詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

堀江敏幸『河岸忘日抄』(1)

2006-02-08 14:49:01 | 詩集
 堀江敏幸の文章は肌理が細かい。そう感じるのは、たぶん随所にあらわれる表現が深く肉体と結びついているからだろう。たとえば16ページ。朝、まだ目を覚ます前、遠くから聞こえてくるドラムの音。

耳栓でもしているみたいに籠もっていたその連打音はしだいにくっきりと像をむすび、まだ脳と連絡がうまくとれていない内耳を心地よく打ちつける。

 「まだ脳と連絡がうまくとれていない内耳」がとても丁寧だ。音を音ではなく、目覚める前の肉体の感覚として表現する。それは音自体の描写よりも印象深く残る。

 目覚めの前にあれこれ思う部分。(18ページ)

目覚めの水面に鼻先が出そうなところで彼は思う。

 「鼻先」という表現によって、朝の感覚が鮮明になる。目覚めは確かに深い水中から新しい空気を吸いに浮上するようなところがある。
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米田憲三歌集『ロシナンテの耳』再読(1)

2006-02-08 14:30:41 | 詩集

リラ今朝をむらさき淡く咲かす窓 少女声あげて「桐壺」を読む

 「リラ今朝をむらさき淡く咲かす窓」という文体、「を」の使い方が印象に残る。ここに「詩」があると思う。「を」を中心にして、意識が力づくでねじまげられていく感じがする。ねじまげられ、導かれた先に、ぱっと世界が広がる。
 窓の向こうにリラが咲いていて、その薄紫の色が朝の空気を染めているという状態なのだろうけれど、散文の意識の流れとは逆の文体の流れ、目に入ったものから順番にことばにしていくことばの流れ、その中心というか、起点というか、あるいは流れに差し挟まった巨岩によって流れが渦巻くような感じというか……「を」を中心とした躍動がうねる水の腸(はらわた)のようにつややかだ。
 この運動、意識の躍動が美しいので、それにつづく「少女声あげて「桐壺」を読む」という、ありふれた授業風景もおもしろくなる。少女の声からいままで存在しなかった「桐壺」の新しい一面が飛び出してくるような印象がある。古くさい古典としての源氏ではなく、少女の視線がとらえ、声のなかに輝く源氏の世界が見えてくる感じがする。

 米田の短歌は、今引用した「リラ」に見られるように、ふたつの存在を対比させるものが多い。そして、その対比には「精神」(こころ)が入ってくる。文学に「精神」(こころ)が入ってくるのは当然のことなのだが、米田の歌には、そのことを強調しているように感じる。

校庭にポプラの絮の舞う見えて解き放ちたきころ遊ばす

 舞うポプラの絮と解き放ちたいこころ。「万葉集」の歌人なら「解き放ちたきころ遊ばす」は書かずに、単にポプラの絮の舞う様子だけを描写しただろうと思う。しかし、米田はふたつを書く。たぶん「精神」(こころ)を強調したいのだと思う。
 精神性の強調----これが米田の歌の特徴のひとつかもしれない。

 この視点から「リラ」の歌を読み直してみる。
 一読したときは「リラ今朝をむらさき淡く咲かす窓」に目を奪われる。そのことばの流れの華麗さが印象に残る。しかし、米田の表現したかったのは、本当は「少女声あげて「桐壺」を読む」という世界のおもしろさだったのかもしれない。少女が、意味を明確に把握しないまま、古典・古語を読む。そのとき少女のなかでどんな花が咲いているのだろう。その花は少女の今朝の空気を何色に染めているのだろう。
 米田は、リラの薄紫よりも、今、少女のこころのなかの色をこそみつめているのだろう。

無防備はわれのみならず駆けてゆく少女らを幾度も驟雨は襲う

 「無防備なわれ」は単に傘を持たないわれではないだろう。しかし、その精神性を、精神性など無関係にただ驟雨に濡れて平気な少女の若さに重ね合わせるとき、そこには青春への強い憧れを超えて、無防備でいることへの意志が立ち上がってくる。
 米田には、歌は精神(こころ)を読むものだという強い意識がある。

芽吹かむとして一途なる木々見えて別れの宴にわれ辛くおり

 「一途なる」にこめられた精神(こころ)が、この歌の「詩」である。
 この精神性はときに抽象的になる。

耐えてきし永き時間を反芻する今際のきわの父の喉ぼとけ

 「永き時間を反芻する」の抽象的な表現は「喉ぼとけ」という肉体によって生々しい手触りにかわる。
 米田は抽象と具象の拮抗、絡み合いのなかで人間を屹立させようとしている。

 一方、精神の強調とは別の歌もある。風景の寸描も美しい。

ひかりの皺きらめかせ水路をのぼりくる発動機船の軽やかな音
冬のひかり満ちてゆたけし橋潜る水路を舟のつながりてゆく

 「ひかりの皺」「ゆたけし」が美しい。特に後者、「ゆたか」とはこういうときに使うのか、と日本語の深さに驚かされる。





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