詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(114 )

2010-02-26 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 ふと、思い出したことがある。「現代詩手帖」2009年10月号は、金子光晴と西脇順三郎の「特集」を組んでいた。西脇をめぐって、吉岡実、那珂太郎らが対談している。昔の対談の採録である。そのなかで、たしか那珂だったと思うのだが、「淋しい」というようなことばが頻繁に出てくるので、西脇の詩にびっくりしたと発言している。詩は「淋しい」を「淋しい」ということばをつかわずに書くもの--そう思っていたから、と。
 あ、そうか。
 でも、「淋しい」ということを「淋しい」ということばをつかわずに書くのは、その詩が「感情」を表現するものだからだろう。もし、西脇が「感情」を表現することを目的として詩を書いていなかったとしたら、つまり「淋しい」ということばの意味を、より繊細に、より深く、よりリアルに書こうとしていたのでなかったなら、「淋しい」は「淋しい」と書いてしまうだろうなあ。
 那珂がびっくりしたのは、那珂自身が、無意識のうちに詩を「感情」を書くものと定義していたからだろう。「四季」の詩を読んできていたので、とも書いていたので、たぶん、そういうことなのだろう。
 では、西脇は何を書こうとしていたのか。
 「十月」に「叙事詩」ということばがあるが、西脇が心を動かしていたのは「抒情」に対してではなく「叙事」だったのかもしれない。

二十年ほど前は
まだコンクリートの堤防
を作らない人間がいた。
あのすさんだかたまつたシャヴァンヌの風景があつた。
ススキの藪の中に
キチガイ茄子のぶらさがる
あの多摩川のへりでくずれかけた
曲つた畑に
梨と葡萄を作つている男
の家に遊びに行つた。
地蜂の巣をとりに
牛肉を棒の先につけて
イモ畑をかけ出した
あの叙事詩。

 「二十年前」と「いま」を比較して、物思いにふける。これは、「抒情詩」ということかもしれないが、ここに書かれているのは「作る」という人間の生きかたである。「作る」というとき、そこには「感情」があるかもしれないけれど、それは「作ったもの」のなかにこそある。作ったものが美しければ、それを作ったひとは美しい--という事実関係があるのであって、そのときの「感情」には、西脇はあまり配慮をしていない。
 何を作ったか、何をしたか--それを書くのが叙事詩。西脇は「叙事詩」の流儀にしたがってことばを動かしている。
 那珂のことばにしたがえば、つまり「淋しい」を「淋しい」ということばをつかわずに書くのが詩なら、「叙事詩」の場合も「叙事詩」ということばをつかわずに書くのがいいのかもしれないが……。
 西脇がここで「叙事詩」ということばをつかったのには、理由がある。
 「抒情」(感情)が、あらゆる人間に共通であるように、「叙事」も時間と場所を越えて、人間に共通のものだからである。--少なくとも、西脇は、「叙事」(物を作る、そしてそこに人間がいるという関係)はあらゆる時間、あらゆる場所に共通する「こと」と考えていた。感じていた。もし、西脇に「抒情」というものがあるとすれば、それは「ものを作る人間のこころ」である。それが一番重要な「感情」である。そして、そのときの「感情」というのは、「思い」ではなく、「工夫」である。
 具体的に言えば、「地蜂の巣をとる」ために「牛肉を棒の先」につけるという「工夫」(蜂を引き寄せるための工夫)、それを担いで「かけ出す」という「工夫」。人間の実際の「肉体」の動き--肉体を動かすのが「感情」なのである。そして、そのときの「肉体の動き」が叙事なのである。
 この「工夫」「肉体の動き」「肉体に刻印されるもの」は時間と場所を越える。この「叙事」の事実は、次のように展開される。

十月の末のころでその男の縁側で
すばらしい第三の男にあつたのだ。
彼は毎日肩のやぶれたシャツを着て
投網で魚をとるのだがその
顔はメディチのロレンゾの死面だ。
すばらしい灰色の漆喰である。

 多摩川の近くに住む男。それがイタリアのメディチ家とつながる。時間も場所も違うが、人間の顔に刻印されたもの--その「肉体」が何をしてきたかが刻印しているもの。それが同じ。「感情」はどこかにあるかもしれない。しかし「感情」はどうでもいい。「毎日肩のやぶれたシャツを着て/投網で魚をとる」という「肉体」の「仕事」(肉体を動かしてするさまざまな工夫)、そしてそれが具体的になるとき、そこに詩がある。「抒情」ではなく「叙事」としての詩がある。

