詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ブレイクを読む(3)

2006-02-20 11:04:11 | 詩集
 「死の床。」正反対のものが出会う不思議さ。その瞬間の世界の活気。たとえば

このような夕べに、冷たい土がいのちを含んで息づき、

 死者を墓に葬る。そのとき冷たい土は息づく。その非情さに「詩」がある。

私は後(うし)ろを見る、後戻りの術(すべ)はない、死が私の後(あと)について来る、私は死の領土を歩いている、

 「死」は前方にあるのではない。後方からやってくる。これは前方には「死」ではなく「神」がいる、という意味である。したがって、ここでの「死」とは「地獄・煉獄」ということになる。

私が顔を塵(ちり)の中に伏せれば、墓が私を求めて口を開く、もし私が頭を上げれば、罪が外套のように私を包む!

 これらの行に共通するのはスピードである。ことばは最短距離を進む。そのとき「詩」が生き生きと駆けだす。


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橋本真理『羞明』

2006-02-20 10:39:33 | 詩集
 橋本真理『羞明(フォトフォビア)』(思潮社)を読む。抽象と具象のからみあいに困惑してしまう。タイトルにもなっている「羞明」。明るい恥ずかしさ、明るさの恥ずかしさ。どちらだろうか。意味がわからない。文字ひとつひとつの意味はわかるが、ふたつつながると意味がわからない。恥ずかしさも明るさも知っているはずなのに、二つかむすびつくとわからなくなる。わからないまま、何かを感じてしまう。これは橋本の詩にもいえることだ。

あかるさをおそれる
すでに抜き去られた孤独の血によって
立て替えられている朝の
なんというまばゆさ

 知らないことばはない。しかし、なんのことを書いているのかさっぱりわからない。「朝の/なんというまばゆさ」について書いているのだろうか。
 意味はわからないが、こころがひかれる。
 「羞明」については最初に書いたが、「すでに抜き去られた孤独の血」というのも同じである。
 似た行が途中にも出てくる。

母たちは連続模様を編みつづける
世界の凹面に裏糸を渡し
倦むことなく
複数になるために身を裂いた私たちの
なんという意志のまばゆさ
すでに抜き去られた孤独の血によって
手をとりあったまま 家々は昏睡し
夢の孤絶を死の共同と見まがうまで
息をふきかけてはしるす指文字

 そして、こんどは、私の場合、まったくことばにひきつけられない。書き出しと同じ「まばゆさ」「すでに抜き去られた孤独の血」ということばに出会いながら、最初に感じたものとまったく違ったものを感じてしまう。
 「まばゆさ」や「透明」(羞明の「明」は透明の「明」かもしれない)といったものが消えてしまっていると感じてしまう。奇妙に濁って見える。不透明に感じてしまう。何かが隠されていると感じてしまう。
 たぶん「母たち」ということばが、不透明さを感じる理由かもしれない。「母たち」は「わたしたち」と橋本によって書き換えられている。「母」は「子供」を引き寄せる。「子供」がいて「母」である。その関係を、橋本は「複数になるために身を裂いた」ととらえているのだろうか。
 女が男とセックスをする。それは「孤独の血」を捨てることである。セックスのときひとはひとりではない。そして、女は母と子供という複数になる。複数になった後、母と子供は別人であり、手を取り合うことはできても「夢」は「孤絶」(孤独)である、というのだろうか。
 ----どうも、頭で考えたことがらにすぎない。私が読み取ってしまうのは、私の頭が考えたことがらだが、それはどうにも不自然な感じである。
 女が子供を産み、母になるのは「複数」になるため、複数を実感するためだろうか。
 それはそれでもいいと思うけれど、どうも、その実感が橋本のことばから伝わって来ない。

 いったい、橋本が感じた恥ずかしさの明るさ、明るさの恥ずかしさ、あるいは透明な恥ずかしさとは何なのだろうか。昨晩セックスをしました、ということ? そんなことは恥ずかしいことでもなんでもないと思う。

 「結露の家」にも魅力的な行の展開がある。

立てかけたまな板の
きずだらけの急斜面に
布巾のように家系図を吊るすと
その乾きの遅い裏側では
かくれんぼのこどもが数年ごとに入れ替わり
部屋から部屋へ走り回って
どの引き出しからも
内緒の下着をつまみ出す

 しかし、こうした展開も、それにつづくことばによって一気に濁ってしまう。不透明になってしまう。頭の中の世界に変わってしまう。

拭いてもすぐ曇る鏡の上で
軽すぎる余生の笹舟が浮かび
短い航路からはみ出す夢は
結露の家の
雫になってしたたり落ちる

 「夢」。この単純なことばは「羞明」にも登場したが、何も語っていない。抽象にすぎない。具体性を欠いているために、不透明になって、世界を濁らせている。

 「抽象」は誰に対しても開かれた世界のようであって、そうではない。それはそのことばを書いた人の「頭」のなかにしかない。頭蓋骨で隠されている。具象は、その人だけの世界のようであって、そうではない。具象につながる肉体が「共感」としていつもそばにある。
 橋本のことばは肝心なところで肉体を欠いている。「頭」に逃げ込んでいる。逃げ込むことで肉体の何かを隠している、という印象を残す。



 橋本の詩集は10月の下旬に出たものである。いただいてから何か月もたつが、どうにも咀嚼しきれない。

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