詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(113 )

2010-02-25 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『第三の神話』の巻頭の詩。「猪」。その書き出しに驚く。

タビラコというのはギリシャ語では
なく大原の女のなまりだ。

 「タビラコ」は、「田平子」だろう。黄色い花をつける小さい草。でも、カタカナで書くと、うーん、何だろうと思う。「ギリシャ語」ということばが目に入ってくるので、外国語?とさえ思ってしまう。
 こういう部分からも、西脇は「絵画的詩人」というよりも「音楽的詩人」という印象が生まれる。西脇は「耳」で、というか、「音」で世界をとらえていたのだ。
 と、書いたあとで、私は矛盾したことも書く。
 この詩の不思議さは、書き出しの2行の、行のわたりにある。
 
「では/なく」
 
 2行目の行頭の「なく」が1行を読み終わらないうちに視界に入ってくる。そのことが、西脇のことばを活性化させている。
 「なく」は、「タビラコはギリシャ語で(あり、それ)は」○○という意味である、という具合に動いていく意識も、「タビラコはギリシャ語ではなく」○○語であるという文なろうとする意識も、一瞬のうちに否定してしまう。

 西脇はとても耳のいい詩人だと思うが、また、同時に視力も非常にいい詩人なのだと思う。「もの」を見る目というより、「文字」を見る目がいい。2行目の「なく」が無意識に与える影響を「肉眼」で知ってしまっていて、それを必然のようにして書き分けてしまうのだ。
 
 文字を読む視力は、詩をつづけて読むともっとはっきりする。

タビラコというのはギリシャ語では
なく大原の女のなまりだ。
タビラコは巡礼は小便を避くべきだ。
タビラコは女と飲む心の酒杯で
この聖杯をさがしに坂をのぼつた時は
もう暗かつた牧歌のような門をくぐり
石垣を上つて山腹の庭へ出てみた。

 「タビラコは巡礼は小便を避くべきだ。」というのは、「タビラコは仏の座ともいうので、巡礼はそれに小便をかけるようなこと、仏の座の咲いているところで小便などしてはいけない」くらいの「意味」なのかもしれない。
 けれど「田平子」ではなく「タビラコ」とカタカナで書かれているので、1行目の「ギリシャ語」と文字(表記)の上でつながり、「大原の女のなまりだ」と書かれているにもかかわらず、なんだか外国の何かを感じさせる。そして、それが「巡礼」と結びつくので、「タビラコ」っていったい何? という疑問がわいてくる。
 いいかえると、「タビラコ」の「意味」が固定されない。
 「田平子」では、きっと一気に「意味」が固定され、おもしろくなくなる。
 「意味」が固定されず、ことばがことばとして独立し、かってな連想を誘う(誤読を誘う)ものが詩だと私は信じているが、「意味の固定」を否定する、「意味」を破壊するということを、西脇は「視力」の力でもおこなっている。
 「では/なく」という不思議な表記の仕方が、それを耳ではなく、それを見てしまう目に影響を与え、その作用が意識全体を動かすのだ。

 このカタカナ表記と日本固有のものの出会い(タビラコ=田平子、ギリシャ語≠大原の女のなまり)の形は、最後まで、この詩を活性化させている。

山茶花の大木が曲つていた
花が咲いていてこわかつた
ペルシャ人のような帽子をかぶつて
黒いタビラコのような髭をはやした
男がこの庭を造つたのだゴトン
紫陽花のしげみから水車の女神が
石をたたいて猪を追う音がする

 シシおどしが、とても新しいもののように見えてくる。

続・幻影の人 西脇順三郎を語る

恒文社

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石山淳『邪悪な者』

2010-02-25 00:00:00 | 詩集
石山淳『邪悪な者』(編集工房ノア、2010年03月08日発行)

 石山淳はさまざまな詩を書いている。そのことばを貫いているのは何だろうか。「「のじぎく賞」考」という作品は、車のなかで練炭自殺を図った女性と、それを助けた人、その行為に対する「賞」について思いめぐらした詩である。助けた人(3人)行為は正しい、と書いた上で、石山はことばをすすめる。

