詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

単騎、千里を走る

2006-02-11 20:29:46 | 映画
チャン・イーモー監督の「単騎、千里を走る」を見た。詩や小説ではないのだけれど、感想を書いておく。

中国でのシーンが美しい。特に高倉健が京劇役者の子供に会いに行ってからのシーンがすばらしい。人間も美しいが、風土がさらに美しい。まっすぐだ。
ひるがえって思い出すのだが日本の風景がつまらない。同じ作品とは思えない。

クレジットで気がついたのだが、日本のシーンはチャン・イーモーではなく、降旗康男
が監督をしている。

降旗康男の映像とチャン・イーモーの映像の違いは、風景を撮ったときにあらわれる。
北海道のシーン。高倉健が海に向かって立っている。荒波。そしてカモメ。近景と遠景があり、そこに遠近法がある。高倉健と彼の頭上を舞うカモメ。カモメがつくりだす近景。その向こうに海があり、その間に風が吹いている。
ところが中国では、そうではない。単に高倉健がつったっていて、まわり全部が単純に風景なのである。高倉健の存在の大きさ(小ささ)を比較するものなど何もない。カモメの不在が、単純に、高倉健を風土の中へ放り出す。高倉健と比較するものが何もないから、高倉健はただ自分で立っているしかない。そこから不思議な美しさが出てくる。

監督と風土というのは不思議な関係にある。
オーストラリア映画を最初に見たのは『誓い』だった。砂漠のシーンに驚いた。近景・中景・遠景という遠近感がない。いきなり地平線があるだけだ。ああ、そうか、これがオーストラリア人の見た風景か、と納得させられた。
日本は狭い。風土も狭ければ、心象も狭いのだろう。狭いから、近景・中景・遠景という遠近感を持ち込むことで「広がり」を確保しようとするのだろう。
ところが中国やオーストラリアではそんな面倒なことはしない。遠景をどーんと映して、それでおしまい。実際に広いのだから、わざわざ遠近法で世界を描き直す必要などないのだ。

この「遠近法」のありようは、人間関係を中心に見ていくと、もっとよくわかるかもしれない。
日本のシーンというか、高倉健と息子、息子の妻の関係は、かならず高倉健-息子の妻-息子という関係でやりとりされる。息子の妻を挟むことで高倉健と息子の間に「距離」(遠近)がつくりだされている。
中国のシーンでは、高倉健は通訳(息子の妻に相当するだろう)を挟まないことには何もできないのだが、この通訳が完璧ではないがゆえに、高倉健は直接ことばが通じない中国人と向き合い、ことばをこえて結びつくしかない。「遠近感」(距離)が消し去られ、直接的な接触をせざるを得ない。
特に、役者の子供と一緒に迷子になる場面では、ことばが通じないにもかかわらず、中国語と日本語でやりとりするしかない。そして、そのやりとりが、実は通訳をとおしたときよりもはるかに伝わるのだ。

「直接」ということが、この映画のひとつのテーマかもしれない。
日本では「間接的接触」によって人間関係のトラブルを回避する。ところが中国では直接的接触で問題を解決する。高倉健がいろんな人と接するけれど、それはそのつど直接的接触、直接的対話である。
日本ではかならず息子の妻を通して対話する。
このふたつの対話形式の違いは、中国でのやりとりが煩雑で複雑にもかかわらず最終的にすっきり、快感という印象で終わるのに対して、日本側での対話はもわーっとした感じ、最後の手紙ってほんとうに息子のことばかな、それとも息子の妻の願いかな、といういやーな印象しか残さないという大きな違いとなって噴き出してくる。

チャン・イーモー監督のファンとしては、ああ、チャン・イーモーが撮った北海道の海が見たかった、というしかない。

*

追加。
高倉健はすっかり老いぶれた。立ち姿がさまにならない。腰を中心にして「く」の字に体が曲がっている。
声はもともと悪かったが、さらに通りが悪くなっている。
一声、二姿、三顔というのは舞台役者のことだろうけれど、映画俳優も声がよくないと、見ていていらいらする。
コメント
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