監督 デイヴィッド・リーン 出演 ウィリアム・ホールデン、アレック・ギネス、早川雪洲
デイヴィッド・リーンの特徴は映像の剛直な美しさにある。「戦場にかける橋」を最初に見たのは何年前だろう。30年以上前だ。リバイバル上映で、スクリーンに雨が降っていたが、緑の強烈な印象が残っている。あれは、どのシーンだったのか。それをもう一度見たかった。
途中、橋を破壊にウィリアム・ホールデンたちがジャングルを進むシーン。地上から空を見上げる。黒沢明の「羅生門」のように、密集した葉のあいだから太陽が降る注ぐ。そのシーンにはっとしたが、見たかったのはそれとは別のシーンである。人間なんか(戦争なんか)関係ない――というような圧倒的な緑、その塊りがあったはず(見たはず)だが・・・。
だが、なかなか、現れない。
そして、橋の爆破が終わってしまう。映画が終わってしまう。その瞬間、頭の中に残っていた、あの緑がスクリーンからあふれてきた。橋は破壊され、列車は脱線、転覆、転落し、アレック・ギネスも早川雪洲も死んでしまっている。軍医がとぼとぼと歩く河原。カメラが引いて行き、ジャングルが姿をあらわす――その瞬間の驚き。
驚き、というのは、「戦場にかける橋」の部隊がジャングルなのだからおかしいかもしれないが、私は、知っていても驚く。
日本軍とイギリス軍の、軍人の精神論の対立、規律の確保、誇りの維持――そういう人間のドラマを見つづけていて、舞台がジャングルであることを忘れている。「主役」がジャングルであることを忘れていた。「主役」がジャングル――というのは、もし、そこにジャングルがなかったら、橋の建設そのものがないからでもある。進行を阻む、ジャングル、クワイ川――それがあってはじめて、そこに人間が登場し、労働する「意味」が生まれる。「主役」は人間であるより、ジャングルなのだ。
デイヴィッド・リーンは、このジャングルを、ほんとうに美しく、完璧にスクリーンに定着させている。最初にこの映画を見た時そう思ったが、今回も同じ感想を持った。人間のしていることは、この絶対的な緑の前では、とてもささいなことだ。ジャングルの緑と太陽は、人間が展開する精神の愛憎劇など気にしない、鉄道建設も、破壊も、(緑の破壊さえも)、気にしていない。圧倒的な生命力で、すべてを飲み込んでゆくのだ。
あ、緑について書きすぎただろうか。でも、やはりジャングルの緑があっての映画なのだ。
どのシーンも、非常に剛直な美意識に貫かれている。構図が非常にかっちりしており、カメラのフレームのなかで役者がきっちり演じる。役柄もあるのだろうけれど、アレック・ギネス、早川雪洲は、肉体(言葉を含め、その動きそのもの)がしっかり屹立している。ウィリアム・ホールデンは対照的に、「自然」というか、だらしない力を具現していて、そのアンサンブルは、精神論と緑の対立のようで面白い。
ジャングルの村でウィリアム・ホールデンが助けられるのは、彼が「精神論」の人間ではなく、「緑」の人間だからである。
もし、ウィリアム・ホールデンがほんとうの「緑」の人間になってしまったら、この映画の結末は違った形になったかもしれないが、この映画の作られた1957年には、そういう思想もなかったしなあ。
まあ、一方に、人間の力を超越した緑の自然があり、他方に、人間の「精神論」の世界があり、そして「精神論」には日本とイギリスの武士道と騎士の精神論があり、またアメリカの平民(?)精神論があり、その対比があるということなのだろう。
今から見ると、その人間観(国民観?)はいささか図式的だ。
そのせいもあると思うのだが、やはり、デイヴィッド・リーンのとらえた緑の力が一番印象に残る。人間はかわるが、自然の力、人間を超越する非常な力はかわらないということなのだろうか。
戦場にかける橋 デラックス・コレクターズ・エデション(2枚組) [DVD]ソニー・ピクチャーズエンタテインメントこのアイテムの詳細を見る |