詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

デイヴィッド・リーン監督「戦場にかける橋」(★★★★★)

2010-02-16 19:09:04 | 午前十時の映画祭

監督 デイヴィッド・リーン 出演 ウィリアム・ホールデン、アレック・ギネス、早川雪洲

 デイヴィッド・リーンの特徴は映像の剛直な美しさにある。「戦場にかける橋」を最初に見たのは何年前だろう。30年以上前だ。リバイバル上映で、スクリーンに雨が降っていたが、緑の強烈な印象が残っている。あれは、どのシーンだったのか。それをもう一度見たかった。
 途中、橋を破壊にウィリアム・ホールデンたちがジャングルを進むシーン。地上から空を見上げる。黒沢明の「羅生門」のように、密集した葉のあいだから太陽が降る注ぐ。そのシーンにはっとしたが、見たかったのはそれとは別のシーンである。人間なんか(戦争なんか)関係ない――というような圧倒的な緑、その塊りがあったはず(見たはず)だが・・・。
 だが、なかなか、現れない。
 そして、橋の爆破が終わってしまう。映画が終わってしまう。その瞬間、頭の中に残っていた、あの緑がスクリーンからあふれてきた。橋は破壊され、列車は脱線、転覆、転落し、アレック・ギネスも早川雪洲も死んでしまっている。軍医がとぼとぼと歩く河原。カメラが引いて行き、ジャングルが姿をあらわす――その瞬間の驚き。
 驚き、というのは、「戦場にかける橋」の部隊がジャングルなのだからおかしいかもしれないが、私は、知っていても驚く。
 日本軍とイギリス軍の、軍人の精神論の対立、規律の確保、誇りの維持――そういう人間のドラマを見つづけていて、舞台がジャングルであることを忘れている。「主役」がジャングルであることを忘れていた。「主役」がジャングル――というのは、もし、そこにジャングルがなかったら、橋の建設そのものがないからでもある。進行を阻む、ジャングル、クワイ川――それがあってはじめて、そこに人間が登場し、労働する「意味」が生まれる。「主役」は人間であるより、ジャングルなのだ。
 デイヴィッド・リーンは、このジャングルを、ほんとうに美しく、完璧にスクリーンに定着させている。最初にこの映画を見た時そう思ったが、今回も同じ感想を持った。人間のしていることは、この絶対的な緑の前では、とてもささいなことだ。ジャングルの緑と太陽は、人間が展開する精神の愛憎劇など気にしない、鉄道建設も、破壊も、(緑の破壊さえも)、気にしていない。圧倒的な生命力で、すべてを飲み込んでゆくのだ。

 あ、緑について書きすぎただろうか。でも、やはりジャングルの緑があっての映画なのだ。
 どのシーンも、非常に剛直な美意識に貫かれている。構図が非常にかっちりしており、カメラのフレームのなかで役者がきっちり演じる。役柄もあるのだろうけれど、アレック・ギネス、早川雪洲は、肉体(言葉を含め、その動きそのもの)がしっかり屹立している。ウィリアム・ホールデンは対照的に、「自然」というか、だらしない力を具現していて、そのアンサンブルは、精神論と緑の対立のようで面白い。
 ジャングルの村でウィリアム・ホールデンが助けられるのは、彼が「精神論」の人間ではなく、「緑」の人間だからである。
 もし、ウィリアム・ホールデンがほんとうの「緑」の人間になってしまったら、この映画の結末は違った形になったかもしれないが、この映画の作られた1957年には、そういう思想もなかったしなあ。
 まあ、一方に、人間の力を超越した緑の自然があり、他方に、人間の「精神論」の世界があり、そして「精神論」には日本とイギリスの武士道と騎士の精神論があり、またアメリカの平民(?)精神論があり、その対比があるということなのだろう。
今から見ると、その人間観(国民観?)はいささか図式的だ。
そのせいもあると思うのだが、やはり、デイヴィッド・リーンのとらえた緑の力が一番印象に残る。人間はかわるが、自然の力、人間を超越する非常な力はかわらないということなのだろうか。




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北川透「第三の男へ」

2010-02-16 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
北川透「第三の男へ」(「現代詩手帖」2010年02月号)

 北川透「第三の男へ」には「わたしはことば。」ということばが出てくる。「ことば」になりかわって北川が語っている--というのが、まあ、ふつうの読み方なんだろうなあ。でも、私は、面倒くさいので、そんなことは考えずに、これは文字通り「ことば」が語っていることなんだと思って読む。
 では、そのとき北川は?
 知りません。そういうことを考えるのが面倒だから、しない。いいじゃないですか。ここに書かれていることが、ことば自身によって書かれたことばだとしても。詩は、もともと誰のものでもない。ことば自身のものでさえない。
 ことばは、そう語っている。

 ことばがことばの生きた肉体を失い、ただの音、孤立した線と点、単純な木片と枯葉になってしまうこと。いつも詩のことばは、その領域に憧れると共に怖れているのではないかしら。

 でも、むずかしいねえ。「ことばがことばの生きた肉体を失い、ただの音、孤立した線と点、単純な木片と枯葉になってしまうこと」ということばの「意味」が、ことばを「ただの音、孤立した線と点」にはしてくれない。ことばは「意味」に犯され、どのことばにどの「意味」を刻印するかによって、作者が特定されたりする。また逆に、どのことばから「意味」を剥奪したかということによっても、作者が「特定」される。
 ことばは、「ただの音、孤立した線と点」という「無意味」にあこがれ、詩人もそれに加担しようとするけれど、それは永久に実現しない運動だ。
 永久に完成しない、実現しないからこそ、それをやるのだ--などと言ってしまえば、精神論という「意味」につかまってしまう。

