詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

米田憲三歌集『ロシナンテの耳』再読(4)

2006-02-12 23:26:07 | 詩集
 米田の歌のドラマ性は、対象がドラマを内包するとき当然のことながら強くなる。「修那羅峠」を詠んだ「風化のとき」など。

刺客となり森さまよいてきしけもの泪目脂に凝らせて眠れる
飼い馴らすこと捨つること叶わずに棲まわす執心妬心の類も

 あるいはバタフライナイフで事件を起こした少年を詠んだ「梅雨明けず」。

鬱屈の思いあるいは持て余す少年か土手の草が隠しぬ
はじめての蛍よと指す葉の陰に炎ゆるとはいえぬさむきひとつ火

 そしてこれらの歌には「目脂」「執心妬心」「鬱屈」「隠しぬ」「陰」「さむき」「ひとつ」というような、それ自体で肉体に隠された精神(こころ)というもの、暗いものを暗示させることばが並ぶ。
 米田にとって、ドラマはどこかで暗い要素を内包したものかもしれない。

 ユーモラスな歌もたしかにある。

旅のこころ遊ばせ飾窓覗きゆく雨のベルケンひとつ傘にて

 これはしかし非常に少ない。

 のびやかだなあ、と感じさせる歌には不思議なことに少年少女が登場することが多い。その「少年」が他人ではなく、米田自身であっても。

われを抜けて野の草原に紛れたる少年のわれ 萌ゆる飛鳥野
男ことばも優しきひびき自転車の少女ら通学路の雨弾きゆく

 米田自身の職業が反映しているのかもしれない。


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坂田藤十郎襲名歌舞伎(博多座)

2006-02-12 20:51:29 | 詩集
1月28日「LA MAMA」で見た「メジャー・バーバラ」の感想を書いた。「メジャー・バーバラ」に対するニューヨークタイムズのレビューは「歌舞伎の影響」というようなことを書いていた。どこが歌舞伎だ、といいたくなるものだったが、何が違うといって、やはり声の鍛え方、肉体の鍛え方が違う。
芝居はやはり声、肉体が決め手だ。
「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」の政岡の一人芝居の部分、わが子を失った嘆き、悲しみ。その声がすばらしい。見ていて(聞いていて)、自分の声帯が反応するのがわかる。声にならない声、体の奥から込み上げる激情によって抑制を失った声が、喉に共鳴し、それが体全体へ広がっていく感じがする。
私たちは人間が苦しんでいる姿(様子)を見れば、それが自分の苦しみでもないのに、苦しみを感じてしまうが、そうしたことは声からも起きることである。声にも肉体があるのだ。
歌舞伎の動作(肉体的表現)はたいてい現実の肉体の動きよりもはるかにゆっくりしている。そのために、激情をスローモーションでみているような感じになる。これもまた不思議なものだ。素早く動くことも訓練が必要だろうが、ゆっくり動くにはもっと訓練が必要だろう。スローな動きは視覚から入ってきて、私の手足を無意識に動かす。
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