長谷川龍生の「瞠視慾」。この詩は何度読んでもすばらしい。終着駅まで停車しない急行に売春婦と思われる女性が2人乗って来る。そのうちの1人が下痢の苦しみを訴えるが、他の1人は知らん顔をする。それを作者は見ている。(引用は思潮社「現代詩文庫18 長谷川龍生詩集」から)
「ふたつ目の」から「肩をふるわし」は作者がみつめている女性の姿である。客観描写である。(「女を通過した」は、客観描写とはいえないが、これについては後で書く。)しかし、「下痢の状態を喰い止めていた。/大腸の中の汚物が音を立てて膨らんだ。」は客観描写ではない。女性の体の中でどんな変化が起きているか、大腸の中で汚物が膨らんでいるかどうかわかるのは、それを実感している女性だけのはずである。しかし、人間には、なぜかそれがわかる。肉体がかってに理解してしまうものがある。
私たちには下痢の体験がある。しかし、私たちは自分が下痢のとき、どんな顔をして苦しんでいるか鏡で確かめたことはない。(少なくとも私はない。)肛門に力をいれて苦しんでいる姿を鏡で確かめたことはない。それなのに、他者が苦しむ姿を見て、その表情や姿勢から、他者の肉体の状態を理解してしまう。
この不思議な共感力。
長谷川の詩がすばらしいのは、そうした共感したもの、肉体の苦悩を共感しながら、その苦しみを自己のものにしてしまわないことである。というか、共感してしまったために、それを超越してしまうことにある。
同情ではなく「殺意」。
それは「苦悩」が単に苦悩ではなく、一瞬にして「快楽」(オルガスムス----自己がそれまでの自己を忘れてしまう状態)にかわることを私たちの肉体が知っているからでもある。
下痢に苦しむ女性をみつめる長谷川は長谷川のままである。それなのに女性は、女性の自己を忘れ去り、オルガスムスの状態にいる。それに嫉妬し、殺意を感じる。殺意とは、他者がもっている命の高まりを奪い取ることである。
そこまで行ってしまう。そこに長谷川の凄味がある。この詩の絶対的な美しさがある。
他者の肉体に共感してしまったら、もう、自己は自己でいられない。長谷川はそれまでの長谷川でいられない。「殺人者」になってしまわなければならない。
もちろん、実際には殺人をおこなえないから、長谷川はことばの力で殺人者になるのだが。
そして、その作品を読む私たちも一緒に殺人者になるのだが。
*
そう読んできて、先に説明を省略した「(ふたつ目の駅が/さっと、)女を通過した」を読み返すと、長谷川のことばの力の凄さが際立つ。
「大腸の中の汚物が音を立てて膨らんだ」というようなことは肉体の症状であり、そうしたことは私たちの肉体は明確に記憶しているから、共感もしやすい。長谷川は、この共感力を肉体だけではなく、精神にまで押し広げている。
列車が駅を通過する。そのとき女性は「今、やっと二つ目が過ぎた」と感じる。その感じは、体のなか(女のなか、女そのもの)を駅が通りすぎていくような感じである。確かに列車に乗っていれば、私たちはそう感じるだろう。
そうしたことを長谷川は非常に短く「女を通過した」とだけ書いてしまう。この描写力、肉体と精神、感性を一掴みにして一気に把握してしまう力が、実は、この詩の凄味の端的にあらわれた部分である。
ここにこそ「詩」がある。
「殺意」「嫉妬」「オルガスムス」など、目を引くことばにではなく、読み落としてしまいそうなことばにこそ「詩」がある。
「女を通過した」ということばのなかに、すでに長谷川と女性との融合がある。読者にそれと気きづかせず、長谷川と女性はすでにひとつになっている。ひとつになったうえで、女性の表情を描写し、肉体の内部の変化を描写し、さらに「もう、外部の物は見えない」ではじまる連の、女性そのものの意識になっていく。
三島由紀夫は「文章読本」のなかであったと思うが、森鴎外の「寒山拾得」に触れ「水が来た。」という文章の凄さを指摘していたが、それに通じる凄さが「女を通過した」という短いことばのなかにある。
このことばがあってはじめて「殺意」へまでことばは疾走するのである。
ふたつ目の駅が
さっと、女を通過した。
絵が来してある目をつぶり
赤い唇をゆがめ、肩をふるわし
下痢の状態を喰い止めていた。
大腸の中の汚物が音を立てて膨らんだ。
