たなかあきみつ訳ヨシフ・ブロツキイ「フィレンツェの十二月」(「ロシア文化通信GUN 群」35、2009年12月31日発行)
「改行」の意識--詩人に、「改行」の意識はどれくらい働いているだろうか。「改行」のとき、何を意識するだろうか。1行の独立か、次の行への飛躍か。翻訳の場合、それはどんなふうに反映されるのだろうか。日本語と外国語とでは、ことばの順序が違う。そこでは「改行」の意識は、当然違ってくるはずだ。だが、私は外国語がわからない。もし、対訳の形で原文が掲載されていても、たとえば、たなかあきみつ訳ヨシフ・ブロツキイ「フィレンツェの十二月」において、ロシア語の原文と日本語の訳のあいだに、どんな「改行」意識の違いがあるかわからない。
わからないから、私は、たなかあきみつ訳ヨシフ・ブロツキイ「フィレンツェの十二月」を「日本語」として読む。たなかあきみつのことばとして読む。
ドアは空気を吸いこみ蒸気を吐きだす。だが
おまえは当地には帰還しないだろう、そこでは二人ずつに分かれて
住民は水かさの減ったアルノ河をぶらつく。
新種の四足獣をほうふつさせながら。ドアは
ばたんばたんし、アスファルト道路にはけものらがお出まし。
じつに森っぽいなにかがこの年の圏内には
ある。これは美しい都市、
そこで一定年齢になるとおまえは人からさりげなく
視線をそらし襟をたてる。
1行1行の独立と、次の行への飛躍の距離(切断と接続の関係)は、たぶん切り離せない問題だろう。どちらに重点を置いて、そのことを語るかだけの違いかもしれないが、このたなかのことばを読んでいると、あるいは正確に「改行」システムを読んでいると、1行1行の独立した美しさが印象に残る。
ドアは空気を吸いこみ蒸気を吐きだす。だが
という1行は、ふたつの要素から成り立っている。ドアの描写と、「だが」という接続し。その接続詞は、当然、2行目と接続する。
ドアは空気を吸いこみ蒸気を吐きだす。だが
おまえは当地には帰還しないだろう、そこでは二人ずつに分かれて
と、2行にしてみると、その「2行」では意味がわからない。「ドアは空気を吸いこみ蒸気を吐きだす。だが」という1行だけのときは、ドアの姿が見えたが、2行目に接続して読むと、何が描かれていたのかさえわからなくなる。
そして、1行目について、私は最初「ドアの描写」と書いたが、それはほんとうにドアの描写だったのかさえ、あやしくなる。たしかに「ドアは」という日本語は「ドア」を主語にしている。けれど、私には、そのドアよりも、「空気を吸いこみ蒸気を吐きだす」ということばのなかにある「空気→蒸気」という変化が気になる。「空気」と「蒸気」こそ、詩人が書きたいものなのではないのか、という気がしてくる。
1行は1行として独立するだけではなく、その1行の中でも、ことばがひとつずつ独立し、拮抗し、動いている。--それが詩のスタイルだという印象が強くなる。
この印象は2行目でも深まる。
おまえは当地には帰還しないだろう、そこでは二人ずつに分かれて
この読点「、」で接続するふたつの文章は、どんな「意味」でつながっているのか、どんな「意味」を共有しているのか、これだけではさっぱりわからない。「おまえは当地には帰還しないだろう」という文章と、「そこでは二人ずつに分かれて」が拮抗している。それだけではなく、「意味」になるかことを拒絶している。読点「、」一個を媒介にすることで……。
この作品では「意味」が生まれる前のことばが描かれている。そう言いなおすことができる。
ここには、「意味」になるまえの、「もの」が「もの」として、ただことばになっている。「意味」に帰還せず、「もの」に帰還していくことば。それは「もの」から常に新しく出発するということかもしれない。何にも「意味づけ」されていない純粋な「もの」。そこから出発しなおすことは、とうぜん、いままでの「意味」を破壊し、ことばを宙ぶらりんにする仕事である。
たなかはブツツキイの仕事を、そういうものだと解釈して、日本語を動かしているように思える。
1行は1行として、何にも帰属しない。どこへも「帰還」しない。その印象が強くなるから、その1行のなかのことばもまた、どこへも帰属しないもの、帰還しないものとしてあらわれてくる。いや、1行の中にある「もの」は、それぞれ1行の中にある他のものに帰還したくない、帰属したくないと主張しているように見える。そして、その印象が1行をより独立したものとして浮かび上がらせるというべきなのか。
3行目も同じである。
住民は水かさの減ったアルノ河をぶらつく。
これは、学校教科書の文法(あるいは分析)どおりに考えれば、主語は「住民」であり、「述語」は「ぶらつく」。アルノ河は「場所」をあらわし、「水かさの減った」は「アルノ河」を修飾することばである。けれど、それはほんとうに、そんなふうに見える? つまり、住民が「主語」として、ほんとうに見える?
