詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

今井義行『オーロラ抄』

2006-02-24 15:20:40 | 詩集
 今井義行『オーロラ抄』(思潮社)を読む。

 誰の詩を読んでいてもわからない部分に突き当たる。そして、そこから私は、この詩人は何を考えているのだろうと想像し始める。
 今井の詩集で、「えっ」思わず声を上げてしまった行がある。この詩人はいったい何を考えているのだろうか。さっぱりわからないのである。それも、わからなさが頭に重くのしかかってくる(たとえばマルクスを読んでいるときのような)ではなく、「えっ」としか言いようのない驚きと一緒に襲ってくるわからなさである。

愛という文字を考えた人は立派 あんなに観念的なものをこんなに多い画数で具体的な形にしてしまって
                (「のびてゆく粒子のまちにて」)

 「愛」は今井にとって観念的なものなのか、と驚く。私には、愛とは、むしろ観念など入り込む余地のないもののように感じられる。あれがほしい、奪いたい、触りたい、なめたい、食べたい……ようするに自分の体の内部に取り込んでしまいたい、取り込むことによって対象と自分の区別をなくしたいというどうしようもない欲望が愛であって、それが観念的であったことなど一度もない。
 だが、それ以上に驚くのは、愛という文字を取り上げ、それを「具体的な形」と呼んでいる点だ。「愛」は観念的であるが、文字は「具体的な形」である、ととらえる今井の視点に驚く。私にとっては、文字は「具体的な形」ではなく、観念的な形である。たとえば「川」という文字は水の流れをあらわしているというけれど、そうした象徴というか、現実から何かを抽出した形というのは、私にとっては抽象であり、具体的なものではない。観念的なものだ。

 観念と具体的なものとに対する考え方が私と今井とではまったく違う。そのことを踏まえた上で詩を読まないといけないのだな、と気付かされる。


時々 ネットカフェで婦人雑誌を読みながらうたたねし それから
液晶の画面で占いや天気予報 よその日常 あちらこちらで
気をうしなうほどの規模で ことばが楽々と何周もしているのだ

 こうした描写は私には観念的に見えるけれど、今井には具体的なのだろう。
 今井にとって、ことば、文字が具体的な存在なのだろう。そして、今井は、ことば、文字が具体的であるがゆえに、ことば、文字にこだわっているのだろう。
 具体的なものはいつでもそれ自体から他のものへはみ出していく力を秘めている。他の具体的なものと簡単に結びついて新しい世界をつくりだす力を持っている。それは無限定であるがゆえに今井には観念的(観念の世界)のように思えるのかもしれない。
 今井は、そうした力に向き合い、困惑し、それをなんとか、手に納まる(?)形、今井の表現を借りていえば「具体的な形」にしたいと思いめぐらしているのかもしれない。(無限定な世界を、限定的、抽象的な大きさにかえること、たとえば「あい」を「愛」という文字にかえること、という操作の方が私には観念的、抽象的に思えるのだが……。)

 そんなふうに考えながら「枯露柿を知る」を読み返すと、とても不思議な気持ちになる。

デパートのうつくしい宝飾店のロゴを見つめながらあるいています
それは 壁に貼られた 銀いろのねじれた印たちです
初冬の ぼくをやわらげる散歩のなかにそれは光り
宝飾品とは「愛」という名のアメフラシのようなものだろうか

 この世界は、今井には観念的なのだろうか。具体的なのだろうか。
 私には、「ぼく」が世界のなかにとけこんでしまって、ゆるりと、世界と丸ごと一緒に動いているような生々しいものに感じられる。そして、そのゆるりとしたつながりにつなぎ目に「愛」ということばがからみついてくる。
 「愛」が観念的(今井によれば)であるがゆえに、今井は、それをなんとか具体に変えようとするのだが、もとより具体的なものを観念と考えているために、その過程が奇妙に生々しい。

春でしたよ---- そんな空などで ひとは出会ってしまうのでした
ひとは おおむね 蝶つがいの姿になりたがるわけでした
そして たしかに 短い時間をはばたくのだが 振り返ると道が
できていない 白い砂煙が舞っていない いまだけしかない

 ひとが蝶つがいの姿になりたがる、というのは具体的なようで観念的だ。そして、その観念が「短い時間をはばたく」という行に進んだ瞬間、奇妙なことに、先のことばのなかから蝶そのものが空を舞い、どこかへ飛んで行ってしまうという具体的な世界が出現する。
 「ぼく」と女の交流は、そうした奇妙な具体と抽象(観念)の世界で生々しくつづけられる。
 そして、

<私の故郷では干柿のことを枯露柿と呼ぶのです あの頃は
ころころしているからころがき…と思っていました でも漢字では
枯露柿 文字の向こうに 宝石と宝石の組み合わせよはるかなり
ほがらかに音を響かせながら 私の故郷の遠くまでが見られました>

 「宝石と宝石の組み合わせよはるかなり」というのは何か誤植でもあるのか、わかりにくいが、作品の終わりにきて、唐突に最初の「宝飾店」のイメージが立ち上がってくる。
 何よりも驚くのは、「ぼく」と「おんな」の交流において、具体的な枯露柿よりも「枯露柿」という文字(漢字)が具体的なものとして存在し、しかもそれを二人が共有する点である。まるで宝飾店で買う「婚約指輪」(結婚指輪)のように、二人の愛の象徴として「枯露柿」という漢字(文字)が存在する点である。

 これはとても奇妙である。奇妙であるけれど、その奇妙さの、ぬるりとした感覚がとてもおもしろい。
コメント
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