排泄と、忍耐との二つの憎しみが
ラッシュアワーの中で
格闘している。
「ふたつ目の」から「肩をふるわし」は作者がみつめている女性の姿である。客観描写である。(「女を通過した」は、客観描写とはいえないが、これについては後で書く。)しかし、「下痢の状態を喰い止めていた。/大腸の中の汚物が音を立てて膨らんだ。」は客観描写ではない。女性の体の中でどんな変化が起きているか、大腸の中で汚物が膨らんでいるかどうかわかるのは、それを実感している女性だけのはずである。しかし、人間には、なぜかそれがわかる。肉体がかってに理解してしまうものがある。
私たちには下痢の体験がある。しかし、私たちは自分が下痢のとき、どんな顔をして苦しんでいるか鏡で確かめたことはない。(少なくとも私はない。)肛門に力をいれて苦しんでいる姿を鏡で確かめたことはない。それなのに、他者が苦しむ姿を見て、その表情や姿勢から、他者の肉体の状態を理解してしまう。
この不思議な共感力。
長谷川の詩がすばらしいのは、そうした共感したもの、肉体の苦悩を共感しながら、その苦しみを自己のものにしてしまわないことである。というか、共感してしまったために、それを超越してしまうことにある。
だが、女は歯をくいしばり
あらゆる神経を集めて
出口を防いだ。
もう、外部の物は見えない
すでに、急行車はレールの上を離れ
空間に、ふうわりと揺れていた。
断続的にけいれんがやってきて
夢のような失神に入った。
だらりと、だらしなく
オルガスムスになっている女の肉体に
ぎらぎらした嫉妬がわいてきた。
胸をかきむしり、ひきちぎり
殺意がおこってきた。
同情ではなく「殺意」。
それは「苦悩」が単に苦悩ではなく、一瞬にして「快楽」(オルガスムス----自己がそれまでの自己を忘れてしまう状態)にかわることを私たちの肉体が知っているからでもある。
下痢に苦しむ女性をみつめる長谷川は長谷川のままである。それなのに女性は、女性の自己を忘れ去り、オルガスムスの状態にいる。それに嫉妬し、殺意を感じる。殺意とは、他者がもっている命の高まりを奪い取ることである。
そこまで行ってしまう。そこに長谷川の凄味がある。この詩の絶対的な美しさがある。
他者の肉体に共感してしまったら、もう、自己は自己でいられない。長谷川はそれまでの長谷川でいられない。「殺人者」になってしまわなければならない。
もちろん、実際には殺人をおこなえないから、長谷川はことばの力で殺人者になるのだが。
そして、その作品を読む私たちも一緒に殺人者になるのだが。
*
そう読んできて、先に説明を省略した「(ふたつ目の駅が/さっと、)女を通過した」を読み返すと、長谷川のことばの力の凄さが際立つ。
「大腸の中の汚物が音を立てて膨らんだ」というようなことは肉体の症状であり、そうしたことは私たちの肉体は明確に記憶しているから、共感もしやすい。長谷川は、この共感力を肉体だけではなく、精神にまで押し広げている。
列車が駅を通過する。そのとき女性は「今、やっと二つ目が過ぎた」と感じる。その感じは、体のなか(女のなか、女そのもの)を駅が通りすぎていくような感じである。確かに列車に乗っていれば、私たちはそう感じるだろう。
そうしたことを長谷川は非常に短く「女を通過した」とだけ書いてしまう。この描写力、肉体と精神、感性を一掴みにして一気に把握してしまう力が、実は、この詩の凄味の端的にあらわれた部分である。
ここにこそ「詩」がある。
「殺意」「嫉妬」「オルガスムス」など、目を引くことばにではなく、読み落としてしまいそうなことばにこそ「詩」がある。
「女を通過した」ということばのなかに、すでに長谷川と女性との融合がある。読者にそれと気きづかせず、長谷川と女性はすでにひとつになっている。ひとつになったうえで、女性の表情を描写し、肉体の内部の変化を描写し、さらに「もう、外部の物は見えない」ではじまる連の、女性そのものの意識になっていく。
三島由紀夫は「文章読本」のなかであったと思うが、森鴎外の「寒山拾得」に触れ「水が来た。」という文章の凄さを指摘していたが、それに通じる凄さが「女を通過した」という短いことばのなかにある。
このことばがあってはじめて「殺意」へまでことばは疾走するのである。