武田肇『カッサシオン』(銅林社)を読む。
「公園の出しっぱなしの噴水のさみしさ」。この唐突な存在の出現が「詩」である。
武田の「詩」の特徴は、その唐突な存在の出現が唐突なまま屹立しないことである。噴水のさびしさはさびしさに耐えかねて、他のものへと侵入していく。水は「なみがしら」に。水は「呼気に」。そして「網膜」へ侵入すれば、作品には書かれていないが涙に侵入する。そこまで侵入してしまえば、感情だけではなく、肉体の内部の問題、本能にも侵入していく。「尿道」に侵入してしまえば、もうほとんど「性」に侵入したのと同じである。この場合、「性」は肉体の問題か、脳の問題か。どちらでもある。
こうしたことが起きるのは、絶対的他者が欠如しているからである。武田にとって他者(自己以外の存在)とは、自己とは無関係に存在している非情な存在ではない。いつでも武田の意識に染まり、武田の意識として存在するものにすぎない。
「公園の出しっぱなしの噴水のさみしさ」に、私は西脇順三郎を思い出してしまうが、それはことばの類似性にすぎない。西脇にとって、「かけす」も野に存在する無数の草も絶対的な他者である。自己の肉体とはけっして混じり合わない純粋音楽である。西脇のことばを攪乱する「音」(音楽)である。
武田の場合は、そうではない。
あらゆる存在は、武田にとって自己である。「公園の出しっぱなしの噴水のさみしさ」は、その水の輝きが、行方が、武田そのもの以外の何者でも有り得ないという「さみしさ」である。非情ではなく、同情のさみしさである。センチメンタルのさみしさと言い換えてもいいかもしれない。
「絶対的他者の欠如」は、あるいは「私は必ず複数である」ということと同義であると言い換えうるかもしれない。
投球フォームの少年と噴水の水。そのさみしさに一体化した武田は、「孤独にしている男」にも「吊りスカートの少女」にもたどりつく。武田は「男」にも「少女」にもなる。どれかひとつになるのではない。常に複数になる。たとえ「男」になったとしても、その意識の奥には必ず「少女」がいる。「少女」になったとしても必ず「男」がいる。それはつまり、少年が「男」になろうが「少女」になろうが、実は少年のままであるということでもある。
武田は「少年」であり「男」であり「少女」である。
引用部分に先立つ3行。
武田は、ことばを通じて武田自身を世界中に「分岐」するのである。その「経路」(このことばは最初に引用した行の直後に出てくる)が武田である。経路であるがゆえに、それはどこまでも拡大する。
拡大しながら「笑窪」のように誕生と消滅を繰り返す。(「笑窪は誕生と消滅を繰返す」40ページ)。その瞬間瞬間も「詩」には違いないが、その誕生と消滅に気を取られているとき、つまり一瞬、その存在を忘れてしまっているときも、なお拡大しようとうごめいている「分岐する経路」そのものが武田である。武田の「詩」である。
少年の(あし)のそとも しばらく(あし)
だ ためいきの(あし)がぬらす 公園の出
しっぱなしの噴水のさみしさ きっと(あし)
は少年のそとに出たいのだ 斜方形の図柄と
いう少年の断片をつらねてまでも(ひざ)の
なみがしらをたてる 投球のフォームは い
つか死のフォームだ 公園の垂直な午後の噴
き上げは さみしさを出しつづける少年の(あ
し)だ 水分が出て行く呼気であり まれに
網膜にも行く 眼球を動かし瞳孔を小さくす
る 少年の(あし)は体中を走る 昼を多量
に含んで硬い 尿道のように 少年の(あし)
は少年のうしろの物を見る知覚神経 (あし)
に(あし)が現れて (あし)全体に(あし)
のイメージを送る 明るい膝頭と暗い膝頭は
孤立している男に行く枝であり 吊りスカー
トの少女に行く枝でもある
「公園の出しっぱなしの噴水のさみしさ」。この唐突な存在の出現が「詩」である。
武田の「詩」の特徴は、その唐突な存在の出現が唐突なまま屹立しないことである。噴水のさびしさはさびしさに耐えかねて、他のものへと侵入していく。水は「なみがしら」に。水は「呼気に」。そして「網膜」へ侵入すれば、作品には書かれていないが涙に侵入する。そこまで侵入してしまえば、感情だけではなく、肉体の内部の問題、本能にも侵入していく。「尿道」に侵入してしまえば、もうほとんど「性」に侵入したのと同じである。この場合、「性」は肉体の問題か、脳の問題か。どちらでもある。
こうしたことが起きるのは、絶対的他者が欠如しているからである。武田にとって他者(自己以外の存在)とは、自己とは無関係に存在している非情な存在ではない。いつでも武田の意識に染まり、武田の意識として存在するものにすぎない。
「公園の出しっぱなしの噴水のさみしさ」に、私は西脇順三郎を思い出してしまうが、それはことばの類似性にすぎない。西脇にとって、「かけす」も野に存在する無数の草も絶対的な他者である。自己の肉体とはけっして混じり合わない純粋音楽である。西脇のことばを攪乱する「音」(音楽)である。
武田の場合は、そうではない。
あらゆる存在は、武田にとって自己である。「公園の出しっぱなしの噴水のさみしさ」は、その水の輝きが、行方が、武田そのもの以外の何者でも有り得ないという「さみしさ」である。非情ではなく、同情のさみしさである。センチメンタルのさみしさと言い換えてもいいかもしれない。
「絶対的他者の欠如」は、あるいは「私は必ず複数である」ということと同義であると言い換えうるかもしれない。
投球フォームの少年と噴水の水。そのさみしさに一体化した武田は、「孤独にしている男」にも「吊りスカートの少女」にもたどりつく。武田は「男」にも「少女」にもなる。どれかひとつになるのではない。常に複数になる。たとえ「男」になったとしても、その意識の奥には必ず「少女」がいる。「少女」になったとしても必ず「男」がいる。それはつまり、少年が「男」になろうが「少女」になろうが、実は少年のままであるということでもある。
武田は「少年」であり「男」であり「少女」である。
引用部分に先立つ3行。
わたしのまなざしが
未成熟な(あし)を包むその緊密な体型を
世界中に分岐する
武田は、ことばを通じて武田自身を世界中に「分岐」するのである。その「経路」(このことばは最初に引用した行の直後に出てくる)が武田である。経路であるがゆえに、それはどこまでも拡大する。
拡大しながら「笑窪」のように誕生と消滅を繰り返す。(「笑窪は誕生と消滅を繰返す」40ページ)。その瞬間瞬間も「詩」には違いないが、その誕生と消滅に気を取られているとき、つまり一瞬、その存在を忘れてしまっているときも、なお拡大しようとうごめいている「分岐する経路」そのものが武田である。武田の「詩」である。