あ、私には、そんなふうにしては見えない。まず目に浮かぶのは見たこともないアルノ河である。見たことがないにもかかわらず、それに固有名詞があるというだけで、「住民」よりもくっきり見えてくる。さらに「水かさの減った」という状態と河の関係、その姿が見えてくる。何も知らないのに--知っているのは「水かさが減る」と河がどうなるかとうことだけなのに……。おそらく「水かさの減った」ということばが、1行を活性化させて、「主語」に「下克上」をもたらすのだ。学校教科書の分析では「住民」が主語になるが、1行のなかの印象では「アルノ河」が「主語」をのっとってしまうのだ。
「主語」がわからなくなる、ということは、また「述語」がわからなくなる、ということでもある。それでも、なぜか、そこに書かれていることにひきつけられる。
これは、どういうことだろう。
ことば、というか、文には「主語」があり、「述語」があり、その緊密な関係によって「意味」が形成されるのだけれど、その学校教科書の「文法」をつきやぶっていくものが、ことばそのもの、ことばとものとのあいだにはあるのかもしれない。そして、詩は、「意味」の関係を断ち切り、ことばを「意味」にそくばくされない状態へ帰還させるものなのかもしれない。
1行1行が独立するだけではなく、その1行の中でも、それぞれのことばが独立し、拮抗し、「意味」を破壊し、「もの」に帰還していく--そして、帰還した場所から、新たに出発する「もの」としての「ことば」。それが詩かもしれない。
ことばが「もの」にかわる、それが詩なのだ。「もの」としての手触りのあることばが詩なのだ。そこには「意味」はない。
視線をそらし襟をたてる。
「視線」がみえる。「そらす」という動きがみえる。「襟」がみえる。「たてる」ときの人間の動きがみえる。そして、そういうものがつくりだす、まだことばになっていないものが、「ことば」になろうとしているのを感じる。
そして、ここに書かれていることばの運動は、唐突な言い方になるが、「書きことば」だから成立しているように私には感じられる。
この詩を、たとえば朗読で聞いたとしたら(話しことば、声として聞いたら)、私は、1行1行のなかに、ことばが拮抗している。たがいのことばが「意味」を剥奪し合って「もの」になっているとは感じなかっただろう。
そういう意味では、「改行」システム--改行という詩の書き方のシステムが、詩のことばを特徴づける最初の一歩かもしれない。ごつごつ(?)とした改行によって、1行のなかのことばが覚醒する。「意味」であることを拒絶して、おのれじしんの「ことば」になろうとする。詩は、おのれじしんになったことばが勝手に動いていく運動なのだ、きっと。--と、点の根拠もないことなのだけれど、そんなことを考えた。感じた。
*
と書いたあとで、こんなことを書くのも変なんだけれど。……どうも、面倒くさいことを書いてしまったね。
簡単に、1行1行が独立していて、その1行のなかで、ひとつひとつのことばが独立している。その「ぶつぶつ感」が詩である。改行システムは、その「ぶつぶつ感」を引き立てるように働くとき、詩がいっそう魅力的になる。そう書けばよかったのかもしれない。たかなの訳は、たなかの意図かブロツキイのことばがそうなっていかるなのかわからないが、ことばのぶつぶつ感がとても刺激的な改行システムのなかで動いている。
整理しなおすと、そういうことなのかなあ。