「現代詩手帖」2月号に「ヨーロッパ詩人15人集」が掲載されている。そのうちの1篇コルネリユス・プラターリス「ミルクとトマト」(村田郁夫訳)。
五行目の「グラスの中の……」以後の肉感あふれる描写が美しい。ミルクになって女性の体の中をくぐり抜けるような感じがする。それも、女の体の内部を、手で、目で、舌で、なぞりながら通っていくような感じだ。
「彼女の眼は 欲求で輝くだろう」と詩人は書いているが、その目が欲求で輝くとしたら、彼女を見つめる彼の目が欲求で輝いているからだ。
私自身の目も、今、欲求で輝いているだろう。
この作品を読む人間のすべての目が欲求で輝くだろう。
この二行は、まるで、彼女は白いドレスを脱ぐだろう。格子縞のスカートを脱ぐだろう、というように読める。白いドレスと格子縞のスカートを履いている彼女ではなく、その下の白い肌、ミルクが内部を流れ、表面をトマトの汁が汚した白い肌がくっきり浮かび上がる。
書いていないからこそ、くっきりと見えるものがある。
*
一読して感動してしまったが、読み直して、うーんとうなってしまった。一行目の「あなた」に。
コルネリユス・プラターリスはリトアニアの詩人である。リトアニア語はまったく想像もつかないが、多くの言語と同じように動詞は主語を必要とするのだろう。「あなた」は原文にあることばだろう。だから訳出されていても、うなるようなことではないのかもしれない。驚くべきことではないのかもしれない。しかし、私は、うなり、考え込んでしまった。
日本語では「あなた」ということばは省略される。倒置法は別にして簡便に書くと「ミルク二壜、トマト二個、買っておいてね」が普通のメモである。リトアニア語では、しかし、「あなた」が必要になるらしい。
そして、この「あなた」の一語が、この詩では(少なくとも日本語で生活している私には)とても強烈に響く。「あなた」と呼びかけられることで、呼び覚まされる感覚がある。メモを残した女が肉体として浮かび上がってくる。「あなた」がなければ、抽象的というか、単なる用事を書き付けただけの備忘録のような感じになる。
「あなた」の一語によって女の肉体が浮かび上がってくるからこそ、つづく五行目以下の肉体の描写、夢想がよりリアリティーあふれるものになってくる。
翻訳の不思議さを感じた。
同時に、もしこの作品が誰か日本人の詩人によって書かれたとしたらどんな感じになるだろうかとも思った。
視線の欲望という点からいえば、長谷川龍生に「瞠視慾」があり、鈴木志郎康にタイトルは失念したが遠くのビルでミルクを人を望遠鏡で見る詩がある。両方とも、「ミルクとトマト」のような感じではない。長谷川の作品も鈴木の作品も、対象が自己と密着しすぎて、なんだか息苦しい。
「あなた」ということばを含むコルネリユス・プラターリスの作品は、私がいてあなたがいるという存在の明確な区別があって、そこから交渉が始まるという楽しさがある。
彼女は書付を残した。あなた
買っておいてね ミルク二壜 トマト
二個 彼は 台所の椅子に腰掛け
読み終わって しばらく 夢想していた
グラスの中のミルクのなんと白いこと
彼女の顔の肌のように
クリーミーで 白い
それは唇をとおって胃に流れ込む
それから彼女は拭うだろう 真っ白な
ナプキンで トマトの方は
唇のように赤い その汁の
小川は 顎の大理石を流れるだろう
白い手のひらが それを遮るまで
(ジューシーなトマト!)
彼女の眼は 欲求で輝くだろう
彼女は 白いドレスを あるいは
格子縞のスカートを 履くだろう
彼は 絶対に買わなくてはいけない
ミルク二壜 二個の
トマトを
五行目の「グラスの中の……」以後の肉感あふれる描写が美しい。ミルクになって女性の体の中をくぐり抜けるような感じがする。それも、女の体の内部を、手で、目で、舌で、なぞりながら通っていくような感じだ。
「彼女の眼は 欲求で輝くだろう」と詩人は書いているが、その目が欲求で輝くとしたら、彼女を見つめる彼の目が欲求で輝いているからだ。
私自身の目も、今、欲求で輝いているだろう。
この作品を読む人間のすべての目が欲求で輝くだろう。
彼女は 白いドレスを あるいは
格子縞のスカートを 履くだろう
この二行は、まるで、彼女は白いドレスを脱ぐだろう。格子縞のスカートを脱ぐだろう、というように読める。白いドレスと格子縞のスカートを履いている彼女ではなく、その下の白い肌、ミルクが内部を流れ、表面をトマトの汁が汚した白い肌がくっきり浮かび上がる。
書いていないからこそ、くっきりと見えるものがある。
*
一読して感動してしまったが、読み直して、うーんとうなってしまった。一行目の「あなた」に。
コルネリユス・プラターリスはリトアニアの詩人である。リトアニア語はまったく想像もつかないが、多くの言語と同じように動詞は主語を必要とするのだろう。「あなた」は原文にあることばだろう。だから訳出されていても、うなるようなことではないのかもしれない。驚くべきことではないのかもしれない。しかし、私は、うなり、考え込んでしまった。
日本語では「あなた」ということばは省略される。倒置法は別にして簡便に書くと「ミルク二壜、トマト二個、買っておいてね」が普通のメモである。リトアニア語では、しかし、「あなた」が必要になるらしい。
そして、この「あなた」の一語が、この詩では(少なくとも日本語で生活している私には)とても強烈に響く。「あなた」と呼びかけられることで、呼び覚まされる感覚がある。メモを残した女が肉体として浮かび上がってくる。「あなた」がなければ、抽象的というか、単なる用事を書き付けただけの備忘録のような感じになる。
「あなた」の一語によって女の肉体が浮かび上がってくるからこそ、つづく五行目以下の肉体の描写、夢想がよりリアリティーあふれるものになってくる。
翻訳の不思議さを感じた。
同時に、もしこの作品が誰か日本人の詩人によって書かれたとしたらどんな感じになるだろうかとも思った。
視線の欲望という点からいえば、長谷川龍生に「瞠視慾」があり、鈴木志郎康にタイトルは失念したが遠くのビルでミルクを人を望遠鏡で見る詩がある。両方とも、「ミルクとトマト」のような感じではない。長谷川の作品も鈴木の作品も、対象が自己と密着しすぎて、なんだか息苦しい。
「あなた」ということばを含むコルネリユス・プラターリスの作品は、私がいてあなたがいるという存在の明確な区別があって、そこから交渉が始まるという楽しさがある。