「デッサン」は、私にはとりとめのない詩に感じられる。しかし、その書き出しはとても好きだ。
初めもない終りもない世界に
とりくむことはほねが折れる
どうして始めるかわからない。
何に対して「どうして始めるかわからない。」と書いたのかわからないが、私は、西脇がこの詩を書きはじめたことに対して、その感想を書いているのだ思った。
自分のしていることについて自分で感想を書く。書くということは、ことばを動かしてしまう。いや、ことばが動いてしまうと言うべきなのか。
旅からもどつてノートを整理する
ことは実にいやな角度と色彩を
もつていると思う。
書くということはことばを動かすこと。そして書くということは、思うことよりも「時間」がかかる。そうすると、その「時間」のあいだに(書いているあいだに、考えていることを書き終わるあいだに)、また考えが忍び込んでしまうことがある。
「旅からもどつてノートを整理することは実にいやなことである」、と書こうとするが、一気に書ける(考える、感じる)ことができるのは、「旅からもどつてノートを整理する」までである。そうする「ことは実にいやな」と書いているうちに、というか、書こうとしているうちに、「いやな」が「角度」と「色彩」の違いだということがわかってきて、それが紛れ込む。ノートを整理するとき、「視点」をかえなければならないというような大げさなことではなく、たとえば机に座っている。ぼんやり、何かを見ている。それをやめて、ノートを開く--ただそれだけでも、視界は変わる。それが「いや」のすべてだ。
一般的に、文章というのは、そんなふうにして文章を書いている途中に紛れ込んできた雑念(?)のようなものを省略しながら(除外しながら)、結論へむけてことばを動かしていくものである。けれど、西脇は、そういう直線的なことばの動かしかたをしない。
逆に、結論へむけてまっすぐに進もうとすることばを、破壊し、ねじまげてしまうもの、「ノイズ」のようなものをていねいにすくいながら、ことばを書きすすめる。
意識--結論へむけてというか、まあ、先へ先へと進もうとすることばの、その方向をねじまげてしまうもの、そこに「いのち」を感じているからだろう。(ねじ曲がった樹木に対する嗜好は、そういう思想の反映である。)あらゆるものは、ねじ曲がる。そのねじ曲がるという動きには、結論へむけて動くベクトルに対して、ふいに侵入してくる何かがあるからだ。
ノートは時間の混迷を避けることが
出来ない全く化石になつてしまつた。
春の次に冬が来たり、春がつづいてまた
春になることもある。
意識、時間は、分断されながらつづいていく。分断から分断へ、脱落もある。西脇は脱落を補おうとはしない。それは侵入を阻止しないのと同じである。
ことばに対して「矯正」をほどこさない--それが西脇の、ことばに対する基本的な姿勢だ。文脈を破壊するものがあるなら、その破壊する力の方に、いのちがある。破壊する力が弱ければ、そういう攻撃に対して、前へ進む力はまけたりはしない。侵入を拒絶して、ただ進むだろう。
純粋な、ことばそのものへの信頼が、西脇のことばを支えている。
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