詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(105 )

2010-02-10 16:54:33 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 西脇のことばは、いったい幾種類あるのだろう。いろいろな響きが楽しめるが、いなかの、ひなびた(?)感じの音も私にはとても魅力的に感じられる。そして、それを強調するような、遠い音の存在--その落差が楽しい。
 「留守」

十一月の末
都を去つて下総の庵(いおり)に来てみた
庵主様は留守だつた。
平安朝の黒い木像に
野辺の草木を飾るその草も
枯れていた
もはや生垣のむくげの花も散つて
田圃に降りる鷺もいない。
竹藪に榧(かや)の実がしきりに落ちる
アテネの女神に似た髪を結う
ノビラのおつかさんの
「なかさおはいりなせ--」という
言葉も未だ今日はきかない。

 「なかさおはいりなせ--」。なんでもないことばのようだが、この口語のふいの乱入が、すべてのことばを活気づかせる。2行目の「庵主様」というひなびた音と通い合うのだが、そういう口語、日本語のひなびた響きと「アテネ」という外国語が並列に置かれる。そこに西脇独特の「音楽」がある。
 西脇のことばは、一方で先へ先へと進む「意識の流れ」のようなものが主流だが、他方でその流れには常に平行して流れる伏流のようなものがある。それが、ふっとあらわれ、合流する。そのとき、その両方の流れが輝く。
 「アテネ」と「なかさおはいりなせ」では、ほんらい、その「基底」となる「文脈」が違うと思うが、つまり、ふつう、田舎の風景を描くとき、アテネというようなものは遠ざけられ、田舎の風景の文脈の中からことばが選ばれるのが基本的なことばの運動だと思うが、西脇にはこの「文脈」の意識がない。
 いや、それを、外してしまうことが西脇のことばの運動の基本なのだろう。
 違う文脈、ありえない文脈の出会い。そこで、「音」が活性化する。「アテネの女神」という「音」がなかったら、「なかさおはいりなせ」という音は、それまでの「音」に紛れ込んでしまう。「意味」になってしまう。
 「都」から離れた田舎、その風景。そこには草木だけではなく、「おつかさん」という人間さえもが風景になる。そういう固まった(固定化した)風景のなかでは、その「おつかさん」が「なかさおはいりなせ」といっても、それは風景にすぎない。
 それでは、詩にはならない。

 音がめざめる。そこから、ふたたび下総の風景へことばはかえっていくけれど、そのとき、ことばはもう「意味」ではない。純粋に「音楽」である。

秋霊はさまよつて
天はつき果てたようだ
ただ蒼白の眼(まなこ)に曇つてみえるのは
うす桃色の山あざみだ
何処の国の夕陽か
その色は不思議な力をもつている。
思わず手折る女つぽい考えは
咲いては散り、散つは咲く
このつきない花の色に
ひとり残されて
庵主の帰りを待つのだ。

 「思わず手折る女つぽい考えは」という1行の「意味」をどうとらえていいのか、私は考えないのだが、その行に繰り返される「お」の音の美しさ、そしてその音の繰り返しが次の「咲いては散り、散つは咲く」ということばの繰り返しにかわるときの「音」の不思議な動き--音は音に誘われて音を真似する(?)というのか、自然と「文体」をつくってしまう不思議さに、なぜか酔ってしまう。
 「このつきない花の色に」の「この」もとても気持ちがいい。「このつきない花の色」は「山あざみ」の色かもしれないが、「うす桃色」だけではなく、そういう具体的な「色」ではなく、「女つぽい」を含んだ「この」という感じが自然につたわってくる。うーん、それとも「ひとり残されて」が「女つぽい」のか「庵主の帰りを待つ」が「女つぽい」のかわからないけれど、「この」という音を中心にして、全体がひとつの「音楽」になる。そういう感じがする。



西脇順三郎コレクション〈第6巻〉随筆集
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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たなかあきみつ訳ヨシフ・ブロツキイ「フィレンツェの十二月」

2010-02-10 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
たなかあきみつ訳ヨシフ・ブロツキイ「フィレンツェの十二月」(「ロシア文化通信GUN 群」35、2009年12月31日発行)