 西脇は、あるところで詩とは「わざと」書くものだといっている。この「わざと」は「工夫」と同じである。人間の仕事もまた「わざと」するものである。「わざと」棒の先に牛肉をつてけ走る。それは地蜂を引き寄せる「工夫」である。「わざと」のなかに、人間のすることがらの「すべて」があるのだ。「思想」があるのだ。

 西脇のこころは「叙事」がむすびつける時空を超えた「場」で遊ぶ。

彼は柿を調布のくず屋から買つてきた
剃刀でむいて食べた。
終りは困難である。
登戸のケヤキが見えなくなるまで
畑の中で
将棋をさして来た。

 「感情」は語らない。けれど、「将棋」のようなルールに従って展開するゲームの中では、こまの動きに、そのひとが思っているあれこれが微妙な影を落とす。その、こまの動き、どう動かすかという「工夫」の、その「叙事」なのか美を、「抒情」と呼ぶことができるかもしれない。





西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店

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秋山基夫「黒い窓」

2010-02-26 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
秋山基夫「黒い窓」(「ペーパー」6、2010年02月01日発行)

 秋山基夫「黒い窓」は、まず「黒い窓」というタイトルの詩(?)があって、「「黒い窓」のための物語」、「参照文献及び若干のノート」という部分から構成されている。通俗的というか、「流通文学鑑賞」的に要約すれば、「物語」は秋山の体験した事実。「文献」は体験としての「物語」を濾過する装置。「物語」が「文献」によって整理、補強され、「黒い窓」という「詩」に昇華(?)する(される?)。
 「詩」の部分は、私にはあまりおもしろくない。

こりゃあ烏賊にも蛸にも陳腐な物言いで、恐れ入り谷の、聖戦完遂の、非常時の、時節柄もわきまえず、鬼子母神も顔負けの容姿物腰、弩派手な色と柄の長い袖を振りながら、艶やかにおチャラチャラを開始したではないですか。

 「烏賊にも蛸にも」というような、それこそ「陳腐」なことばが並んでいる。これは、Y氏(実は「吉田氏」と、「物語」で書かれている)が「チャラチャラチャラチャラ袖を振って」と言ったことばから、秋山が「妄想」を展開して広がった世界である。
--とは、「詩」と「物語」を総合的に読んで、私が判断したことであり、事実かどうかは知らない。
 こういう説明的な「詩」と「物語」のつながりも、おもしろくない。

 おもしろくない、おもしろくない、と書きながら感想を書いているのは……。

 「文献」の部分がおもしろいからである。そして、そのおもしろさというのは、私の勝手な「妄想」を許してくれるからである。秋山がなぜその文献を引用しているかということは、ほとんど関係がない。
 たとえば、先に引用した「聖戦」の部分と関係してくるのだと思うが、そこに高村光太郎の文章が引用されている。太平洋戦争中、詩の朗読がはやったらしい。そのことを高村は歓迎している。そして、秋山は、ていねいに高村光太郎の「説」を解説している。

高村はまず、①民族と詩とを一体と考えて、民族が動けば詩も動く、と考えている。そしていまみんそ句の精神が詩として発現しているのは、心強い、と言っている。次に、②詩の朗読によって、陶酔状態で詩と肉体的に合体するという。さらに、③「音響」によって詩は、淘汰し、洗練されるのだから、朗読の技法が大切である、といい、結論として、④この書をその指針にしなさい、という。

 「まず、①」「次に、②」「さらに、③」「結論として、④」という副詞(副詞節?)+番号という念の入った書き方が秋山のことばの特徴だけれど、いいよなあ、このことばの追い込み方。
 というところから、秋山の「妄想」ではなく、私の「妄想」(ことばの暴走--あ、妄想と暴走は韻を踏んでいるね)がはじまる。
 なぜ、私が秋山の詩がおもしろいかと感じるかというと、秋山の念押しの箇条書き、ていねいすぎる解説に、気持ちが半分(半分以上?)、秋山のことばから離れてしまい、秋山がていねいに書けば書くほど、なんというか、いいかげんに読んでも大丈夫、という気がしてくるからなのだ。私が「誤読」したって、また、そのうち、秋山は同じことを繰り返し書くに決まっている。だから、全部理解しなくていい、少しずつつまみ食いする感じで理解しておけば、なんとなく全体がわかるだろうと感じ、気楽に読めるからなのである。それは、変な言い方になるが、秋山の発することばへの「信頼」である。こんなふうに、ていねいにていねいに書く、ことばを動かすのが秋山である、という秋山への信頼と言い換えてもいい。
 ね、ことばへの信頼というのは、結局、その人への信頼でもあるよね。その人が信頼できれば、何をいっていてもそれを信じてしまう。そういう安心感があって、私の妄想ははじまる。

