詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中庸介「冷房病のひとに」

2006-02-19 11:51:42 | 詩集
 田中庸介「冷房病のひとに」(「妃」13)を読む。

冷房病のひとに

日本はアジアの東のはずれだから
大変よいスープ麺を食べることができる
その紹介から始めよう

暑い外部の道路から小さな戸口を入れば
湯気のあがるL字のカウンターがあり
そこでひげのおじさんたちが働いています。

まず豆をベースにした塩味のたれを
背徳的なごった煮の汁で割ります

一方の鍋では水がぐらぐらと沸騰していて
麺のかたまりを小さなかごに投入してはゆでて行く

ゆであがった麺を丼にいれラフにほぐし、
つゆ、赤い肉、黄色い卵、黒い海藻、緑の小さな野菜とともに食べれば
体はその内部から十分にあたたまり、
決して夏負けしないのであります。

 食べるということは文化である。まずいものを食べて平気、というのは文化を知らないということだろう。
 田中は食べ物をおいしく描くことができる。これは文化である。
 最終連の2行目にはうっとりしてしまう。赤、黄、黒、緑、そして描かれていない「白」。いや、透明というべきかな? 麺はゆでると透明になる、あるいは透き通ったときがゆであがったとき。
 あまりの手際のよさに見落としてしまいがちだが、食事(料理)は、素材も大事だが、手際によって味が決まる。
 田中のことばはこびの手際はスピーディーで無駄がない。
 2連目の3行は、目の動きをそのまま端的に伝える。「L字のカウンター」「ひげのおじさん」という誰の目にもなじみのものをてきぱきと描いた後は、目で見えないものをちょっと混ぜて見せる3連目は田中特有の隠し味である。。視界を揺さぶっておいて、すぐにまた視界(視線)に戻る4連目。こうした素早い操作があるからこそ、最終連の色彩の祭りが生きてくる。
 あ、うどんを食べたい、と思ってしまう。

 同じ号の「蒲焼あります」も楽しい。
 2連目。

うなぎって気持ちをぼーっとさせる力がありますね。
重力っていうかまあ何というか、
うな重とうな丼の違いは何、たぶん、まあ、
容器が、

 このばかばかしいとしかいいようのない「定義」のなかに隠された「重力」という隠し味は、それこそ「重い」。「冷房病のひとに」の「背徳的なごった煮の汁」もそうだが、こうした「隠し味」を田中は決して説明しない。いわば秘伝の味である。なぜ説明しないかといえば、そういうものは説明を聞いて知るものではなく、横で見ていて「盗み取る」しかないものだからである。
 私は田中の熱心な読者ではなかったので、「隠し味」(秘伝の味)を盗み取るまでにいたっていない。
 ただ推測はしてみる。田中は「ひげのおじさん」というような平凡なことば、誰もが無意識に使っていることばで対象をきちんと把握する力をもっている。誰もがもっている無意識を「共感」の形で伝える力を持っている。その「共感する力」が説得力に変化している。
 「蒲焼あります」の次の行の展開の美しさ。思わず鰻屋を探しに行きたくなるではないか。

太陽は山椒のごとく
全身から香ばしい汗が流れていく
うなぎ屋の土間
暗い
ワイドショー
漫画本
スポーツ紙を
ぱたぱたと熾される
赤い光

 そして、そのうなぎ屋は誰でもが入れる気安いうなぎ屋である。

 気安さの共感。気取らない共感。その美しさ。
コメント
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