 いま、ことばは、とても面倒な「領域」にいるのかもしれない。もちろん、その面倒な「領域」というのは、ことばに対して敏感な人だけにしかわからないことかもしれないけれど。
 そして、その面倒くささは、どういえばいいのだろう。まさに逆説になってしまうのだけれど、ことばが「流通言語」から解放されて動きはじめたから、つまり、ことばが、ことば自身になりはじめたから、
 詩人の側から言えば、詩人が、ことばを「流通言語」から解放し、ことばに「自由」な動きをとらせることに成功したから、
 でもある。
 ことばが「美しい抒情のことばを欲情」し、そのなかで一体になっているときは、まあ、こういう問題は起きなかった。こういう面倒くさいことは起きなかった。
 けれど、ことばが「美しい抒情のことば」といったいになって、固定化されることに対して、詩人が疑問を感じ、ことばを「美しい抒情」という「意味」から解放しなくては、そうしないと、「いま」「ここ」におきている「こと」が語れないと気づき、ことばを「意味」から解放するためにあれこれやりはじめたところ、うーん、面倒くさいことになっちゃったんですねえ。
 「美しい抒情」以外に、なにに欲情すればいい? ことばは、告白しています。

ことばの本性を知らないの? もちろんそれは限りなく淫蕩ということ。わたしは老いさらばえているけど、誰とでも寝るもんね。ことばは女の振りをしようが、男の振りをしようが、両性具有に決まっています。男女両性器や中性器を持ってるだけじゃない。鳥類だって、魚類だって、獣類だって、草木類だって、かちんこの鉱物だけは御免蒙りたい気もするけれど、やわらかくてあったかい相手でさえあれば、想像上の動物とだって、威張りくさっているカミさんとだってやっちゃうよ。見て、見て、この変幻自在な精妙極まりない性なる器械を。誰の種なのか精子なのか分かんない、処女カイタイがいちばん気持ちいいのよ。ねぇ、マリア様。

 あ、どう説明すれば論理的(?)になるのかわからないけれど、このことばの暴走。そこに、なにが見えます?
 私は、このことばを引用しながら、ことばの「肉体」を思い浮かべていた。ことばには「肉体」があるということを、あらためて思い浮かべていた。ことばの「肉体」が、「性」とセックスを「欲情」して、集めてしまったことばが、ここにあるのだ。
 「ことばがことばの生きた肉体を失い、ただの音、孤立した線と点」になってしまうことをあこがれながら、他方でそれを拒絶するように(怖れるように、というのが北川のことばだったが)、ことばはどこかで「新しい肉体」を求めている。「新しい肉体」になろうとしている。

 ことばは、古い「肉体」を捨て去り、「新しい肉体」に生まれ変わろうと欲望している。もしそうなら、詩人は、そのための「産婆」をつとめなければならない。「産婆」であるべきだ--と北川は言うだろうか。ことばは、北川に「産婆になれ」と要求するだろうか。たぶん、そうなのだ。北川は「産婆になれ」ということはに突き動かされて、ことばを追いかけている。
 そして、その新しく生まれ変わろうとすることばを追いかければ追いかけるほど、ことばがことばの奥でかわしている「脈略」のようなものが見えてくるのだ。きのう読んだ陳黎の詩のなかに「気脈を/通じ合う」という表現があったが、ことばの奥にはたしかに「気脈」がある。

 ああ、これが問題。

 「気脈」の通じていないことばが交錯する詩はつまらない。けれど、「気脈」が通じていることばだけが寄り集まっては、単なる「古典」の復活になる。「古典」を破壊しながら、新しい気脈を準備しなければならないのだ。
 「新しいことば」に生まれ変わるとは、「新しい気脈」をことばに通わせるということなのだ。
 いちばんてっとりばやい(?)気脈の通わせ方は、セックスを利用すること。気脈が通じていなくても、「肉体」が通じてしまえば「気脈」ができあがるということも起きたりする。だからこそ、そこでは「乱交」がおこなわれるのである。
 でも、それで、ほんとうに「新しい肉体」としての「ことば」は誕生する?
 誕生したり、しなかったりする。胎内で肥大化して死産ということだってある。だからこそ、「産婆」が適切な処置をしなければならない。
 ことばは、北川の「産婆術」にすがっている。ことばの悲痛な声を聞きながら、北川はことばを取り上げる。--ことばと北川の、交渉が、そのまま、今回の詩になっている。あたたかい血を浴びて、ことばが、その交渉から頭をのぞかせ、産声をあげる。

夢の中の路地、揺れてる。揺れてる。
黒い巻き毛の髪燃え、プラスチックの顔から、白煙。
夢の中の路地、焼け焦げたハイヒール。散乱するハンドバック。
あんた、婚礼くらいしとけばよかったんじゃん、自爆する前。
夢の中の路地、遂に深夜、闇の帳の降りた海峡に、
忘れられた時と場所を包み込んだ、大きなビニール袋の、
「一九七二年の幽霊船」が、ぼんやりと姿を現す。
巨大な抹香鯨、暴れる海獣が……

 この「最終連」は「おわり」ではない。「はじまり」だ。この「はじまり」にことばがやってくるために、それまでのことばの消尽が必要だったのだ。「過程」など省略して、「はじまり」だけ書けば? というのは、「意味」と戦ったことのないことばの言い分だろう。「意味」とたたかいつづける北川と、そのことばにとって「はじまり」と同様に、その「過程」こそが詩であるのだ。




谷川俊太郎の世界
北川 透
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