だが、自殺を図った女性は
死の意思をもって 自己を消滅させようとてしていたのだ
個人の意思判断で 現実から開放されたいと願ったのであろう
それを悪徳な行為として 誰が追求することができよう
むしろ 個人の死の意志と自己開放への希いを
3女性は阻止し これを妨害したのではないだろうか

 ここに書かれていることは、あることがらを一方的に見つめるのではなく、複数の視点で見つめてみようとする姿勢である。「こと」を中心にして、複数の人間が向き合う。対峙する。そして、その対峙のなかで、石川自身のことばを鍛えていこうとする。
 これは、たんに石川自身のことばを鍛えるというよりも、他人のこころをくみ取り、他者の中の、まだことばにならないことばをすくい上げようとする姿勢へとつながって行く。
 「母の入院」。

五月の陽射しの爽やかな朝
「ちょっと 待って……」
よろよろしながら
母は 玄関出口で棒立ちになる
まるで見納めでもあるかのように
庭のチューリップや桜草、
樹木までもじっと眺めている

 「じっと眺めている」間、ことばは、ただ母の「肉体」のなかだけにある。それは、ただ母の「肉体」を描写することでしかすくい取ることができない。「ああ思っている、こう思っている」と勝手にことばにはできない。だから、そういうことは書かない。書かないけれど、その書かないことに、書くことが含まれる。
 そしてそこには、母のことばだけではなく、草花や樹木の「声」も含まれる。草花、樹木はもとよりことばをもたないけれど、彼らがことばをもたないからといって、そのとき母と草花、樹木とがしっかり向き合って、何事かの会話をしなかったということはない。向き合えば、その間に、ことばは動く。
 「じっと眺める」はきちんと向き合う、正確に「対峙する」という石川の姿勢が必然的にすくい上げた「人生の美」である。母の姿が美しいのは、そのためである。



 なにごとかと向き合う、対峙する。そのとき、その向き合ったものの間に、ことばを超えたことばが動く。そのことに通じる不思議な「現象」を石川は書き記している。「幻影の人」。西脇順三郎の『旅人かへらず』の詩を中心にして、いくつかのことばが向き合う。
 そのなかのひとつ。遠藤周作のことばと西脇のことばの「対峙」に石川は目をむけている。「3 無鹿」。遠藤の小説に『無鹿』というものがある。「初冬、宮崎県の延岡駅前からバスに乗って無鹿(むしか)でおりた。」この「無鹿」が、西脇の「人間の声の中へ/楽器の音が流れこむ/その瞬間は/秋のよろめき」という行とかよいあう。

これは西脇順三郎の詩集『旅人かえらず』の(略)
一一九であるが、小説の他の個所では<楽器の音(ムジカ)が流れこむ>と
無鹿の感情がルビにより現されていた。

 無鹿(むしか)、楽器の音(ムジカ、ミュージック)。この不思議な「音楽」。「意味」を超越して、「音」が響きあい、その響きのなかから、いままで存在しなかったものが突然噴出してくる。
 それを石山は、一瞬のうちに把握している。

遠藤周作の小説『無鹿』の書き出しはこうだ

 「初冬、宮崎県の延岡駅前からバスに乗って無鹿(むしか)でおりた。」

私は この地名に幻影の人を感じた
鹿ではない鹿
それは 神に仕える牡鹿だった

 「無鹿」が「鹿ではない鹿」なら、「幻影の人」は「人ではない人」であり、「ことばではないことば」は詩である。そして、それは「神に仕える」。人間にではないものに。そして、その「人間ではないもの」は、石川の「肉眼」には、人と人のあいだ、ある「こと」をとおして向き合う(対峙する)人と人の「あいだ」に、ふっと姿を現してくるものかもしれない。


 

石山淳詩集 (トレビ文庫)
石山 淳
日本図書刊行会

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