詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「SPACE」66号

2006-02-26 14:57:24 | 詩集
「SPACE」66号を読む。

 片岡千歳「川を呑む」は川の上流をながめる作品。「川を呑みこんだ体を裏返し」という一行が新鮮で、思わず読み返してしまう。

川ヤナギにもやっている舟の舳先に腹ばって
水面に顔を近づけ
川上を見つめる

春の山にワラビを採りにいって
谷川の清水を呑むときに
岸の石に腹ばったように

舳先に体を平らに延ばして
川上を見つめる
日がないちにち川面を見つめる
ちびた片方だけの藁草履が流れてくるような
 ことはあったけれど
桃太郎の大きな桃が流れて来るわけでもない
いや
水は断えることなく流れて来るからには
桃太郎の大きな桃も流れて来るかも知れない
飽かずに
川上の水面に吸い付けられていた日があった
遠い日

やがて
川を呑みこんだ体を裏返し
背をのばし
立ち上がり
川下を眺める

 川を見つめる描写が肉体の記憶に裏付けられているので、「川を呑みこんだ体を裏返し」が身に迫る。とりわけ「川を呑みこんだ体」が私の肉体を揺さぶる。ああ、舟に腹這いになり、川上を眺めてみたい。流れて来る水をすべてのみこんでしまいたい、という気持ちになる。
 「桃太郎の大きな桃」によって、片岡が川とともにのみこんだものが、単に現実だけではなく、現実をささえている「夢」を含んでいたことがわかる。片岡は、そうやって人生のすべてをのみこんだ。
 人生をのみこんだ体を裏返し、とは、人生を自分のなかにはっきりと取り込んだあと、それまでの視線とは違った視線で世界を眺める、という意味になる。

やがて
川を呑みこんだ体を裏返し
背をのばし
立ち上がり
川下を眺める
私は川のほとりのこの村に
停まるべきか
行くべきか
深呼吸をひとつして
流れに問いかける

川は一切にかかわり合うことなく
ザワザワザワザワ
ザワザワザワザワ
私の体の中を流れていった

 川はもちろん何も応えない。それがいい、と思う。川はいつでも流れている。それがいい、と思う。



 南原充士「問いかけ」に、とても美しい3行がある。

びっしょりと寝汗のしみたシーツの耳に
ふと訪れる聴いたことのない旋律
(だれだろう あなたは?)

 シーツ(存在)と「私」の一体感、融合。シーツの耳はもちろん人間の耳ではないが、シーツの耳ということばによって肉体の耳が呼び覚まされる。寝汗のしみたシーツにぐったりと横たわり、肉体は、純粋な耳、耳そのものになってしまう。
 存在と肉体が融合し、聴覚(耳)という感性が独立して、世界を統一する。そこへ流れて来る旋律。その旋律が聴いたことがないのは、それが「私」の外部からやってくるものではなく、「私」自身の内部から生まれる旋律だからである。「私」の肉体が奏で始める、それまでにない音楽だからである。

びっしょりと寝汗のしみたシーツの耳に
ふと訪れる聴いたことのない旋律
(だれだろう あなたは?)

もうろうとした意識の向こうに
まぶしく輝きはじめるイルミネーション
(だれだろう わたしは?)

 (だれだろう あなたは?)という問いが(だれだろう わたしは?)にかわってしまう理由は、そこにある。たとえ「あなた」を希求しても、それは「わたし」が希求することによって姿をあらわした「あなた」である。
 自分の肉体から出発し、ことばを制御しながら思考する意志を感じた。



 大家正志「翻訳」は「ぼくはただ/肉体という物質性を失っている」という行を含む詩である。存在の物質性、それに対して「ぼく」はどう立ち会っていいのか思案している。その思案に乱れはない。しかし、これは当たり前である。肉体をうしなった思案というのは乱れようがない。乱れとは、物質と「ぼくの肉体」とが同一ではありえないのに、あるとき同一になったり(たとえば「川を呑みこんだ体)、逆に同一ではありえないのに同一性を感じてしまったり(たとえば「シーツの耳」)してしまい、それに対して、どうすればいいんだろう、どう向き合えばいいんだろうというわけのわからなさとなって、具体的にあらわれたものである。
 大家の作品のことばに乱れはない。無駄もない。しかし、それがかなり物足りない。

 私は詩人のことばにつまずき、詩人と一緒になって何かを考えたい。自分がいままで見逃してきたものについて、詩人のことばの力を借りながら考えたい。


コメント
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