ふと、思い出したことがある。「現代詩手帖」2009年10月号は、金子光晴と西脇順三郎の「特集」を組んでいた。西脇をめぐって、吉岡実、那珂太郎らが対談している。昔の対談の採録である。そのなかで、たしか那珂だったと思うのだが、「淋しい」というようなことばが頻繁に出てくるので、西脇の詩にびっくりしたと発言している。詩は「淋しい」を「淋しい」ということばをつかわずに書くもの--そう思っていたから、と。
あ、そうか。
でも、「淋しい」ということを「淋しい」ということばをつかわずに書くのは、その詩が「感情」を表現するものだからだろう。もし、西脇が「感情」を表現することを目的として詩を書いていなかったとしたら、つまり「淋しい」ということばの意味を、より繊細に、より深く、よりリアルに書こうとしていたのでなかったなら、「淋しい」は「淋しい」と書いてしまうだろうなあ。
那珂がびっくりしたのは、那珂自身が、無意識のうちに詩を「感情」を書くものと定義していたからだろう。「四季」の詩を読んできていたので、とも書いていたので、たぶん、そういうことなのだろう。
では、西脇は何を書こうとしていたのか。
「十月」に「叙事詩」ということばがあるが、西脇が心を動かしていたのは「抒情」に対してではなく「叙事」だったのかもしれない。
二十年ほど前は
まだコンクリートの堤防
を作らない人間がいた。
あのすさんだかたまつたシャヴァンヌの風景があつた。
ススキの藪の中に
キチガイ茄子のぶらさがる
あの多摩川のへりでくずれかけた
曲つた畑に
梨と葡萄を作つている男
の家に遊びに行つた。
地蜂の巣をとりに
牛肉を棒の先につけて
イモ畑をかけ出した
あの叙事詩。
「二十年前」と「いま」を比較して、物思いにふける。これは、「抒情詩」ということかもしれないが、ここに書かれているのは「作る」という人間の生きかたである。「作る」というとき、そこには「感情」があるかもしれないけれど、それは「作ったもの」のなかにこそある。作ったものが美しければ、それを作ったひとは美しい--という事実関係があるのであって、そのときの「感情」には、西脇はあまり配慮をしていない。
何を作ったか、何をしたか--それを書くのが叙事詩。西脇は「叙事詩」の流儀にしたがってことばを動かしている。
那珂のことばにしたがえば、つまり「淋しい」を「淋しい」ということばをつかわずに書くのが詩なら、「叙事詩」の場合も「叙事詩」ということばをつかわずに書くのがいいのかもしれないが……。
西脇がここで「叙事詩」ということばをつかったのには、理由がある。
「抒情」(感情)が、あらゆる人間に共通であるように、「叙事」も時間と場所を越えて、人間に共通のものだからである。--少なくとも、西脇は、「叙事」(物を作る、そしてそこに人間がいるという関係)はあらゆる時間、あらゆる場所に共通する「こと」と考えていた。感じていた。もし、西脇に「抒情」というものがあるとすれば、それは「ものを作る人間のこころ」である。それが一番重要な「感情」である。そして、そのときの「感情」というのは、「思い」ではなく、「工夫」である。
具体的に言えば、「地蜂の巣をとる」ために「牛肉を棒の先」につけるという「工夫」(蜂を引き寄せるための工夫)、それを担いで「かけ出す」という「工夫」。人間の実際の「肉体」の動き--肉体を動かすのが「感情」なのである。そして、そのときの「肉体の動き」が叙事なのである。
この「工夫」「肉体の動き」「肉体に刻印されるもの」は時間と場所を越える。この「叙事」の事実は、次のように展開される。
十月の末のころでその男の縁側で
すばらしい第三の男にあつたのだ。
彼は毎日肩のやぶれたシャツを着て
投網で魚をとるのだがその
顔はメディチのロレンゾの死面だ。
すばらしい灰色の漆喰である。
多摩川の近くに住む男。それがイタリアのメディチ家とつながる。時間も場所も違うが、人間の顔に刻印されたもの--その「肉体」が何をしてきたかが刻印しているもの。それが同じ。「感情」はどこかにあるかもしれない。しかし「感情」はどうでもいい。「毎日肩のやぶれたシャツを着て/投網で魚をとる」という「肉体」の「仕事」(肉体を動かしてするさまざまな工夫)、そしてそれが具体的になるとき、そこに詩がある。「抒情」ではなく「叙事」としての詩がある。
西脇は、あるところで詩とは「わざと」書くものだといっている。この「わざと」は「工夫」と同じである。人間の仕事もまた「わざと」するものである。「わざと」棒の先に牛肉をつてけ走る。それは地蜂を引き寄せる「工夫」である。「わざと」のなかに、人間のすることがらの「すべて」があるのだ。「思想」があるのだ。
西脇のこころは「叙事」がむすびつける時空を超えた「場」で遊ぶ。
彼は柿を調布のくず屋から買つてきた
剃刀でむいて食べた。
終りは困難である。
登戸のケヤキが見えなくなるまで
畑の中で
将棋をさして来た。
「感情」は語らない。けれど、「将棋」のようなルールに従って展開するゲームの中では、こまの動きに、そのひとが思っているあれこれが微妙な影を落とす。その、こまの動き、どう動かすかという「工夫」の、その「叙事」なのか美を、「抒情」と呼ぶことができるかもしれない。
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