『第三の神話』の巻頭の詩。「猪」。その書き出しに驚く。
タビラコというのはギリシャ語では
なく大原の女のなまりだ。
「タビラコ」は、「田平子」だろう。黄色い花をつける小さい草。でも、カタカナで書くと、うーん、何だろうと思う。「ギリシャ語」ということばが目に入ってくるので、外国語?とさえ思ってしまう。
こういう部分からも、西脇は「絵画的詩人」というよりも「音楽的詩人」という印象が生まれる。西脇は「耳」で、というか、「音」で世界をとらえていたのだ。
と、書いたあとで、私は矛盾したことも書く。
この詩の不思議さは、書き出しの2行の、行のわたりにある。
「では/なく」
2行目の行頭の「なく」が1行を読み終わらないうちに視界に入ってくる。そのことが、西脇のことばを活性化させている。
「なく」は、「タビラコはギリシャ語で(あり、それ)は」○○という意味である、という具合に動いていく意識も、「タビラコはギリシャ語ではなく」○○語であるという文なろうとする意識も、一瞬のうちに否定してしまう。
西脇はとても耳のいい詩人だと思うが、また、同時に視力も非常にいい詩人なのだと思う。「もの」を見る目というより、「文字」を見る目がいい。2行目の「なく」が無意識に与える影響を「肉眼」で知ってしまっていて、それを必然のようにして書き分けてしまうのだ。
文字を読む視力は、詩をつづけて読むともっとはっきりする。
タビラコというのはギリシャ語では
なく大原の女のなまりだ。
タビラコは巡礼は小便を避くべきだ。
タビラコは女と飲む心の酒杯で
この聖杯をさがしに坂をのぼつた時は
もう暗かつた牧歌のような門をくぐり
石垣を上つて山腹の庭へ出てみた。
「タビラコは巡礼は小便を避くべきだ。」というのは、「タビラコは仏の座ともいうので、巡礼はそれに小便をかけるようなこと、仏の座の咲いているところで小便などしてはいけない」くらいの「意味」なのかもしれない。
けれど「田平子」ではなく「タビラコ」とカタカナで書かれているので、1行目の「ギリシャ語」と文字(表記)の上でつながり、「大原の女のなまりだ」と書かれているにもかかわらず、なんだか外国の何かを感じさせる。そして、それが「巡礼」と結びつくので、「タビラコ」っていったい何? という疑問がわいてくる。
いいかえると、「タビラコ」の「意味」が固定されない。
「田平子」では、きっと一気に「意味」が固定され、おもしろくなくなる。
「意味」が固定されず、ことばがことばとして独立し、かってな連想を誘う(誤読を誘う)ものが詩だと私は信じているが、「意味の固定」を否定する、「意味」を破壊するということを、西脇は「視力」の力でもおこなっている。
「では/なく」という不思議な表記の仕方が、それを耳ではなく、それを見てしまう目に影響を与え、その作用が意識全体を動かすのだ。
このカタカナ表記と日本固有のものの出会い(タビラコ=田平子、ギリシャ語≠大原の女のなまり)の形は、最後まで、この詩を活性化させている。
山茶花の大木が曲つていた
花が咲いていてこわかつた
ペルシャ人のような帽子をかぶつて
黒いタビラコのような髭をはやした
男がこの庭を造つたのだゴトン
紫陽花のしげみから水車の女神が
石をたたいて猪を追う音がする
シシおどしが、とても新しいもののように見えてくる。
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