橋本真理『羞明(フォトフォビア)』(思潮社)を読む。抽象と具象のからみあいに困惑してしまう。タイトルにもなっている「羞明」。明るい恥ずかしさ、明るさの恥ずかしさ。どちらだろうか。意味がわからない。文字ひとつひとつの意味はわかるが、ふたつつながると意味がわからない。恥ずかしさも明るさも知っているはずなのに、二つかむすびつくとわからなくなる。わからないまま、何かを感じてしまう。これは橋本の詩にもいえることだ。
あかるさをおそれる
すでに抜き去られた孤独の血によって
立て替えられている朝の
なんというまばゆさ
知らないことばはない。しかし、なんのことを書いているのかさっぱりわからない。「朝の/なんというまばゆさ」について書いているのだろうか。
意味はわからないが、こころがひかれる。
「羞明」については最初に書いたが、「すでに抜き去られた孤独の血」というのも同じである。
似た行が途中にも出てくる。
母たちは連続模様を編みつづける
世界の凹面に裏糸を渡し
倦むことなく
複数になるために身を裂いた私たちの
なんという意志のまばゆさ
すでに抜き去られた孤独の血によって
手をとりあったまま 家々は昏睡し
夢の孤絶を死の共同と見まがうまで
息をふきかけてはしるす指文字
そして、こんどは、私の場合、まったくことばにひきつけられない。書き出しと同じ「まばゆさ」「すでに抜き去られた孤独の血」ということばに出会いながら、最初に感じたものとまったく違ったものを感じてしまう。
「まばゆさ」や「透明」(羞明の「明」は透明の「明」かもしれない)といったものが消えてしまっていると感じてしまう。奇妙に濁って見える。不透明に感じてしまう。何かが隠されていると感じてしまう。
たぶん「母たち」ということばが、不透明さを感じる理由かもしれない。「母たち」は「わたしたち」と橋本によって書き換えられている。「母」は「子供」を引き寄せる。「子供」がいて「母」である。その関係を、橋本は「複数になるために身を裂いた」ととらえているのだろうか。
女が男とセックスをする。それは「孤独の血」を捨てることである。セックスのときひとはひとりではない。そして、女は母と子供という複数になる。複数になった後、母と子供は別人であり、手を取り合うことはできても「夢」は「孤絶」(孤独)である、というのだろうか。
----どうも、頭で考えたことがらにすぎない。私が読み取ってしまうのは、私の頭が考えたことがらだが、それはどうにも不自然な感じである。
女が子供を産み、母になるのは「複数」になるため、複数を実感するためだろうか。
それはそれでもいいと思うけれど、どうも、その実感が橋本のことばから伝わって来ない。
いったい、橋本が感じた恥ずかしさの明るさ、明るさの恥ずかしさ、あるいは透明な恥ずかしさとは何なのだろうか。昨晩セックスをしました、ということ? そんなことは恥ずかしいことでもなんでもないと思う。
「結露の家」にも魅力的な行の展開がある。
立てかけたまな板の
きずだらけの急斜面に
布巾のように家系図を吊るすと
その乾きの遅い裏側では
かくれんぼのこどもが数年ごとに入れ替わり
部屋から部屋へ走り回って
どの引き出しからも
内緒の下着をつまみ出す
しかし、こうした展開も、それにつづくことばによって一気に濁ってしまう。不透明になってしまう。頭の中の世界に変わってしまう。
拭いてもすぐ曇る鏡の上で
軽すぎる余生の笹舟が浮かび
短い航路からはみ出す夢は
結露の家の
雫になってしたたり落ちる
「夢」。この単純なことばは「羞明」にも登場したが、何も語っていない。抽象にすぎない。具体性を欠いているために、不透明になって、世界を濁らせている。
「抽象」は誰に対しても開かれた世界のようであって、そうではない。それはそのことばを書いた人の「頭」のなかにしかない。頭蓋骨で隠されている。具象は、その人だけの世界のようであって、そうではない。具象につながる肉体が「共感」としていつもそばにある。
橋本のことばは肝心なところで肉体を欠いている。「頭」に逃げ込んでいる。逃げ込むことで肉体の何かを隠している、という印象を残す。
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橋本の詩集は10月の下旬に出たものである。いただいてから何か月もたつが、どうにも咀嚼しきれない。