詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フィオナ・サンプソン「つかの間の歴史」

2006-02-04 23:27:24 | 詩集
 「現代詩手帖」2月号の「英国女性詩人3人集」(熊谷ユリヤ編訳)。フィオナ・サンプソン「つかの間の歴史」に惹かれた。

翼のわななき。壊れた小鳥は
虚無と対峙する。それは窓ガラスに激突する
二つの肩の銃声。翼と、尾と、心臓とか
爆発する圧倒的な力。
強打と流血。削り取られた流血、再びの流血の
激痛、あるいは黒い羽の塊。

そのあと、あなたは小鳥を拾い上げる。
小鳥の目は、あなたの弱さに身を任せ切るかのように
封印されたまま。皺のある黄色い絹の目蓋。
嘴を染める血のまばゆさを見せ付けるために。
ガラスの質感で広がる静寂に逆らうかのように。
断末魔の翼をのばして、逝かせてやってください。

 昨日触れたコルネリユス・プラターリス「ミルクとトマト」と同様「あなた」ということばに強く惹かれた。
 何気なくつかっている代名詞だが「あなた」は親密感をあらわす。スペイン語にtutearという表現がある。(フランス語にも類似の表現がある。)英語にはそういう表現はないが、この作品の「あなた」はそうしたものだろう。つまり、私ではない目の前の誰かではなく、私と気が置けない関係にある誰か、肌と肌を接しても気にならない誰か、である。肉体としての誰かである。

 「あなた」は肉体をもった存在である。だからこそ、「小鳥の目は、あなたの弱さに身を任せ切るかのように」という表現が、「あなた」によって誘い出される。
 このとき「あなたの弱さ」とは精神・感情の弱さではない。「肉体の弱さ」である。

 人間の肉体は不思議である。頭脳(頭)では他人の痛みを拒絶できるのに、肉体は他人の痛みに接近すると、それを拒絶できない。肉体が反応してしまう。(長谷川龍生の「瞠視慾」など。)自分のものではないものを自分の苦悩として感じてしまう。他者の苦悩と私の苦悩は同一のものではないことは頭ではわかるが、肉体では分離して感じることができない。他人の表情、いびつな姿勢。そうしたものから肉体は一瞬のうちに他人の肉体の苦悩に感応し、共感してしまう。「私とは関係ない」と拒絶することができなくなる。
 相手が親密な人間ならば、その拒絶はいっそう困難になる。

 この「肉体の弱さ」こそが人間の大切にしなければならない「思想」に違いない。あらゆる関係は、そこから再び築き上げなければならない。

 肉体は、皺のある黄色い絹の目蓋に反応する。唇を染める血に反応する。それは小鳥のものにすぎないが、同じ命を生きる肉体として反応する。私たちに目蓋があり、嘴はないけれど唇があり、私たちの肉体の中に血が流れており、血が流れるときの痛み、悲しみを私たちは肉体として知っているからである。

 「あなた」という他者への接近、親密な接近が、その親密さそのまま「あなた」と「小鳥」を結びつける。男でも女でも兵士でもなく、そうした第三者をあらわすことばではなく、親密な誰かを呼び寄せる「あなた」ということばが、この詩のなかに生きている「肉体の思想」をくっきりと浮かび上がらせる。

コメント
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