ひとは、どんなふうに詩を読むのだろう。私はとてもいいかげんだ。ぱっとページを開いて、目に飛び込んできた部分を読むだけだ。ぱっと見えたことば--それが動く。あ、おもしろそう、と感じてもそのスピードや変化に私のからだがついていかないときがある。ある意味では、私はことばを読む、というより私自身の体調を読んでいるのかもしれない。
ほんとうは違う詩について書きたかったのだが、ふと目が「Ⅱ フェト・シャンペエトル」の「2」の部分で動かなくなった。
くぬぎの木によりかかつて考える時
初めて生存の根は深いのだ。
見えない世界にみみかたむけて
クワイの沈む水にも
みそさざいらしいものにも話が出来るのだ。
ポンタヴァンの木彫の女のように
可憐なしりを柔らかに突き出して
それから野原へとびこむのだ
西脇のことばはたいがい軽くて速いが、ここではゆったり動いている。(きょうの私は、どうやらゆっくり動きたいらしい。)その「ゆっくり」を強調しているのが、最後の行の「それから」である。「野原へとびこむ」と書いているけれど、まだまだとびこむ気配はない。ただ、そのことを思っている(だけ)という印象がある。それは、その前の行の「可憐なしりを柔らかに突き出して」の「柔らかに」とも響きあっている。
可憐なしりを柔らかに突き出して
うーん。「しり」は「可憐」なのかな? 「柔らか」なのかな? 学校教科書文法では「柔らかに」は「突き出して」にかかるのだろうけれど、私の「肉体」のなかでは、「柔らかに」はことばを逆戻りして「しり」を修飾する。
ことばが一気に前へ前へと進むのではなく、進んだようにみせかけて、実は陰で(?)そっと引き返す--そういうような運動があり、それが「それから」にも影響するのだ。「それから」といいながら、ちっとも前へは進まない「それから」。
そういうことは、現実にもある。
あれこれ考える時が、そうである。あれをして、これをして、「それから」あれもする。でも、実際には何もしないなあ。「それから」だけが時間のなかでたまっていく。それが「おり」(淀?)のようになって、ゆっくり広がる。
気をつけてのぞきこめば、そこには「私」が映っていたりする、かな?
詩の後半部分から書きはじめてしまったが、「考える」という行が1連目に出てくる。「考える」というのは、そんなふうに、どこへも行かずに(詩では、「木によりかたつて」と動かない姿が描かれている)、「それから」を増やすことなんだろうなあ。1連目に「それから」は書かれていないが、「それから」を補っててみると、この詩のゆったりしたスピードがよくわかる。
くぬぎの木によりかかつて考える時
初めて生存の根は深いのだ。
(それから)
見えない世界にみみかたむけて
(それから)
クワイの沈む水にも
(それから)
みそさざいらしいものにも話が出来るのだ。
「初めて生存の根は深いのだ。」と「見えない世界にみみかたむけて」のあいだには深い断絶がある。そのために句点「。」も書かれているのだが、無意識の「それから」はそういう深い断絶も、何もなかったかのようにつないでしまう。「生存の根は深い」などと、どこへも動いていけないことばを動かしてしまったあと、もう「それから」ということばでもつかわないことには、何も動かない。
「それから」はほんとうに次を必要とするのではなく、次の「思考」(思い、感情)がやってくるまで待っている時間なのだ。
「生存の根は深い」という「考え」は、いったんやめてしまう。
「それから」見えない世界に耳を傾ける。それは「見える世界」を「目」でみるのをやめて、「耳」で見るということだ。「目」を「肉耳」にする。あるいは「耳」を「肉眼」にする。そうすると、「頭」ではできなかったことができる。
たとえば、クワイ、みそさざいと会話することも、できる。
それは「頭」でする「会話」ではない。「頭」でできる会話ではない。「肉体」でなければできない会話である。そういう「肉体」になるために、「頭」は「それから」ということばのなかへ捨てなければならない。
1連目では書かれていないが、そこには「それから」がたくさんたまっている。それに気づいているから、西脇は2連目の最後に「それから」を書き残し、そうすることで、その「それから」という時間の中に「頭」を捨て去るのだ。
「頭」を捨て去って、女の可憐な、柔らかな尻になって、野にとびだすのだ。
そういう夢を見ている。ゆったりと。
最終講義西脇 順三郎,大内 兵衛,冲中 重雄,矢内原 忠雄,渡辺 一夫実業之日本社このアイテムの詳細を見る |