詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

作田教子「フィルム」

2006-02-23 22:30:34 | 詩集
 作田教子「フィルム」(「あんど」6号)がすばらしい。フィルムが映し出す何か----それはたぶん、作田が看病している母の意識が映し出す何かであろう----を描いている。何かわからないものを媒介に、母と重なり合おうとする。母と一緒のものを見ようとする。同じものを見て、同じ時間を過ごそうとする。そのやさしさがしずかに広がっている。

突然 怒りだしたかと思うと
彼女は泣いている 肩がふるえて
フィルムは ジジ ジジッと
途切れそうになりながら
声は 無い そして回る
モノクロの時間を過去から巻き直し
手足の動きがぎこちない
(あ のかたちの唇
(さ よ な らの身体の動き

 私たちは、ことばがなくても他人に共感してしまう。同じ感情を持ってしまう。「さよなら」と聞こえなくても「さよなら」と言おうとしていることがわかる。そして、それが声にならないのに声にしようとしていることを知る。無理しなくていいのに、わかっているのに。そう言いたい。しかし、ひとは声にならないとわかっていても「さよなら」と言いたい。

 肉体で受け止めるしかないことばは、いつも重い。
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葉紀甫の詩について

2006-02-23 22:17:11 | 詩集
 「あんど」6号は葉紀甫の特集。7人の評論が掲載されているが入沢康夫の書いた文章以外は私にはよくわからなかった。
 私は漢文にうといので、はっきりとはいえないが、葉のことばの動きの基本は漢文体の散文である。その文体のスピードは森鴎外に近い。

武者たちが陰惨に帰つてくる。切り取られた首たちの口は頑固にしまらない。
                              (「わが砦」)

 武者たちの陰惨な帰還を描写するにあたって、葉は武者の様子、破れた装束だの折れた刀だのを用いない。「陰惨」の一語で片づけ、武者以外のもので「陰惨」を別の角度から定義し直す。描写し直す。「切り取られた首たちの口は頑固にしまらない。」と。武者たちは切り取った敵の首の口を閉ざすことさえしない。敵の尊厳に配慮しない。それほどまでに武者たちの精神は「陰惨」だということだ。武者を描写せず、他のものを描写することで武者の精神の「陰惨」さを明るみに出す。それだけで武者たちの装束の乱れ、折れた刀、疲労のように顔を覆う乱れた髭まで見えてくる。そういうものは読者の想像力にまかせて省略する。
 こうした文体のスピード、展開のありようは、漢詩の行の展開のスピードである。森鴎外の『寒山拾得』の「水が来た」という一文を、三島由紀夫は『文章読本』で漢文体のお手本として取り上げていたが、同じリズム、同じ省略の機微が葉の文体にはある。

砦の闇に 馬が頭を廻らす。
ただそれだけの事なのに 旅廻りの巫女はそれを見のがさない。
                              (「わが砦」)

 この2行の呼吸も漢文体のものだろう。

 漢文体に詳しいひとの評論を読みたいと思った。



 森川雅美が「追放された詩人の肖像」というタイトルで、葉と吉岡実を比較している。私にはこの比較は唐突に思える。どこにも類似性がない。通い合うものがない。「言葉のイメージの強さ」(森川)ということなら、それはどの詩人にもあてはまる。
 吉岡実の文体は「新古今」の文体である。言語を積み上げていくときの、積み上げ方を競う文体である。どのように華麗に、どのように繊細に、そしてときにどのように強靱に複雑に世界を組み立てるか。その技法と建築工学を競う文体である。吉岡の詩が孤独だとすれば、それが常に技巧に対して向き合っていることによる孤独である。
 一方、葉の文体は漢文体である。ことばとどう向き合うかではなく、まず存在とどう向き合うかを問題にする。葉の文体の奥から立ち上がってくる孤独は、対象(存在)と一対一で向き合わなければならない孤独である。存在は常に「私」と「世界」の関係を断ち切るようにあらわれる。存在によって世界はいつでも分断されるのだ。存在は非情だ。
 言語構築の技法は詩人たちによって共有される。しかし、存在の非情さはあらゆる共有を分断する。存在の非情さは、世界のなかで孤立する人間の孤独を共有するよう要求する。


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