詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ナンシー・マイヤーズ監督「恋するベーカリー」(★★+★)

2010-02-20 23:52:37 | 映画


監督・脚本 ナンシー・マイヤーズ 出演 メリル・ストリープ、スティーブ・マーティン、アレック・ボールドウィン

 メリル・ストリープの芸達者ぶりだけが印象に残る。
 離婚して、セックスなしの生活が長くつづいていて、ひさしぶりに元の夫とセックスする。そして、突然、表情がいきいきする。その感じが、とてもいい。メリル・ストリープの店のスパニッシュの従業員が「カリエンテ」と言っている。英語で言えば「ホット」にあたる。私は語彙が足りないので「いきいき」と書いてしまったが、まあ、色っぽいの方がいいのかもしれない--けれど、ちょっと「色っぽい」ということばはつかいたくない。
 なぜかというと……。
 この「色っぽさ」を、ナンシー・マイヤーズは、男の視線ではなく、女の視線でとても巧みに描いている。(カリエンテは、男の視線、男の従業員のことばである。)
 メリル・ストリープは、まず、自分のしている不倫(?)を、主婦友達に話す。悩みを打ち明けるふりをして、自慢する。セックスによっていきいきとした感じがメリル・ストリープにもどってくるのだが、それは男にみせびらかすというか、男の歓心をひくためのものではないのだ。まず、女の友達と「共有」したい喜びなのだ。
 メリル・ストリープ、というか、メリル・ストリープに託したのナンシー・マイヤーズ「女性」の生き方--それは喜びの「共有」なのである。どんな喜びであっても、それは「共有」されなければならない。セックスは男と女の個人間の問題で、ふたりの間で共有されるもの--というのは、もしかすると、男の見方かもしれない、と、この映画を見ていると思ってしまう。
 メリル・ストリープとセックスしていきいきするというか、まるで子どもに帰ってしまう役をアレック・ボールドウィンが演じているが、彼にとってはセックスの喜びは、メリル・ストリープと共有できれば、ただそれだけでいい。ところが、メリル・ストリープは違うのだ。女は違うのだ。
 ふたりの態度を比較すると、ナンシー・マイヤーズの描きたかったことが鮮明になるだろう。
 メリル・ストリープは主友達に喜びを語り、精神科医にも相談のふりをして(実際に相談するのだけれど)、自分の喜びを語る。さすがに、彼女に言い寄ってくるスティーブ・マーティンに対しては、そのことを語れないが、ほんとうは語りたい。そこにメリル・ストリープのほんとうの「悩み」がある。
 喜びの共有--それは、また、セックスだけの問題だけではない。
 この映画には、人間が生きるための重要な要素として、セックス以外にもうひとつ、食べるということが描かれている。この食べることの喜び、いっしょに食べる、食べる喜びを共有する、それもまた人生を明るくするのである。
 アレック・ボールドウィンは、まあ、食べるだけの一方的な男で、ここにはナンシー・マイヤーズのきびしい「批判」が隠されている。それとは対照的に、スティーブ・マーティンはメリル・ストリープといっしょにチコレートクロワッサンをつくって食べる。食べ物をいっしょにつくり、いっしょに食べるという喜びを「共有」している。メリル・ストリープが簡単に(あるいは一方的に)アレック・ボールドウィンになびいてしまわないのは、こういう事情があるのだ。
 人生にはさまざまな喜びがある。そして、そのさまざまな喜びのうちには、男が喜びと認めていない(実感していない)ものもある。愛する人といっしょに料理し、それを食べるという喜びもそのひとつだろう。セックスは男と女との個人的なものだけれど、その個人のつながりからうまれる「家族」、その「家族」によって「共有」される喜び、それにもナンシー・マイヤーズは視線を注いでいる。
 メリル・ストリープとアレック・ボールドウィンの子ども、3人の子どもたちは、「家族」の喜びの「共有」について、きちんと語っている。

