詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤維夫「病後の手記」

2006-02-25 23:53:54 | 詩集
藤維夫「病後の手記」(藤維夫個人詩誌「SEED」9号)。以下は全文。

わたしは根源の泉を訪ね
すてきなほど水がいっぱいだった頃に去る
後悔するばかりでひと足おくれの花を見た
車の窓からの景色は雪がすくなく
反対の窓側は日本海だろう

わたしとどんどん年をとって
林のしげみの中で虫の羽を探している
ひたすらお辞儀しながらの格好だ
とうとう何もかも見失って
妄想に迷ったままだ

病後の手記を書いて
あたらしいシャツを干している
きみとわたしの礼服までも干している
日差しの永いあったかな日を想い出そうとしながら
目がさめたのだ

 2行目の「すてきなほど水がいっぱいだった頃に去る」の「だった」に私はひかれる。つまずくというのではなく、ぐいと魅了される。たぶん、すぐそのあとの「去る」ということばのために。
 日本語は、過去のことも現在形で語る。今、起きているかのように語ることができる。1、2行目は「わたしは根源の泉を訪ね(た)、そして(泉が)すてきなほど水がいっぱいだった頃に(泉を)去った」という意味だろう。3行目は単純に「花を見た」と過去形である。1、2行目も過去を語っているに違いない。ただ、過去を現在の体験のように語るときは、普通は「水がいっぱいだった」とは書かないだろう。その部分も現在形である。しかし、藤は「だった」と過去形で語る。
 時制の乱れがある。

 この時制の乱れは、藤の表記の間違いではなく、藤が意識的に選びとったものである。時制の、間違いとはいえないまでも、何かしら奇妙な捩れは、藤が書いていることが現実そのものではないということを間接的に語っている。現実そのものではないということの「証拠」として、意識的に時制を乱したのである。

 根源の泉を去って以来、「わたし」はどんどん年をとって云々と、作品世界は歴史の時間のように、藤自身の時間軸にそって展開する。「お辞儀しながら」世間をわたり、自分自身の何もかもを失い、病気にもなって(病気からも回復し……)と、いわば普通の市民の半生らしいものが簡潔に、象徴的に語られる。
 そうして、唐突に「日差しの永いあったかな日を想い出そうとしながら/目がさめたのだ」と、それまで現在形で語られた世界が「夢」だったことを告げる。
 このときも、藤のことばの時制は、とても印象的だ。
 「目がさめた」と過去形で語られる瞬間、それが時制的には一番新しい(現在)なのに、その現在が過去形で、それまでの過去の世界が現在形なのである。
 この奇妙な、何か神経の奥をくすぐるような時制の乱れも、藤が意識的に仕組んだ構造である。

 夢は目覚めている時間からみれば「過去」であるが、けっして過去とは意識されない時間である。現在であると錯覚したまま、私たちは夢を見る。また、夢とは現実そのものではないけれど、そうしたことも夢見ているときは意識されない。現実であると思い込んで夢を見ている。
 そうした意識の運動を、藤の時制は意識しながら書いている。そうした時制の混乱のようなものを明確にするために、藤は、意識的に時制を使い分けている。

 そして、この時制の意識的な使い分けの、もっとも美しい実践は、終わりから2行目の「日差しの永いあったかな日を想い出そうとしながら」手ある。作品世界の意味的時間からいえば、「きみとわたしの礼服まで干していた/あの日差しの永いあったかだった日を想い出そうとしながら」であるはずだが、藤の自在な時制ワールドを藤のことばとともに歩んできた私には、その行は過去形にはならない。むしろ、未来形になる。「未来のある日、きみとわたしの礼服までも干している/日差しの永いあったかな日の夢を見ようとして、その夢を見る前に」目がさめたのだ、としたのだと読んでしまう。
 夢の中で、その夢より過去を「想い出そう」とすることは、過去の想起というよりは、夢の中で単純にもう一つの夢を見ることだ。そして、夢の中で夢を見るということは、実は、今実際に夢見ている世界(たとえば礼服を干している時間)を現実だと意識することである。今、私は日差しの暖かな日を思い描こうとしているが、それを思い描けるのは、それが現実ではなく想像の世界だからである----こういう強靱な認識は、どうしても夢を破るしかない。こんなことを考えれば、どんな夢だってさめてしまう。目がさめてしまう。

 藤の、この短い作品は、精密な、夢と現実、夢と人間の精神の動きのリポートそのものでもある。夢の精神分析論文を詩で書いたもののようにも感じられる。

 そう思って、再び、「病後の手記」を読み返す。すると、「日差しの永いあったかな日を想い出そうとしながら」が、かけがえのない夢の時間に思えてくる。「日差しの長いあったかな日」のなかで穏やかに生きたいという強い願いが立ち上がってくるのを感じる。



 「SEED」9号には、5篇の詩が載っている。どれも簡潔で、余分なことばが一個としてない。その1篇に「観念的なあまりに観念的な」というタイトルの詩があるが、藤の詩は、観念を具体的な生活の場のことばで丁寧に丁寧に描いたものである。読みとばすと観念的に感じられるだろうが、ことばのひとつひとつがどんなふうに選ばれているかを意識して読めば、藤は具体的なものしか描いていないことがわかる。

コメント
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