作田教子「フィルム」(「あんど」6号)がすばらしい。フィルムが映し出す何か----それはたぶん、作田が看病している母の意識が映し出す何かであろう----を描いている。何かわからないものを媒介に、母と重なり合おうとする。母と一緒のものを見ようとする。同じものを見て、同じ時間を過ごそうとする。そのやさしさがしずかに広がっている。
私たちは、ことばがなくても他人に共感してしまう。同じ感情を持ってしまう。「さよなら」と聞こえなくても「さよなら」と言おうとしていることがわかる。そして、それが声にならないのに声にしようとしていることを知る。無理しなくていいのに、わかっているのに。そう言いたい。しかし、ひとは声にならないとわかっていても「さよなら」と言いたい。
肉体で受け止めるしかないことばは、いつも重い。
突然 怒りだしたかと思うと
彼女は泣いている 肩がふるえて
フィルムは ジジ ジジッと
途切れそうになりながら
声は 無い そして回る
モノクロの時間を過去から巻き直し
手足の動きがぎこちない
(あ のかたちの唇
(さ よ な らの身体の動き
私たちは、ことばがなくても他人に共感してしまう。同じ感情を持ってしまう。「さよなら」と聞こえなくても「さよなら」と言おうとしていることがわかる。そして、それが声にならないのに声にしようとしていることを知る。無理しなくていいのに、わかっているのに。そう言いたい。しかし、ひとは声にならないとわかっていても「さよなら」と言いたい。
肉体で受け止めるしかないことばは、いつも重い。