詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大谷良太『薄明行』

2006-02-14 20:53:16 | 詩集
 大谷良太『薄明行』(詩学社)を読む。

共産主義的言語

百万遍のミリオンで
短い煙草をくゆらせながら
ナカムラさんは
言ったのだった
新しい言語の構築が急務である と
そしてその言語こそ共産主義的言語である と
それから彼はゆっくりと
一番安い
ブレンドコーヒーを飲み干した
ナカムラさんの言っていることは
私には何のことだかさっぱり分からなかったし
それに「共産主義」なんて
新しいどころかもう時代遅れなんじゃないか
「共産主義的言語」となると
初めて聞かされる言葉ではあるが……
たいして興味も沸かなかったけれど
ナカムラさんの眼鏡の縁が
レンズの奥の目が、キラリと光る
こわいぞ、やけに自信たっぷりだ
きっと例の長い説明が待っているのだ
聞きたくないなー、だがもう遅い
もう蛇に睨まれてしまった
睨まれて身動きできなくなってしまった
自分は蛙と想像すると
尚更逃げられなくなる
口が思わず、
へーそれは何ですかと応えてしまう
慌てて水を飲む私
コップが汗をかいている
それはな、とナカムラさんが身を乗り出してくる
内心焦り、後悔する私

ナカムラさんは長い説明を始める時いつも
右手の人差し指を立てて
それはな、と言う癖があるのだ

 自分と他者をしっかりとみつめたいい詩だと思う。特に後半部分に出てくる「コップが汗をかいている」がすばらしい。この一行に「詩」がある。作品の内部をつらぬいている「詩間」(対話の論理の時間)をぱっと切り開いて「場」を構成する別の存在の「時間」を浮かび上がらせる。

 「コップが汗をかいている」という一行がなくても、この作品の論理上の意味はかわらない。しかし、この一行があるとないとでは作品の品格が違ってくる。
 世界には、私たちの思いとは無関係に存在しているものがある。コップが汗をかくのはどんな論議をしているかとは関係がない。ただ室温とコップの水との温度差に関係する。そうしたものが、今、ここに存在する。そして、それをみつめ、ことばにする。そのとき「詩」は立ち上がってくる。

 大谷は、自分以外の存在を急激に立ち上がらせ、その場を活性化することができる。場を一気に豊かにする視線を持っている。
 こうした冷徹な「詩」の視線があってこそ、最後の3行もくっきりと浮かび上がる。

*

 大谷は、彼が存在する場の、それまで彼自身がみつめていた存在とは別の存在を急に立ち上がらせ、場を「詩」に転換することがとても巧みだ。

路地みたいに細い道路の、夜 静かだけれど
時たま
どこかの家から小さく音楽が聞こえてくることもある 
     (「マンホールの上で立ち止まった」

昔、囮という字をとりこと読んでいた
     (「いちにち折り紙を折っていた」)

銀杏の黄色い葉っぱが地面で湿っていた
     (「冬になっていた」)

誰もいないグラウンド
息をしてみる、ふかーく
隅の方にボールがころがっている
     (「朝、散歩に出た」)

星空の下を自転車で家に帰るのだ
     (「厨房は昼のような明るさだ」)


私は目をつむる、野良の作業着にも
ゆっくりと雨はしみとおった
     (「昼、雨になる」)

オムライスを食べて帰った
     (「スクーターを買った」)

 一部を引用するだけでは「散文」にしか見えない。しかし、ここに「詩」がある。世界を一気に押し開くことばの力が輝いている。
 そして、この力のことを私は「巧みだ」と先に表現したが、しかし、これは技巧ではなく、冷徹な目が大谷にそなわっているということだ。
 ある場において、大谷は自分の時間、思想を点検する。同時に、そのとき自分の時間、思想とは無関係に存在するものがあることを冷徹に見抜いている。
 だからどんなときにもセンチメンタルにはならない。
 世界はセンチメンタルに閉じるのではなく、それまでの感情をふりきって突然に切り開かれる。

 すばらしい詩人に出会えたことに深く感謝したい。
コメント
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