 あ、これはコメディーというには、ちょっと欲張りすぎた映画なのだ。ナンシー・マイヤーズの「思想」というか、いいたいことが前面にですぎた映画なのだ。そのために、笑いたいけれど、私なんかは、ちょっと笑えなかったなあ。
 ナンシー・マイヤーズにとって、絶対に撮らないといけない映画であることは、とてもよくわかったけれど。




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おおしろ建「爪・足の小指の場合」

2010-02-20 16:13:20 | 詩(雑誌・同人誌)
おおしろ建「爪・足の小指の場合」(「KANA」17、2009年10月30日発行)

 ことばが暴走する。
 いや、そうではなくて、想像力が暴走するのだ--という言い方があるかもしれない。
 けれども、ことばなしに、想像力は暴走しえないだろうと思う。
 おおしろ建「爪・足の小指の場合」は、足の爪を娘にからかわれた父親が「島の言い伝え」を思い出す詩である。

海岸で若者と犬は娘を巡って闘った 何日も海は血で染まった
ついに犬が勝った
犬は意気揚々と娘を引き連れ横穴に消えた
やがて子供が次々と産まれた
これがその島の創世記の話である
以来 島の人々は犬の子孫と呼ばれた
その証拠に今でも
足の小指の爪は犬の爪のままだという

むすめに言われて足の小指を見れば確かに
おかしな形で、犬の爪にそっくりである。
なぜか夕暮れともなれば、そわそわして出かけたくなり
挙げ句の果てには、夜の巷で遠吠えを繰り返している。

 「島の言い伝え」(ことば)は、ことばゆえに暴走する。「何日も海は血で染まった」というようなことば、ことばでしか存在しえない世界である。だれが、なんのために暴走させたのか、暴走させることで何をつたえたかったのか、何を隠したかったのか--何の説明もない。
 それが、いさぎよくていい。
 私がおもしろいと思うのは、その「言い伝え」の暴走のあとである。ことばが暴走したあと、それを批判するのではなく、暴走にのっかってしまう。暴走にのっかって、「これは私の暴走ではない。これは島の言い伝えである。私はそのことばを生きているだけだ」と開き直るようにして「犬の子孫」になり、「犬」そのものにもなってしまう。
 爪が犬の爪の形をしていたからといって、その人が犬であるわけではないのだが、爪が犬の形をしているからということを利用して「犬」になってしまう。

 「犬」は「比喩」であって「現実」ではない--と言う人がいるかもしれないが、そうではなく、「暴走」するいのちの中にあっては、「比喩」そのものが現実である。「比喩」を超越する現実はない。
 いま、ここを振り捨てて、自由になるために「比喩」を利用する。ことばを利用して、ことば以上に暴走する。いま、ここを超越するために、ことばがあるのだ。
 
 最後の2行は、明るくて楽しい。「ことば」をいいはじめたのは、私ではない--と開き直って、ことばを利用している「犬」になってしまい、まだ人間でいるしかない娘を笑っている。

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胡続冬「河のほとり」

2010-02-20 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
胡続冬「河のほとり」(「現代詩手帖」2010年02月号)

 胡続冬「河のほとり」はたいへん美しい詩である。感想を書くのを忘れてしまいそうなくらい、ただ、じーっと文字を追い、そしてまた最初からたどりなおしてしまう。
 いや、感想を書くのを忘れてしまうのではなく、書けない、といった方がいい。引用してみよう。自分の手で書き写せば、何か書けるようになるかもしれない。

僕はひとすじの河を抱いて一夜を明かした
僕たちがどうやって知り合ったのかは僕も忘れた
要するに そいつが岸に流れ着き
ふらふら通りを歩くうち エレベーターに飛び乗って
僕の部屋までやって来たのだ ひとすじの河は
鎖骨を持っており 緩やかな流れだったが
敏捷に泳ぐ魚が頭いっぱいに詰まっていた
一日中河で休んでも夜になると
やはり不眠症になる河が こんな風に
そっと僕に抱かれて 僕の話す千里も離れた海や
万里も向こうのひとの世の話に
聞き入っていたかと思うと みるみる そいつの
身体中の水滴が残らず眼を閉じた
そいつの頭のなかの魚が一匹残らず
星と同じくらいおとなしくなった 僕は
そいつのやわらかな波を握ったまま
昏々と幾世も眠った ふと目覚め
カーテンを開くと そのあでやかで
物憂い河が日の光のもと
恩愛に満ち流れるのが見えた

