではない。ことばを含まない「息」である、という指摘があるかもしれない。確かにことばになっていない。ことばを欠いた呼吸にすぎない。だが、だからこそ、そこに「詩」がある。
「詩」はいつでもことばを求めている。ことばになることができずに、もがいている。だから「吐息」こそ「詩」と呼ぶにふさわしいものなのだ。
「吐息」に何がふくまれている。「吐息になる。匂い。古い林檎をかじった後の口腔の匂い。鼓動と吐息。よびおこされるうつろな思い出。」と河津は書く。(吐息が2回繰り返されていることを読み落としてはいけないと思う。)
吐息は匂いを含む。その匂いは快適なものではない。不快なものである。河津の肉体をえぐるような存在である。だからこそ吐瀉するのだろう。河津は自分の体に適合しないものを吐き出す。吐き出して、強く吐息をする。
未消化の印象を残す、それまでの無数のことば。それは河津にとって不適合のもの。折り合いのつかないものである。何が河津の肉体(存在)を苦しめているのか。そうしたものが吐瀉されているのだと思って作品を読み返すと、その世界がなじみのあるものになる。
「秋のタンポポ」という初期の作品は、男と一緒にターナーをみた時間を描いている。男と過ごしている時間を描いている。そこでは男は河津のことを「タンポポ」と呼んでいる。河津はそうしたことを表面上は受け入れている。しかし、完全に体で消化しているわけではない。だから
と抗議するのである。
この抗議は、吐き出したくなかった「吐息」かもしれない。しかし、吐き出すしかない「吐息」でもある。この吐息とともに、それまでの時間がはじめてことばになる。ことばとして向き合えるものになる。
河津は、ことばになりえていないもの、未消化のものをあえて未消化のことばとして吐瀉する。そうすることで世界を再点検している。なぜ、世界と「私」がこんなにも不具合な形で共存しているのか、それを告発しているといえるかもしれない。
と書いて、ふと私は、ひとりの詩人を思い出した。永塚幸司。彼もまた世界との折り合いのなさに苦悩した詩人だった。彼はうまく「吐息」がつけなかった。河津は「吐息」をつくことを知っている。「吐息」の匂いを嗅ぐことも知っている。
河津の嗅覚は「吐息」の匂いを嗅ぐことに専念している。これは奇妙なことかもしれないけれど、そんな具合にして、少しでも肉体が折り合いをつけるというのはいいことであると思う。
河津のことばは私にはとても読みにくい。ことばが乱反射して、それについていくのが苦しくなる。しかし、ときどき、すーっと体の中へ入ってくることばがある。
それら救われたものたちを排泄する器官がどこかを駅舎のようにふるえている、と胸に手を当てて思えば、救われたものたちに結ぶ水滴は鐘のようにきらめき(どんな時代にも、手つかずの場所がある)、私は聖堂のようによばれ光から闇へ走り込む。吐息になる。匂い。古い林檎をかじった後の口腔の匂い。鼓動と吐息。よびおこされるうつろな思い出。
「吐息になる。」までは非常に読みにくい。ところが「吐息になる。」以後はとても読みやすい。わかりやすい。納得できる。
「吐息」が河津の作品のキーワードである。(少なくとも、私が河津を理解できるのは、「吐息」を中心に作品を読み直すときである。)
河津の作品には画家がたくさん出てくる。「ターナーは雲ばかり描いた」(「秋のタンポポ」)「夜のカンディンスキー坂」(「神楽坂」)から香月泰男を題材にした「青の太陽」など。河津は基本的に視覚の人間なのだろう。存在を視覚でとらえる人間なのだろう。視覚によって存在を自分の中に取り込み、ことばにして再現する。そして、その世界へ「音」(聴覚)を溶け込ませる。(触覚はなかなか溶け合わない。)
ところが、存在にはなかなかことばになってくれないものがある。目の前に存在するのに、それにふさわしいことば、それが河津の中に入り込んでいろいろな作用を引き起し「詩」にかわるはずなのに、「詩」になってくれないことばがある。そのとき、河津はもがく。もだえる。そうやって吐き出されたことば、未消化のことばが、たとえば先に引用した前半部分だ。
激しい嘔吐の花々。そうしたものが河津のことばの大半である。
嘔吐の後、人は「吐息」をつく。吐き出してしまって、体がやすらぐ。そのとき漏らす大きな息が吐息である。
吐息に出会い、あ、河津は、それまでのことばをただ吐き出さずにはいられなかったのだと気付かされる。
だが、吐息はことばではない。ことばを含まない「息」である、という指摘があるかもしれない。確かにことばになっていない。ことばを欠いた呼吸にすぎない。だが、だからこそ、そこに「詩」がある。
「詩」はいつでもことばを求めている。ことばになることができずに、もがいている。だから「吐息」こそ「詩」と呼ぶにふさわしいものなのだ。
「吐息」に何がふくまれている。「吐息になる。匂い。古い林檎をかじった後の口腔の匂い。鼓動と吐息。よびおこされるうつろな思い出。」と河津は書く。(吐息が2回繰り返されていることを読み落としてはいけないと思う。)
吐息は匂いを含む。その匂いは快適なものではない。不快なものである。河津の肉体をえぐるような存在である。だからこそ吐瀉するのだろう。河津は自分の体に適合しないものを吐き出す。吐き出して、強く吐息をする。
未消化の印象を残す、それまでの無数のことば。それは河津にとって不適合のもの。折り合いのつかないものである。何が河津の肉体(存在)を苦しめているのか。そうしたものが吐瀉されているのだと思って作品を読み返すと、その世界がなじみのあるものになる。
「秋のタンポポ」という初期の作品は、男と一緒にターナーをみた時間を描いている。男と過ごしている時間を描いている。そこでは男は河津のことを「タンポポ」と呼んでいる。河津はそうしたことを表面上は受け入れている。しかし、完全に体で消化しているわけではない。だから
だからタンポポじゃない
まちがえて
呼ばないで
と抗議するのである。
この抗議は、吐き出したくなかった「吐息」かもしれない。しかし、吐き出すしかない「吐息」でもある。この吐息とともに、それまでの時間がはじめてことばになる。ことばとして向き合えるものになる。
河津は、ことばになりえていないもの、未消化のものをあえて未消化のことばとして吐瀉する。そうすることで世界を再点検している。なぜ、世界と「私」がこんなにも不具合な形で共存しているのか、それを告発しているといえるかもしれない。
と書いて、ふと私は、ひとりの詩人を思い出した。永塚幸司。彼もまた世界との折り合いのなさに苦悩した詩人だった。彼はうまく「吐息」がつけなかった。河津は「吐息」をつくことを知っている。「吐息」の匂いを嗅ぐことも知っている。
河津の嗅覚は「吐息」の匂いを嗅ぐことに専念している。これは奇妙なことかもしれないけれど、そんな具合にして、少しでも肉体が折り合いをつけるというのはいいことであると思う。