詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

葉紀甫「わが砦」

2006-02-22 19:11:07 | 詩集
 「あんど」6号が葉紀甫の特集をしている。葉紀甫については『詩を読む詩をつかむ』(思潮社)に書いた。自在な精神の運動による緊張と緩和に彼の作品の特徴があると思う。

わが砦

平板な 金色(こんじき)の大太陽に背いて 武者たちが陰惨に帰つてくる。切り取られた首たちの口は頑固にしまらない。
凶暴な女たちは 殿の供で留守。
砦の闇にもくれんが匂う。隆々とした木組の士部屋は急な勾配の屋根を持ち 絞めつけた新縄が丸見えで美しい。あああ 新縄。土器(かわらけ)。
凶暴な女たちは 殿の供で留守。

 この作品には、2種類の「詩」がある。ひとつは「もくれん」に代表される「詩」。世界の非情さとしての「詩」。
 世界は私たちの(この作品では、敵を倒し、帰って来た武士たちの)思いとは関係なしに存在している。陰惨に帰って来ようが、意気揚々と帰って来ようが、「砦の奥にもくれんが匂う。」という事実にかわりはない。
 世界とは非情なものである----たぶん、これが葉の言語運動の基本的な出発点であると思う。
 世界、世界を構成するものは、人間の思いとは無関係に存在し、自己主張する。そして、その自己主張に耳を傾ける人間は陰惨な武者のなかにもいる。すべての人間が同じことを考えるわけではない。「凶暴な女たちは 殿の供で留守。」という一行が端的にそれを語っている。ひとはそれぞれ自分のしたいことをする。そして、世界はそのすべてを受け入れる。そのとき、どうしても相いれないものが噴出する。戦いから帰って来たときに武者が見る「もくれん」と、殿の供で留守にしているおんなたちが思い出す「もくれん」が同じではない。ふたりにとって「もくれん」は同じではないが、世界にとっては同じ「もくれん」である。
 「もくれん」が非情にも、武者と女たちを分断する。分断して、ただ非情なものとして世界に屹立する。このとき「詩」が立ち現れる。
 これは『詩を読む詩をつかむ』で主に書いたことである。

 もうひとつの「詩」。
 自在な精神による緊張と緩和。その印象はかわらない。それは、どこから生まれたのか。強靱な散文精神である。あるいは超スピードの散文精神である。
 散文は、ある出発点からことばを積み上げていく。
 葉のことばの運動では、その積み上げが乱れる。もっと正確にいえば、先に存在し、踏まえるべきことばの運動(散文)を、次のことばの運動(散文)が追い抜き、追い抜きざまに、先行することばを叩ききる。同時に、反撃にあい、返り血を浴び、追い抜いたはずのことば(散文)も叩ききられる。その結果、「断片」が噴出する。
 たとえば「新縄」。たとえば「土器」。「絞めつけた新縄が丸見えで美しい。」のあとに、もっと別な「新縄」の描写がありえたはずである。しかし、それは書かれない。「あああ 新縄。」そして、その断絶を抱えたまま「土器」ということばがつづく。「土器」はどこに存在するのか。どのような形をしているのか。そうしたことは一言も説明されない。散文であることを放棄している。放棄させられている。ここに、「詩」がある。

 「新縄」「土器」を「もくれん」と同じように世界の非情さの印と受け取ることはもちろんできるし、実際に世界の非情さをあらわしてるのだが、そのあらわれ方が違う。「新縄」は「あああ」と感嘆され、「土器」には、その簡単も省略されている。



 葉紀甫は入沢康夫と同時に語られることが多い。
 私の印象では、葉と入沢の散文には大きな違いがあると思う。
 その違いは、先に書いたことと重複するが、葉の散文が、常に先行する散文を追い抜いてゆき、そしてその追い抜きざまに世界の非情な断片を輝かせるのに対して、入沢の散文はそうではない。あくまで先行する散文を踏まえ、ふまえることによって少しずつ世界とずれてゆく。その「ずれ」のなかに「詩」を輝かせる。それは綿密な精神の持続である。緊張の持続である。
 葉はそうした持続よりも、分断と解放を好む。
 
 入沢の美が持続なの美なら、葉の美は分断の美、非情の美である。


コメント
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