詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

米田憲三歌集『ロシナンテの耳』再読(2)

2006-02-09 20:54:47 | 詩集
 米田の歌には精神(こころ)が強く打ち出されている。次の2首には「こころ」「魂」ということばが含まれる。

暫くを車窓に見えていし沼の雨季なれば昏くこころに沈む
老杉の暗き茂みゆ潜りくる魂よぶこえか山鳩のこえ

 この2首の場合、かならずしも「こころ」「魂」である必然性はないだろう。「暫くを」では「こころ」が省略された方がこころに深く沈んでくるような気がする。「老杉」も「魂」ではなく「ひと」あるいは「われ」の方が強く魂を感じさせるかもしれない。
 しかし米田は「こころ」「魂」と書かずにいられないのだと思う。そうしたことばを使わないときも、精神を強調するようなことばがつかわれる。たとえば

黄のひかり曳きつつ無心に葉を散らす銀杏樹孤高の明るさにいて
妖気纏いて歩むにあらずや明念坂下りてゆくに蝶狂い舞う

 「孤高」「狂い」----これもまた精神の状態をあらわすことばである。こうした強調ゆえに、米田の歌には何かことばの数が多いという印象が残る。
 「こころ」「魂」「孤高」「狂い」ということばではなく、こころの状態を指し示す「動詞」(動き)があれば、もっと強い響きに変わるのではないか、と短歌には無縁の私は思う。(狂う、は動詞だけれど。)

山峡の底ひに見しもののひとひらの古鏡に似しひかりもつ

 これは「暫くを」につづく歌だが、ここの歌の方が私には鮮明な印象がある。「昏く」の代わりに「ひかり」という語が選ばれているが、「昏く」よりももっと落ち着いた暗さを感じる。「古鏡に似しひかり」だからだけではなく「もつ」という動詞がことばを豊かにしていると思う。「沈む」という否定的な意味合いのある動詞に対して「もつ」という何か肯定的な印象をあたえる動詞が世界を豊かにしていると思う。

 同じようなことは次の2首についても言える。

くらき日を閉じ込めて寒き色ながら膨らみて闇の中なるさくら(「くらき」は原文は「木」の下に「日」という漢字)
暗やみに咲きて盛れる薄墨のさくらの散りぎわ美しからむ

 「膨らみて」と「散りぎわ」の違いが2首の歌を分けていると思う。前者には「美し」ということばはない。「閉じ込めて」「寒き色」と暗いイメージのことばがつづくが「膨らみて」の一語でとても華やかになっている。色っぽくなっている。豊かさがある。

*

 精神(こころ)をあらわすことばの強調。それは、精神の情景というより、精神のドラマを描こうとする姿勢が米田にあるからかもしれない。


くらき日を閉じ込めて寒き色ながら膨らみて闇の中なるさくら
暗やみに咲きて盛れる薄墨のさくらの散りぎわ美しからむ

 この2首はともに前半と後半が一種の対立の関係にある。「閉じ込める」と「膨らむ」「咲きて盛れる」と「散りぎわ」は一種の対立した状態である。ふたつの力が拮抗している。そこにドラマの予兆がある。

驟雨つづくなかきらめける稲妻をくらい記憶のように見ており(「くらい記憶」の「くらい」は「木」の下に「日」)

 「きらめける稲妻」と「くらい記憶」の対比、拮抗。そこにあるのは精神(こころ)のドラマである。
 「精神」(こころ)をあらわすことばの多用は、抒情の強調というより、精神のドラマをこそ書きたいと思っているからかもしれない。

幾人のこころ殺めて果てし会か気付かずにきて遭う花吹雪
数知れぬ女人の懺悔聴きてきし耳朶艶めけり閻魔の像の

 ここにあるのも精神のドラマである。

*

 そんなふうに、米田の歌にドラマを感じながら(そして、それが米田の歌の特徴に違いないと思いながら)、私は別の種類の歌に惹かれる。

母の死のひそやかにきし朝のこと思えば思い出せぬことのみ多し
熊と共に撃たれしひとりの血に染まる雪掻き消して雪無尽なる

 これはともにドラマの否定である。何もない。しかし、何もないからこそ、逆に何かが騒ぎだす。明白なドラマよりもドラマの否定の方が現代では劇的かもしれない。

新雪の積みてふくらむ丘いくつ重なりて女体のようなる豊かさ

 ここにも表立ったドラマはない。風景の描写に見える。しかし、その底にはやわらかにふくらむ女体を見てきた米田の隠されたドラマがある。語られないからこそ、それが魅力的に見える。







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