 「改行」の意識--詩人に、「改行」の意識はどれくらい働いているだろうか。「改行」のとき、何を意識するだろうか。1行の独立か、次の行への飛躍か。翻訳の場合、それはどんなふうに反映されるのだろうか。日本語と外国語とでは、ことばの順序が違う。そこでは「改行」の意識は、当然違ってくるはずだ。だが、私は外国語がわからない。もし、対訳の形で原文が掲載されていても、たとえば、たなかあきみつ訳ヨシフ・ブロツキイ「フィレンツェの十二月」において、ロシア語の原文と日本語の訳のあいだに、どんな「改行」意識の違いがあるかわからない。
 わからないから、私は、たなかあきみつ訳ヨシフ・ブロツキイ「フィレンツェの十二月」を「日本語」として読む。たなかあきみつのことばとして読む。

ドアは空気を吸いこみ蒸気を吐きだす。だが
おまえは当地には帰還しないだろう、そこでは二人ずつに分かれて
住民は水かさの減ったアルノ河をぶらつく。
新種の四足獣をほうふつさせながら。ドアは
ばたんばたんし、アスファルト道路にはけものらがお出まし。
じつに森っぽいなにかがこの年の圏内には
ある。これは美しい都市、
そこで一定年齢になるとおまえは人からさりげなく
視線をそらし襟をたてる。

 1行1行の独立と、次の行への飛躍の距離(切断と接続の関係)は、たぶん切り離せない問題だろう。どちらに重点を置いて、そのことを語るかだけの違いかもしれないが、このたなかのことばを読んでいると、あるいは正確に「改行」システムを読んでいると、1行1行の独立した美しさが印象に残る。

ドアは空気を吸いこみ蒸気を吐きだす。だが

 という1行は、ふたつの要素から成り立っている。ドアの描写と、「だが」という接続し。その接続詞は、当然、2行目と接続する。

ドアは空気を吸いこみ蒸気を吐きだす。だが
おまえは当地には帰還しないだろう、そこでは二人ずつに分かれて

 と、2行にしてみると、その「2行」では意味がわからない。「ドアは空気を吸いこみ蒸気を吐きだす。だが」という1行だけのときは、ドアの姿が見えたが、2行目に接続して読むと、何が描かれていたのかさえわからなくなる。
 そして、1行目について、私は最初「ドアの描写」と書いたが、それはほんとうにドアの描写だったのかさえ、あやしくなる。たしかに「ドアは」という日本語は「ドア」を主語にしている。けれど、私には、そのドアよりも、「空気を吸いこみ蒸気を吐きだす」ということばのなかにある「空気→蒸気」という変化が気になる。「空気」と「蒸気」こそ、詩人が書きたいものなのではないのか、という気がしてくる。
 1行は1行として独立するだけではなく、その1行の中でも、ことばがひとつずつ独立し、拮抗し、動いている。--それが詩のスタイルだという印象が強くなる。
 この印象は2行目でも深まる。

おまえは当地には帰還しないだろう、そこでは二人ずつに分かれて

 この読点「、」で接続するふたつの文章は、どんな「意味」でつながっているのか、どんな「意味」を共有しているのか、これだけではさっぱりわからない。「おまえは当地には帰還しないだろう」という文章と、「そこでは二人ずつに分かれて」が拮抗している。それだけではなく、「意味」になるかことを拒絶している。読点「、」一個を媒介にすることで……。

 この作品では「意味」が生まれる前のことばが描かれている。そう言いなおすことができる。
 ここには、「意味」になるまえの、「もの」が「もの」として、ただことばになっている。「意味」に帰還せず、「もの」に帰還していくことば。それは「もの」から常に新しく出発するということかもしれない。何にも「意味づけ」されていない純粋な「もの」。そこから出発しなおすことは、とうぜん、いままでの「意味」を破壊し、ことばを宙ぶらりんにする仕事である。
 たなかはブツツキイの仕事を、そういうものだと解釈して、日本語を動かしているように思える。

