詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

米田憲三歌集『ロシナンテの耳』再読(3)

2006-02-10 14:12:33 | 詩集
 米田はドラマを描く。

幾人のこころ殺めて果てし会か気付かずにきて遭う花吹雪

 「花吹雪」自体も何かドラマを感じさせるが、その背後に「人事」が描かれることで自然がドラマにかわる。あるいは人事と自然の取り合わせによって、その奥からドラマが立ち上がってくるというべきか。

憎悪かく育てているごと夜々を氷柱ま直ぐに太りて止まず
寒月に照らされて幽かにひかりいる氷柱鬼神の荒き牙めく

 氷柱を自然現象としてではなく、「憎悪」の膨張、「鬼神の荒き牙」と重ねることで、その奥から人間が立ち上がってくる。具体的には書かれなかった人間のドラマが立ち上がってくる。
 このとき氷柱は自然現象ではなく、精神の象徴になる。
 米田の歌には抽象的なことば、精神(こころ)を代弁するがしばしば入ってくるが、これは米田の歌が叙述の歌というより象徴としての歌だからだろう。
 詩に「象徴詩」という表現があるが、米田の歌は「象徴短歌」なのかもしれない。

鳥けものの声ひとつなく神苑の森が抱ける昼の昏みを
西山に日の没りてより峡の村 墨溶かすごと闇領じくる

 「昼の昏み」も「闇」も自然の描写であるよりも精神に染め上げられた何物か、つまり象徴である。

雪女ならずや明かり点さずに坂下りてくる女の雪の傘
胸に抱きしもの何ならむ女人ひとり雪の明念坂下りてくる

 「坂下りてくる」という語が「象徴」を念押ししている。米田の象徴には明るさよりも暗さがこもる。


コメント
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