詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(101 )

2010-02-04 11:22:46 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 
 ひとは、どんなふうに詩を読むのだろう。私はとてもいいかげんだ。ぱっとページを開いて、目に飛び込んできた部分を読むだけだ。ぱっと見えたことば--それが動く。あ、おもしろそう、と感じてもそのスピードや変化に私のからだがついていかないときがある。ある意味では、私はことばを読む、というより私自身の体調を読んでいるのかもしれない。
 ほんとうは違う詩について書きたかったのだが、ふと目が「Ⅱ フェト・シャンペエトル」の「2」の部分で動かなくなった。

くぬぎの木によりかかつて考える時
初めて生存の根は深いのだ。
見えない世界にみみかたむけて
クワイの沈む水にも
みそさざいらしいものにも話が出来るのだ。

ポンタヴァンの木彫の女のように
可憐なしりを柔らかに突き出して
それから野原へとびこむのだ

 西脇のことばはたいがい軽くて速いが、ここではゆったり動いている。(きょうの私は、どうやらゆっくり動きたいらしい。)その「ゆっくり」を強調しているのが、最後の行の「それから」である。「野原へとびこむ」と書いているけれど、まだまだとびこむ気配はない。ただ、そのことを思っている(だけ)という印象がある。それは、その前の行の「可憐なしりを柔らかに突き出して」の「柔らかに」とも響きあっている。

可憐なしりを柔らかに突き出して

 うーん。「しり」は「可憐」なのかな? 「柔らか」なのかな? 学校教科書文法では「柔らかに」は「突き出して」にかかるのだろうけれど、私の「肉体」のなかでは、「柔らかに」はことばを逆戻りして「しり」を修飾する。
 ことばが一気に前へ前へと進むのではなく、進んだようにみせかけて、実は陰で(?)そっと引き返す--そういうような運動があり、それが「それから」にも影響するのだ。「それから」といいながら、ちっとも前へは進まない「それから」。
 そういうことは、現実にもある。
 あれこれ考える時が、そうである。あれをして、これをして、「それから」あれもする。でも、実際には何もしないなあ。「それから」だけが時間のなかでたまっていく。それが「おり」(淀?)のようになって、ゆっくり広がる。
 気をつけてのぞきこめば、そこには「私」が映っていたりする、かな?

 詩の後半部分から書きはじめてしまったが、「考える」という行が1連目に出てくる。「考える」というのは、そんなふうに、どこへも行かずに(詩では、「木によりかたつて」と動かない姿が描かれている)、「それから」を増やすことなんだろうなあ。1連目に「それから」は書かれていないが、「それから」を補っててみると、この詩のゆったりしたスピードがよくわかる。

くぬぎの木によりかかつて考える時
初めて生存の根は深いのだ。
(それから)
見えない世界にみみかたむけて
(それから)
クワイの沈む水にも
(それから)
みそさざいらしいものにも話が出来るのだ。

 「初めて生存の根は深いのだ。」と「見えない世界にみみかたむけて」のあいだには深い断絶がある。そのために句点「。」も書かれているのだが、無意識の「それから」はそういう深い断絶も、何もなかったかのようにつないでしまう。「生存の根は深い」などと、どこへも動いていけないことばを動かしてしまったあと、もう「それから」ということばでもつかわないことには、何も動かない。
 「それから」はほんとうに次を必要とするのではなく、次の「思考」(思い、感情)がやってくるまで待っている時間なのだ。
 「生存の根は深い」という「考え」は、いったんやめてしまう。
 「それから」見えない世界に耳を傾ける。それは「見える世界」を「目」でみるのをやめて、「耳」で見るということだ。「目」を「肉耳」にする。あるいは「耳」を「肉眼」にする。そうすると、「頭」ではできなかったことができる。
 たとえば、クワイ、みそさざいと会話することも、できる。
 それは「頭」でする「会話」ではない。「頭」でできる会話ではない。「肉体」でなければできない会話である。そういう「肉体」になるために、「頭」は「それから」ということばのなかへ捨てなければならない。

 1連目では書かれていないが、そこには「それから」がたくさんたまっている。それに気づいているから、西脇は2連目の最後に「それから」を書き残し、そうすることで、その「それから」という時間の中に「頭」を捨て去るのだ。
 「頭」を捨て去って、女の可憐な、柔らかな尻になって、野にとびだすのだ。

 そういう夢を見ている。ゆったりと。

最終講義
西脇 順三郎,大内 兵衛,冲中 重雄,矢内原 忠雄,渡辺 一夫
実業之日本社

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山口賀代子「はなれよ」、新井啓子「舟」

2010-02-04 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
山口賀代子「はなれよ」、新井啓子「舟」(「続左岸」33、2010年01月31日発行)

