監督・脚本 ナンシー・マイヤーズ 出演 メリル・ストリープ、スティーブ・マーティン、アレック・ボールドウィン
メリル・ストリープの芸達者ぶりだけが印象に残る。
離婚して、セックスなしの生活が長くつづいていて、ひさしぶりに元の夫とセックスする。そして、突然、表情がいきいきする。その感じが、とてもいい。メリル・ストリープの店のスパニッシュの従業員が「カリエンテ」と言っている。英語で言えば「ホット」にあたる。私は語彙が足りないので「いきいき」と書いてしまったが、まあ、色っぽいの方がいいのかもしれない--けれど、ちょっと「色っぽい」ということばはつかいたくない。
なぜかというと……。
この「色っぽさ」を、ナンシー・マイヤーズは、男の視線ではなく、女の視線でとても巧みに描いている。(カリエンテは、男の視線、男の従業員のことばである。)
メリル・ストリープは、まず、自分のしている不倫(?)を、主婦友達に話す。悩みを打ち明けるふりをして、自慢する。セックスによっていきいきとした感じがメリル・ストリープにもどってくるのだが、それは男にみせびらかすというか、男の歓心をひくためのものではないのだ。まず、女の友達と「共有」したい喜びなのだ。
メリル・ストリープ、というか、メリル・ストリープに託したのナンシー・マイヤーズ「女性」の生き方--それは喜びの「共有」なのである。どんな喜びであっても、それは「共有」されなければならない。セックスは男と女の個人間の問題で、ふたりの間で共有されるもの--というのは、もしかすると、男の見方かもしれない、と、この映画を見ていると思ってしまう。
メリル・ストリープとセックスしていきいきするというか、まるで子どもに帰ってしまう役をアレック・ボールドウィンが演じているが、彼にとってはセックスの喜びは、メリル・ストリープと共有できれば、ただそれだけでいい。ところが、メリル・ストリープは違うのだ。女は違うのだ。
ふたりの態度を比較すると、ナンシー・マイヤーズの描きたかったことが鮮明になるだろう。
メリル・ストリープは主友達に喜びを語り、精神科医にも相談のふりをして(実際に相談するのだけれど)、自分の喜びを語る。さすがに、彼女に言い寄ってくるスティーブ・マーティンに対しては、そのことを語れないが、ほんとうは語りたい。そこにメリル・ストリープのほんとうの「悩み」がある。
喜びの共有--それは、また、セックスだけの問題だけではない。
この映画には、人間が生きるための重要な要素として、セックス以外にもうひとつ、食べるということが描かれている。この食べることの喜び、いっしょに食べる、食べる喜びを共有する、それもまた人生を明るくするのである。
アレック・ボールドウィンは、まあ、食べるだけの一方的な男で、ここにはナンシー・マイヤーズのきびしい「批判」が隠されている。それとは対照的に、スティーブ・マーティンはメリル・ストリープといっしょにチコレートクロワッサンをつくって食べる。食べ物をいっしょにつくり、いっしょに食べるという喜びを「共有」している。メリル・ストリープが簡単に(あるいは一方的に)アレック・ボールドウィンになびいてしまわないのは、こういう事情があるのだ。
人生にはさまざまな喜びがある。そして、そのさまざまな喜びのうちには、男が喜びと認めていない(実感していない)ものもある。愛する人といっしょに料理し、それを食べるという喜びもそのひとつだろう。セックスは男と女との個人的なものだけれど、その個人のつながりからうまれる「家族」、その「家族」によって「共有」される喜び、それにもナンシー・マイヤーズは視線を注いでいる。
メリル・ストリープとアレック・ボールドウィンの子ども、3人の子どもたちは、「家族」の喜びの「共有」について、きちんと語っている。
あ、これはコメディーというには、ちょっと欲張りすぎた映画なのだ。ナンシー・マイヤーズの「思想」というか、いいたいことが前面にですぎた映画なのだ。そのために、笑いたいけれど、私なんかは、ちょっと笑えなかったなあ。
ナンシー・マイヤーズにとって、絶対に撮らないといけない映画であることは、とてもよくわかったけれど。
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