 で、私の妄想(ことばの暴走--誤読)というのは。
 ことばというのは、やっぱり「書かれてしまう」から暴走するんだなあ。「書きことば」だから暴走するんだなあ、ということである。高村光太郎は「朗読」を推奨しているのだけれど、その推奨は「書かれている」。「書きことば」として、そこにある。それを読んで、秋山は、「妄想」(正しい想像、と秋山はいうだろうけれど)している。
 秋山風に言えば、まず①高村のことばを書き写す。(引用する。)次に、②1文ずつ秋山のことばで書き直す。(解説する。)そして、③それに自分の感想を書きつらねる。(この部分は長くなるので引用しないが、私が引用した部分のあと、改行し、秋山は、あれこれと書いている。)
 書き写し、書き直す--これは、高村のことばが「書かれている」(書きことば)だからである。これが、講演や対話のように「声」のことばだったら、こういうことができない。先行することばを、自分のことばのスピードで反復しなおす余裕がない。
 あくまで、自分の「ことばの肉体」のスピードで反復しなおす。そこには「時間」の「差」というか、「ずれ」が生まれ、その「差」(ずれ)のなかへ、秋山自身のことばが入り込んで行く。「まず、①」「次に、②」「さらに、③」「結論として、④」というリズム、どこまでもどこまでも、読者が誤解しないようにと念をおしながら進む「ことば」の論理が侵入してくる。

 秋山の「思想」は、その「正確」への念おしなのである。(秋山への信頼というのは、秋山は常に「正確」をめざす、ということへの信頼である。)

 「詩」を書く。詩というものは、特に現代詩というものは、「難解」と決まっている。「難解」というのは、「誤読」のもとになる。「ことば」が正確につたわらないから、誤読されるのだ。だから、ほら、秋山は「詩」を、まず、①「物語」で解説する形で、そこに書かれていることを念おしする。次に、②「物語」でも書き切れなかったことを「文献」で補足し、さらに、③その「文献」に秋山自身の解説を書き加える。
 そうやって、「正確に」「正確に」「正確に」、「詩」という「いま」を、「過去」で説明しようとする。「詩」があるのは、「これこれの過去」があるから。そして、その「過去」は、さらなる「過去」で「これこれ」という具合に説明できる。どのことばもきちんと「裏付け」をもっている。「裏付け」というのは「意味」である。だから、「誤解(誤読)」しないでね、と秋山はいうのである。

 おかしいでしょ? 私は笑ってしまいますねえ。秋山を信頼できるといいながら「笑う」のはおかしいと思う人がいるかもしれないけれど、笑うというのは「安心」と同じことだからね。警戒していると、笑わない。信頼しているから、笑うことができる。

 秋山が高村光太郎のことばを書き写し、それについての思いを書くなら、私だって、秋山のことばを書き写し、それについて感想を書く。読むというのは、けっして消えないことばを反芻することであり、書くというのは、けっして消えないことばを残すということである。そして、その行為は、「朗読」(聞く)と違って、自分ひとりで、自分のペースでおこなえることである。
 そういうとき、人間というのは、自分の「過去」を(知っていることを)、どんどんほじくりながら、ああでもない、こうでもないと、ことばを動かす。
 書けば書くほど、「ノイズ」のようなものがあふれてくる。ノイズが互いのノイズを聞きながら、ああ、うるさい、とまた好き勝手にノイズを発する。
 でも、これが、私は詩だと思っている。
 「意味」が次々に解体していって、ぶつかりあう。それは秋山が最初に書いた「黒い窓」へはつながらない。「黒い窓」の形を次々に破壊していく。「黒い窓」がどんなことを書いてあったか忘れたけれど、私は、「まず、①」「次に、②」「さらに、③」「結論として、④」というリズムで増殖していくことばの運動忘れない。
 何が書いてあったか--それは、きっと忘れる。「黒い窓」と同様、「内容」は忘れてしまう。こういう、勝手気ままなことばの運動を許してくれることば--それが、私は大好きだ。





詩行論
秋山 基夫
思潮社

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