詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

白石公子「雪解け水のふきだし」

2006-02-05 23:13:38 | 詩集
 白石公子「雪解け水のふきだし」(「現代詩手帖」2月号)の最後の4行が美しい。

玄関に立てかけていた傘から
とろみのあるふきだしが
様子をうかがいながら
こちらに広がりはじめている

 傘にへばりついていた雪が融け、水になって傘の先から広がり始める。その形を漫画の「ふきだし」のようだと思って白石は見つめている。水は表面張力の力で、先端が丸くなっている。それを「とろみのある」と表現している。いい比喩、肉体感覚あふれる比喩だな、と思う。

 一方、観念的で比喩というには厳しいなあ、と感じるものもある。
 雪の日。窓ガラスにはりついた雪(ぼたん雪?)は風にあおられているのか、すこし窓を登る。それから重さゆえに、棒線を描いて滑り落ちる。それは「わたし」と「彼」は会話にならない会話に似ている。空中をただよい、見えない壁、透明な壁(ガラス窓のようなもの)にへばりついて、落ちてしまうものである。
 白石は、そうしたやりとりを漫画の「ふきだし」のなかの文字のように、自分の外に差し出し、客観的にみつめようとしている。
 お茶を入れるために湯をわかすという日常の姿を借りながら、やかんから吹き出る蒸気の「ふきだし」を利用して、その「ふきだし」のかたちのなかにことばを囲い込もうとしている。あるいは窓の外の風景をたどり、風景のなかの曲線をたどり、せりふのための「ふきだし」の枠をつくろうとしている。そうした部分の描写。

昔水路だったという道の曲線を
濡らした人差し指でたどってばかりいたのは
音も立てずに床に落ちる
わたしたちのやりとりを
ゆるやかに囲ってみたかったから
言葉の首元をくくって
色とりどりの風船のように
宙吊りのこの部屋に
浮かべて見たかっただけ

 風船もまた「二次元的」に描けば「ふきだし」の形である。
 「ふきだし」をりようすることで、ことばを客観化しようとしている。「わたし」と「彼」の間の会話を点検し直そうとしている。
 いや、そうではなく、ただ「ふきだし」にして、部屋に浮かべ、飾ってみたかっただけ、と白石は言う。

 私には、この二つの比喩が噛み合っていないように思える。肉体と精神が噛み合っていないように思える。やかんの「ふきだし」は上下運動である。傘から漏れる雪解けの水は同心円(遠心力的)である。一方は垂直運動、他方は水平運動である。

 もっとも噛み合わないからこそ、この詩の「わたし」と「彼」の噛み合わない意識というものを象徴していることにもなる。しかし、こうした噛み合わない感じは、どうも「気持ちが悪い」。書こうとしているものが定まらないまま、書き始め、唐突に中断したという感じがする。
 「連載詩」という形をとっているから、こうした中断は最初から予定されているのかもしれないけれど……。
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フィオナ・サンプソン「つかの間の歴史」

2006-02-05 01:55:41 | 詩集
 「現代詩手帖」2月号の「英国女性詩人3人集」(熊谷ユリヤ編訳)。フィオナ・サンプソン「つかの間の歴史」に惹かれた。

翼のわななき。壊れた小鳥は
虚無と対峙する。それは窓ガラスに激突する
二つの肩の銃声。翼と、尾と、心臓とが
爆発する圧倒的な力。
強打と流血、削り取られた流血、再びの流血の
激痛、あるいは黒い羽の塊。

そのあと、あなたは小鳥を拾い上げる。
小鳥の目は、あなたの弱さに身を任せ切るかのように
封印されたまま。皺のある黄色い絹の目蓋、
嘴を染める血のまばゆさを見せ付けるために。
ガラスの質感で広がる静寂に逆らうかのように。
断末魔の翼をのばして、逝かせてやってください。

 昨日触れたコルネリユス・プラターリス「ミルクとトマト」とは違った形で「あなた」が強烈な位置を占めている。
 男、女、あるいは兵士といった第三者ではなく「私」と密接な関係にある人間が「あなた」である。二人称とは親密な関係を指し示す働きを持つ。(スペイン語にはtutearという表現がある。フランス語にも類似の表現がある。tuで話すというのは、親密さの表現である。)そこには肌と肌が触れ合う関係(抽象的意味も含めて)がある。相手に身を任せても大丈夫、気の置けない関係がある。
 この詩でも、「あなた」はそういうものをあらわしている。
 だからこそ「小鳥の目は、あなたの弱さに身を任せ切るかのように」という表現も生まれてくる。「身」は、肉体であり、命そのものである。
 そして、このときから「あなたの弱さ」とは精神・感情の弱さではなく肉体の弱さになる。肉体に肉体が反応してしまう弱さ、命の輝きと苦悩に共感してしまう弱さになる。

 肉体は不思議である。たとえば誰かが肉体的苦悩を抱えている。その苦悩は私自身のものではないが、肉体はそれをリアルに感じてしまう。どんなにことばをついやした表現よりも、肉体にあらわれる一瞬の表情、姿勢が、私たちの中の肉体の苦悩を引き出し、共感させてしまう。(長谷川龍生に「瞠視慾」など)
 相手が親密な関係にあれば、なおさらである。
 肉体は、他人の肉体の痛み・苦悩を拒絶することができない。他人の痛み・苦悩について「頭脳(精神)」は「そういうものは私と関係がない」と拒絶することができるが、肉体は「そういうものは私とは関係ない」と拒絶することができない。

 広島の苦悩にしろ、グランド・ゼロの苦悩にしろ、私たちは「頭」では「それは私とは無関係である」ということができる。しかし、実際にその場に立ち会うと肉体は「それは私たちとは無関係ではない」と拒絶できない。肉体が反応してしまうのだ。破壊され、破壊されながらなお存在するものの肉体に。
 あらゆる「現場」に私たちが行かなければならないとすれば、それは肉体として共感するためだ。

 (先日、ニューヨークの国連を見学した。そこに広島のねじ曲がった原爆壜があった。それを見たとき、「たったこれだけ?」と私は怒りを感じた。これだけで肉体が反応すると思っているのだろうか。なぜ事実を肉体から遠ざけようとするのか、という怒りである。)

 この作品にあるのは「思想」ではない。肉体である。肉の痛み、血の熱さ、命そのものである。
 どのような歴史(政治的歴史、政治的闘争)のなかにあっても、その瞬間瞬間において私たちは肉体である。肉体を通して他者と接する。
 他者の肉体をどれだけ自分と身近に感じることができるか、他者の肉体により親密に接近するために、ことばはどんなふうに動いていくことができるか。詩は、そうしたことのために、何ができるのか。肉体の復元のために、ことばは何ができるか。
 そういうことを考えた。「あなた」ということばに誘われ、明確なことばにならないまま。
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