 1行は1行として、何にも帰属しない。どこへも「帰還」しない。その印象が強くなるから、その1行のなかのことばもまた、どこへも帰属しないもの、帰還しないものとしてあらわれてくる。いや、1行の中にある「もの」は、それぞれ1行の中にある他のものに帰還したくない、帰属したくないと主張しているように見える。そして、その印象が1行をより独立したものとして浮かび上がらせるというべきなのか。
 3行目も同じである。

住民は水かさの減ったアルノ河をぶらつく。

 これは、学校教科書の文法(あるいは分析)どおりに考えれば、主語は「住民」であり、「述語」は「ぶらつく」。アルノ河は「場所」をあらわし、「水かさの減った」は「アルノ河」を修飾することばである。けれど、それはほんとうに、そんなふうに見える? つまり、住民が「主語」として、ほんとうに見える?
 あ、私には、そんなふうにしては見えない。まず目に浮かぶのは見たこともないアルノ河である。見たことがないにもかかわらず、それに固有名詞があるというだけで、「住民」よりもくっきり見えてくる。さらに「水かさの減った」という状態と河の関係、その姿が見えてくる。何も知らないのに--知っているのは「水かさが減る」と河がどうなるかとうことだけなのに……。おそらく「水かさの減った」ということばが、1行を活性化させて、「主語」に「下克上」をもたらすのだ。学校教科書の分析では「住民」が主語になるが、1行のなかの印象では「アルノ河」が「主語」をのっとってしまうのだ。

 「主語」がわからなくなる、ということは、また「述語」がわからなくなる、ということでもある。それでも、なぜか、そこに書かれていることにひきつけられる。
 これは、どういうことだろう。

 ことば、というか、文には「主語」があり、「述語」があり、その緊密な関係によって「意味」が形成されるのだけれど、その学校教科書の「文法」をつきやぶっていくものが、ことばそのもの、ことばとものとのあいだにはあるのかもしれない。そして、詩は、「意味」の関係を断ち切り、ことばを「意味」にそくばくされない状態へ帰還させるものなのかもしれない。
 1行1行が独立するだけではなく、その1行の中でも、それぞれのことばが独立し、拮抗し、「意味」を破壊し、「もの」に帰還していく--そして、帰還した場所から、新たに出発する「もの」としての「ことば」。それが詩かもしれない。
 ことばが「もの」にかわる、それが詩なのだ。「もの」としての手触りのあることばが詩なのだ。そこには「意味」はない。

視線をそらし襟をたてる。

 「視線」がみえる。「そらす」という動きがみえる。「襟」がみえる。「たてる」ときの人間の動きがみえる。そして、そういうものがつくりだす、まだことばになっていないものが、「ことば」になろうとしているのを感じる。

 そして、ここに書かれていることばの運動は、唐突な言い方になるが、「書きことば」だから成立しているように私には感じられる。
 この詩を、たとえば朗読で聞いたとしたら(話しことば、声として聞いたら)、私は、1行1行のなかに、ことばが拮抗している。たがいのことばが「意味」を剥奪し合って「もの」になっているとは感じなかっただろう。
 そういう意味では、「改行」システム--改行という詩の書き方のシステムが、詩のことばを特徴づける最初の一歩かもしれない。ごつごつ(?)とした改行によって、1行のなかのことばが覚醒する。「意味」であることを拒絶して、おのれじしんの「ことば」になろうとする。詩は、おのれじしんになったことばが勝手に動いていく運動なのだ、きっと。--と、点の根拠もないことなのだけれど、そんなことを考えた。感じた。



 と書いたあとで、こんなことを書くのも変なんだけれど。……どうも、面倒くさいことを書いてしまったね。
 簡単に、1行1行が独立していて、その1行のなかで、ひとつひとつのことばが独立している。その「ぶつぶつ感」が詩である。改行システムは、その「ぶつぶつ感」を引き立てるように働くとき、詩がいっそう魅力的になる。そう書けばよかったのかもしれない。たかなの訳は、たなかの意図かブロツキイのことばがそうなっていかるなのかわからないが、ことばのぶつぶつ感がとても刺激的な改行システムのなかで動いている。
 整理しなおすと、そういうことなのかなあ。







ピッツィカーレ―たなかあきみつ詩集
たなか あきみつ
ふらんす堂

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