雪。私は雪が好きだ。だから雪を詠んだ詩も好きだ。
オヤールス・ヴァーツィエティス「きみは ぼくの腕の中で……」(黒澤歩訳、「現代詩手帖」3月号)。
雪と聞いて思い出すのは冷たさ、寒さだけではない。私は温かさをいつも思い出す。この詩は雪のあたたかさを描いている。
雪そのものがあたたかいわけではない。雪に触れると冷たい。そして、その冷たいと感じた瞬間に、私はふと肉体のあたたかさを思い出す。それは雪の冷たさを感じる私の手が、つめたさによって逆に熱くなるというような感覚ともつながるのだが、それだけではない。雪はひとをひっそりとさせる。ひっそりしたしたときに、たとえば同じ部屋(家)にいる人のぬくみが、そのひとから自然にふわーっと漂っているのを感じるような具合だ。そして、そのあたたかさは、いつでもやわらかい。ひとをやわらかくしてしまう。「もみの木の ふさふさとした枝に眠る雪のように」ということばも美しいが、「きょうは 部下もいないし 武器もなし」がひとのやわらかさに響く。「武器もなし」の「なし」という訳語が、また、すばらしい。「武器もない」では、あたたかさ、やわらかさがつた伝わらないと思う。「武器もなし」といいきったところに、詠嘆のような感情がふくまれており、その詠嘆が人間を誰かと結びついて存在するものでありながら、孤独で独立したものとして感じさせる。その孤独、独立が、むき出しの人間の、無防備な人間のあたたかさ、やわらかさを引き立てる。
雪。それは雪国では絶対的な権力である。誰も雪に歯向かえない。雪に対しては、ただそれが通りすぎるのを待つだけである。その自然の権力、自然の暴力の前では、人間は無防備である。
それゆえに、ひとは人間のあたたかさ、やわらかさに向かって、自然に手をのばするかもしれない。
これは次の詩も素敵だ。
「清らかに素直になろう」。それは、もっと無防備になって、人間のあたたかさ、やわらかさを出発点にしようという願いだろう。
*
「雪 きょうから……」を私は最初誤読していた。というか、「雪 きょうから ふたりで冬をはじめよう」という行に触れた瞬間、私は「ふたり」を「雪」と「私」と思い込んでしまった。「清らかに素直になろう」は「私」が私自身に対して呼びかけていることばだと信じてしまった。
ところが2連目、3連目と進むと、どうも様子が違う。「私」と「女」の「ふたり」らしい。
なぜ「ふたり」を「雪」と「私」と勘違いしたのか。そして、それはほんとうに勘違いなのか。
私は実はそれほど勘違いとは思っていない。「北への誘い」の1、2連目。
「北」を詩人は「存在の基盤」「羅針盤」と呼んでいるが、「北」を証明する「雪」もまた「存在の基盤」であり「羅針盤」に違いないと思う。
雪の前で純粋に一個の人間にもどる詩人。それがオヤールス・ヴァーツィエティスであると思って「詩選」の6編を読んだ。
オヤールス・ヴァーツィエティス「きみは ぼくの腕の中で……」(黒澤歩訳、「現代詩手帖」3月号)。
きみは ぼくの腕の中で……
きみは ぼくの腕の中で すやすやと眠る
もみの木の ふさふさとした枝に眠る雪のように
白い風は 森の隅に潜んでいる
きょうは きみを起こさぬように
なにも運ばず 白い曲がり道はしずか
歩く者もいない床板は 音もたてず
ミツバチのいない巣のように 演奏会場はひっそり
白髪の音楽家が ピアノの上で眠りこける
手もちぶさたに大将は タバコに火をつける
きょうは 部下もいないし 武器もなし
もみの木の ふさふさとした枝の中にいるように きみは
ぼくの腕の中で 雪のようにすやすやと眠る
雪と聞いて思い出すのは冷たさ、寒さだけではない。私は温かさをいつも思い出す。この詩は雪のあたたかさを描いている。
雪そのものがあたたかいわけではない。雪に触れると冷たい。そして、その冷たいと感じた瞬間に、私はふと肉体のあたたかさを思い出す。それは雪の冷たさを感じる私の手が、つめたさによって逆に熱くなるというような感覚ともつながるのだが、それだけではない。雪はひとをひっそりとさせる。ひっそりしたしたときに、たとえば同じ部屋(家)にいる人のぬくみが、そのひとから自然にふわーっと漂っているのを感じるような具合だ。そして、そのあたたかさは、いつでもやわらかい。ひとをやわらかくしてしまう。「もみの木の ふさふさとした枝に眠る雪のように」ということばも美しいが、「きょうは 部下もいないし 武器もなし」がひとのやわらかさに響く。「武器もなし」の「なし」という訳語が、また、すばらしい。「武器もない」では、あたたかさ、やわらかさがつた伝わらないと思う。「武器もなし」といいきったところに、詠嘆のような感情がふくまれており、その詠嘆が人間を誰かと結びついて存在するものでありながら、孤独で独立したものとして感じさせる。その孤独、独立が、むき出しの人間の、無防備な人間のあたたかさ、やわらかさを引き立てる。
雪。それは雪国では絶対的な権力である。誰も雪に歯向かえない。雪に対しては、ただそれが通りすぎるのを待つだけである。その自然の権力、自然の暴力の前では、人間は無防備である。
それゆえに、ひとは人間のあたたかさ、やわらかさに向かって、自然に手をのばするかもしれない。
これは次の詩も素敵だ。
雪 きょうから……
雪 きょうから ふたりで冬をはじめよう
夕暮れが遅く来ることを祈ろう
清らかに素直になろう
ふたりの間にある宿命的な距離に対して
雪 ふたりの間のすべては 白い霧の中でからみあい
手をとりあってあるく人生は 白くなめらかになるだろう
雪はすべての溝を埋めて ふたりの行く手を
なだらかにする だけど躓くこともあるだろう
雪 大地はもう 白いスカートで覆われている
窓辺に佇むふたり
清らかに素直になろう
「清らかに素直になろう」。それは、もっと無防備になって、人間のあたたかさ、やわらかさを出発点にしようという願いだろう。
*
「雪 きょうから……」を私は最初誤読していた。というか、「雪 きょうから ふたりで冬をはじめよう」という行に触れた瞬間、私は「ふたり」を「雪」と「私」と思い込んでしまった。「清らかに素直になろう」は「私」が私自身に対して呼びかけていることばだと信じてしまった。
ところが2連目、3連目と進むと、どうも様子が違う。「私」と「女」の「ふたり」らしい。
なぜ「ふたり」を「雪」と「私」と勘違いしたのか。そして、それはほんとうに勘違いなのか。
私は実はそれほど勘違いとは思っていない。「北への誘い」の1、2連目。
いったいどういうことだ?
北へ向かうことを望まないとは?
招きがあろうがなかろうが
子どもが
話すことを覚えたがらないとか
花が
咲くことを嫌がることがあるものか
そこには私のマンモスが
氷結し
そこには私の舵取り人が
かちんかちんに凍りついている
北へ行くのは旅でも
仕事でもない
北は羅針盤のような私の
存在の基盤なのだ
「北」を詩人は「存在の基盤」「羅針盤」と呼んでいるが、「北」を証明する「雪」もまた「存在の基盤」であり「羅針盤」に違いないと思う。
雪の前で純粋に一個の人間にもどる詩人。それがオヤールス・ヴァーツィエティスであると思って「詩選」の6編を読んだ。