 いちばん印象的なのは「身体中の水滴が残らず目を閉じた」である。あ、と叫んでしまう。この1行を読んだ瞬間、ほかの行はどうでもよくなる。完全に忘れてしまう。「河」について書いてあったということくらいは覚えているが、そういうことが書いてあったということさえ、どうでもいい。
 河がある。そして、その河の水滴が残らず眼を閉じる。ここに詩がある。完全な詩がある。

 で、何が、その完全な詩、か。

 ああ、めんどうくさい。そんなこと、説明しないとわからないなら、説明したって、きっとわかりっこない。そう思ってしまう。
 見える? 河の水滴が眼を閉じるのが見える? 見えないなら、もう、これはあなたにとって詩ではない。ただ、それだけのことだ。河がある。河に水滴がある。その水滴の全部が眼を閉じる。そのときの、まつげ、まぶた、見えなくなる瞳--そのすべてが見える人だけのために書かれた詩である。
 詩のことばは、選ばれた「詩人」という人間にだけ、どこからともなくやってくる。そして、やっぱり「選ばれた読者」だけが、それを味わうのだ。
 --こんなことを書くと、「選民主義」だの「差別」だのと言われそうだが、そうとしかいいようがない。
 詩には「意味」などない。「事実」しかない。そして、詩は、だれにとっても「外国語」である。それぞれの「1か国語」である。翻訳は不可能。だから、そこに書かれていることばに震えるか、震えないか、それだけなのだ。

身体中の水滴が残らず眼を閉じた
そいつの頭のなかの魚が一匹残らず
星と同じくらいおとなしくなった

 この「比喩」。「星と同じくらいおとなしくなった」と書かれるときの魚の変化。「おとなしい」というのは、私にはどうでもいいことのように思える。「星と同じくらい」という言い方がすごい。星って「おとなしい」? ルルルルって流れない? なんて、ことを言ったってしようがない。「星と同じくらい美しい」とか「星と同じくらい遠い」とか「星と同じくらい小さい」とか--そういう「流通言語」を叩き壊している。見た目には「おとなしくなった」が「流通言語」を叩き壊しているかのように見えるけれど、ほんとうは「星と同じくらい」ということばが、そのことば自身の力で「流通言語」を叩き壊しているのだ。
 「星と同じくらい」ということばが、そのことば自身の力で--というのは、「星と同じくらい」ということば自身のなかに、そのことばが何かをひっぱってくる力を持っているということである。あるときは「美しい」、あるときは「遠い」、あるときは「小さい」ということばをひっぱってくる。そういう力で、今回は「おとなしい」(おとなしくなった)ということばをひっぱってきた。そして、それをひっぱってきて、結びつけた瞬間に「星と同じくらい」も「おとなしい」(おとなしくなった)も、同時に、完全に壊れてしまった。宙ぶらりんに、無意味になった。「星と同じくらいおとなしくなった」は何のことかわからないでしょ? わからないというのは「無意味」ということ。それは、「星と同じほど美しい」「星と同じほど遠い」「星と同じほど小さい」と比べてみればわかる。わからないものが「無意味」、わかるものが「意味」。
 そして、わからないもの、「無意味」にこそ、ことばのおもしろさ、詩がある。

 そうであるなら。

 「身体中の水滴が残らず眼を閉じた」という1行は、まったくわからない。そこには「無意味」しかない。あらゆる「意味」が破壊されている、ということになる。だから、詩なのだ。「無意味」であることによって、「完全な詩」になってしまっている。
 もう、だれにも、どうしようもない。
 そのまま、1行として、そこに存在させておくしかない。

 感想など、書く必要はない。書けないのは、書く必要がないからだ。完璧な詩は、いつでもそういうものだと思う。

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