 ことばと「事実」はどういう関係にあるのだろう。「事実」があって、それをつたえることばがある。「もの」があって、それに「名前」がある、それがことば。普通はそう考えるのだと思う。一方に「もの」とか「事実」があり、他方に「ことば」がある。それは一対一の関係にある。あるいは、その一対一の関係があってこそ、世界が成立する、--そう考えるのだと思う。
 でも、ほんとうは違うかもしれない。
 山口賀代子「はなれよ」のなかほど。

そのむらでわたしはひとりのせいねんにであった そのとき こんどくるまでにといってあずけてきたものがある それはきおくだったかもしれないし みらいだったかもしれない そのなにかわからないふたしかてものをうけとると せいねんはわたしにきたくをうながし みたくなったらいつでもおいでと いったようなきがするが そのようなことはいわなかったかせしれない きてはいけない と いわれたようなきもするが あれはえいえんにきてはいけないということであったのか それとも くるにははやい と いういみであったのか

 ここには「事実」というものがない。「事実」というものが何なのかわからない。そして、ただことばだけがある。ことばが発せられるたびに、それらしい(?)事実が浮かび上がるが、すぐに次のことばでかき消される。
 「事実」があって「ことば」があるのではない。「ことば」があって「事実」を呼び出しているのだ。どこから? ことばが生まれる「場」からである。
 だが、ほんとうにそうか。
 ほんとうに「ことば」は「事実」を呼び出すのか。そうではなくて、「ことば」は「事実」を隠しているのかもしれない。「事実」と向き合ってしまうと、何か、とんでもないことが起きる。とんでもないこと、というのは「わたし」がわたしではないらなくなるようなことがらである。そういうことを避けるために、「事実」を隠す道具として「ことば」がつかわれている。
 もし、そうなら。
 普通に考えられていること、「事実」をつたえるためにことばがある、という定義は、まったくの嘘になる。
 なぜ、そんな嘘が必要なのか。

あれはえいえんにきてはいけないということであったのか それとも くるにははやい と いういみであったのか わからないまま おわれるようにやまをくだったが ほんとうは とおざかったのではなくすこしだけとおまわりをしながら いっぽ いっぽ はなれよにむかって あるいているのかもしれない

 離れることが近づくこと。ここにある矛盾。たぶん、ことばとは矛盾したものなのだ。必ず矛盾してしまうのだ。何事かをいうこと、ことばは何事かを隠してしまう。同時にふたつ(複数)のことを言えない。世界には「複数」のことがらが存在するが、それを同時にはつたえられない。
 「こころ」や「考え」になってしまうと、それはもっと複雑になる。それは「ひとつ」なのか「複数」なのかもわからない。「ひとつ」が複数に見えるのか、「複数」がひとつに見えるのか--そのことさえ、人間は知らない。
 それでも、ことばをつかう。
 言いたいことから離れていくのか、それともそれは近づいていくことになるのか。わかるのは、そういうことがらは、いつでも「それとも」を用意しているということである。「それとも」は「事実」をあばきながら「事実」を隠す。「事実」は「それとも」しかない、とでもいうように。

あれはえいえんにきてはいけないということであったのか それとも くるにははやい と いういみであったのか わからないまま

 わからないまま、どこまでことばを動かしていけるか。--山口が試みていることは、そういうことだと思う。この「わからないまま」、「それとも」の内部へ入っていくことばの運動は、とても魅力的である。ただ、山口の書いていることは、ちょっと短い。もっともっと長々と書いて、何が書きたかったのか、山口自身がわからなくなるまで動いていくと、ことばにもっと手触りが出てくると思う。その「手触り」が「事実」にかわってくると思う。



 新井啓子「舟」は「ことば」というかわりに、ほかの「もの」をつかって、どっちがほんとう? どっちが先? という世界を描き出す。夜を進む舟を描いているのだが、その3、4連目。

舟の中に積まれているのは 海を渡る鳥の風切り羽 飛
び疲れた鳥は 舳先にとまり羽を繕う くちばしで整え
られ すり抜けて 船主から船尾へ 重なり合って 羽
は舟に落ちる

鳥は闇の間で小さく身震いをする 白く明るい時の隙間
に 飛んでゆく支度をする 一本一本繕って するりと
羽を 落としてくると 自分の体温を確かめる 鳥は思
う 今夜はどこまで飛んで行けるのだろう

 詩のテーマ(主語?)は「舟」なのか「鳥」なのか、わからなくなる。というより、舟が鳥になり、鳥になることが舟であることなのだ、という「矛盾」をのせて、夜を進むことになる。「鳥」が舟を隠してしまうのか、隠されることで舟は舟でありつづけることができるのか。
 わからない。そして、わからないからこそ、それは詩なのだ、と私は思う。





詩集 海市
山口 賀代子
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水曜日
新井 啓子
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